パンチの独り言

(5月9日〜5月15日)
(見栄、個の力、応援、無理、決、上に立つ、後ろ盾)



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5月15日(日)−後ろ盾

 国の行く末を案じる中では勿論、身近な場所でも重要と考えられていることの一つに、組織を動かす上で、上に立つ人間が果たすべき役割がある。彼らが備えるべき能力は、多種多様にあるけれど、中でも、最重要とされるのは決断力だろう。最終決定を担うのは、頂点に立つ人間しか居ないからだ。
 これほど明白な事でも、何かある度に取り上げられる所を見ると、多くの場合に、それが実現できていないことがわかる。何故、明らかなことがやり遂げられないのか。能力が無いから、と言ってしまえば、まさにその通りなのだが、それでは、何も見えてこない。無能な人が、何故、その地位に就いたのか、選ばれたのは何故か。その一方で、有能な人として選ばれた筈なのに、いざ、役を果たそうとした途端に、上手くいかなくなるのは何故か。こんな疑問が並んでも、答えは簡単には見つかりそうにもない。歴史を振り返れば、そういう問題が起きなかった時もあり、そこから学ぶことは沢山ある筈だが、人の違いと片付けられ、結局、適切な人材を待つしかなくなる。これでは、一度始まった暗黒の時代から、容易に抜け出すことができず、不平不満が募ろうとも、我慢を続けるしかなくなる。選んだ責任、と言われてしまえば、反論することが難しいだけに、人ではなく、何か組織が備えるべき仕組みを、考え出さなくてはならないのだ。組織の仕組みに関しては、十分に考えた末のものであり、何か、画期的なものがあるとは思えない。となれば、更に複雑な仕組みを編み出すのではなく、現状に少しの違いを採り入れるだけで、片付ける工夫がありそうだ。意外に思われるかもしれないが、上に立つ人間が、決断の為に孤立するのではなく、それを導く段階を支える役目を、少数の人間に頼るのも、一つなのかもしれない。

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5月14日(土)−上に立つ

 昔、ある野球選手が、「上がアホやから」と発言して、物議を醸した。団体競技では、各個人の考えが反映することはなく、上の指示により全てが決められる、と言われる。その中で、その競技を生業とする人々には、個人主義が当然と考えられ、自分の意見が通らないことに、苛立ちを示した為と言われる。
 真偽の程は定かではないものの、一貫性のない指示や、猫の目のように変化する状況に、指導力の欠如ばかりか、人間性を疑わせる事態となっていた。勝負事では、勝ち負けが全てであり、個々に成果が得られたとしても、負けて仕舞えば意味がない。そこへ、こんな言葉を浴びせられては、後ろめたさを隠す為に、強権発動となるのも当然だったろう。恥晒しと言えば、その通りに違いない。だが、窮地に追い込まれた人間にとって、冷静な判断は下せなくなる。上に立つ人間が、不安を口にしたり、悲劇的な筋書きに基づく、仮定の話を繰り返すと、その下に居る人間からの信頼は、失われてしまう。判断力の欠如は、失われつつある信頼にも、気付かぬ状況を招き、下から見れば、迷走や暴走を繰り返すこととなる。本人は、自らの変調にも気付けず、冷静な判断も下せなくなっているから、唯一の選択は、退陣ということになる。だが、人間の性というものは、こういうところでも、理解不能の行動を生じるようだ。破滅への道を邁進する、としか映らない状況で、まさに、それをし続ける。本人の破滅は致し方ないものと言えても、それによって組織が受ける被害に、多くの構成員は納得できる筈もない。阻止する為の手段は、各組織に備わっている筈だが、それを起動するとなると、また、面倒なことが起きそうだ。とは言え、やるしかない事態となれば、やはり動くしかないのではないか。

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5月13日(金)−決

 議決とは何か、と思うような言動の人が、誰でも周囲に一人や二人居るのではないか。そんなに少なくない、と思う人も居るだろう。民主主義とは何か、多数決とは何か、そんな疑問が浮かぶ程、意味不明な発言を繰り返すのが、この手の人々の特徴だろう。反対したからというのが、常套句なのだ。
 決を採る、という行為に、どんな意味が込められているのか、連中が理解することはない。もし、その議題が、問題を生じるものと、信じているのであれば、万難を排してでも、賛成派を説得する必要がある。その努力もせず、何事に関しても安易に考える人の多くが、後になって問題が起きそうになると、自分は反対していた、などと宣うのだ。たとえ、そうしていたとしても、一度多数決により決まってしまえば、それが組織の決定となる。無能な人に限って、こういう言動に、何の違和感も抱かない。それよりも、自分の発言は常に正論であると信じるようで、現実には、首尾一貫のないことにさえ、気付いていないのだ。判断力も備えず、そんなことを繰り返す人に、周囲は振り回されることとなる。更に、この問題を大きくしているのは、話題となる人物が、総じて、権力を持っているからであり、代表者としての責任を掲げ、横車を押し続ける。迷惑千万とは、まさにこのことかと、周囲は思い知らされるが、その人物をその地位につけた責任は、組織全体にもあるのだ。弾劾措置が、話題となる国もあるが、それと同じようなことは、多くの組織で現実に起きている。期待を込めて選んだ筈が、裏切られる結果となった時の、唯一の解決法と見做されているが、やはり、選んだ責任は無くならない。多数決とは、常に、そんな問題を含んでいることを、皆が認識せねばならない。

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5月12日(木)−無理

 不安を口にする人の多くが、脆弱な根拠をもとに、過剰な反応を示していることに、何度も厳しい批判を繰り返してきた。その原因として、情報の真偽を吟味する力や、論理的な思考を進める力が、殆ど備えられていないことが、最も大きいと指摘したが、これは社会的な弱者に限られた話ではない。
 例えば、政に携わる人々の迷走ぶりは、例を挙げずとも、納得が得られるだろう。彼らの思考回路は、愚民達のものと酷似しており、冷静な判断が必要な場面で、愚かな行動を繰り返すこととなる。こんな指摘をしても、多くの人は、政治家の資質に疑いを抱いており、こんなことも当たり前と思うのではないか。同様に、人に物事を教える立場の人々には、吟味や論理が必要不可欠であり、感情ではなく、冷静な分析により、判断を導くことが求められる。だが、ここでも、怒りや不安に囚われた人々が、過剰反応を繰り返し、子供や若者に、悪影響を及ぼしている。相手とする年齢に応じて、能力も高まると考える向きもあるが、現実は、大した違いもなく、根拠のない不安を口にすることで、自らを弱者の一員と見做そうとする。高度な研究や教育に携わる為には、吟味力や論理力が不可欠と思われるが、私利私欲を満たす為に、捏造や改竄を繰り返す輩が出てくるなど、劣化が著しく進んでいるように推測される。これに輪をかけているのは、自らを弱者と見做す考え方で、それが不安に結びつくと思っているようだ。本来求められる筈の、本質を見極める能力も、こうなった人々は、全て失ってしまったようで、無能な愚民との区別がつかなくなる。となれば、彼らの役割は何なのか、疑問に思う人もいるだろう。本来の役割を果たせず、根拠なき不安を口にするだけなら、退くことこそが、唯一の道筋だろう。当人達が、それだけの認識を持っているかは疑わしく、弱者であることを意識するなら、居座るに違いないのだが。

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5月11日(水)−応援

 報道の役目は何か。今更こんなことを取り上げて、何を伝えたいのか。正しい情報を伝えることなく、不安を煽るだけの話を、実しやかに伝える人々に、怒りを通り越して、呆れるばかりとなるのが、現状のようだ。情報操作の新たな手法を編み出すことに、あれほどに熱を入れる姿に。
 情報の真偽を確かめずに、印象の強さだけで選別した結果、後の検証では、嘘吐きとしか思えない言動には、既に、信頼などという言葉は、当てはまりそうにない。そんな人々が、時に熱を上げることがあるが、今回のも、その一つに挙げられるだろう。テロ組織の宣伝に手を貸しているとは、微塵も思っていないだろうが、現実は、広報の為の手立てを与えているに過ぎない。そんな印象を持った人々に、散々批判された結果か、ある時期を境に、急激に伝える内容が減り、名称を変更するなど、表面的な捉え方だけとなった。あちらが減れば、こちらが増えるのか。悪の枢軸と揶揄された国の、自己中心的な活動を、連日連夜取り上げ、ここでも、歪曲された人格から生まれる、身勝手な主義主張の宣伝に、手を貸しているとしか思えない。偏りのない報道を心掛けるとは、彼らが常々口にする言葉だが、舌の根も乾かぬうちに、著しい偏向を誇示しようとする。判断がつかぬほどに、能力が低いのか、はたまた、それこそが役目と自認しているのか、真意は掴めないが、やっていることは、テロ組織の時と、何ら変わらない。意識的にせよ、こんなことを繰り返せば、媒体としての役割は失われ、人の目や耳が集まらなくなるのも、当然の帰結となるだろう。社会全体に、そんな状況となる中で、個々の勝手な論理が、罷り通るような事態に、誰が損をするのか、真剣に考えた方がいい。

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5月10日(火)−個の力

 間違った方に向かっているのに、何もしようとしない。そんな人の多くは、自らの判断が正しい、とも思っていないようだ。間違いと思っても、一人で判断できる訳でもなく、他の人々を説得する意欲もない。そのまま放置すれば、流れは止まることなく、誤った方に向かい続ける。
 結果を予測できなかった訳でもないから、予想通りとの反応を示す場合もあるが、だからと言って、責任が全くない訳でもないだろう。にも拘らず、そう思っていた、という態度を取る人の、心理は理解できない。組織の一員として、他の人と同じような責任を負う筈が、当人の中では、全く違った見方があるようだ。しかし、常識から判断すれば、実は、薄々でも知っていながら、何もしなかったのは、更に罪が重いのではないか。そんな指摘をすると、感情的な反応が返ってくる。本人は、感じていたとしても、全体の流れから、逆らうことが難しかった、との言い訳を並べる。だが、悪い結果を回避する為に、何ができるかを考えれば、放置するという選択は、無かった筈である。それができないこと、あるいは、それをしなかったことには、もっと強い責任を感じるべきではないか。それを正反対の反応を示すのは、所謂、正当化の一種を示しただけのことで、本質を理解した結果とは言えないだろう。説得には力が必要だし、反論には勇気が必要だろう。だが、その努力を惜しんだり、それらを持ち合わせないとなれば、悲惨な結果が導かれる。そこに、責任がないとするのは、非常識だろう。個人の力と組織の力が、全く違ったものとの解釈が、最近は多くなっているようだが、そこに大きな間違いがあるのではないか。個々の力を合わせることで、集団の力が発揮される。そう考えれば、自分が何をなすべきか、自明となるだろう。

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5月9日(月)−見栄

 広報の為の手立ても、昔ならば、組織の力で作り出していたが、今は、外部委託が当然と見做される。金をかけずとも、それなりのものは出来る、と言われたのは、遥か昔のことらしく、今や、金にモノを言わせて、関心を引くものを作るべき、と言われる。本当にそうなればいいのだが。
 見栄えの良さを求める為には、専門とする人々に任せるべき、という考えが間違っている訳ではない。だが、見栄えとは何か、を問わずに、すぐに丸投げする人々には、訴えるべき事柄が、認識できていないのではないか。一方で、顧客のニーズと呼ばれるものに、戦々恐々とする姿には、その実体を見極める力は備わっていない。となれば、自分達で工夫して、何かを訴えることは、ほぼ不可能となる。だからこそ、予算を確保し、分かっていると主張する人々に、任せるしか方法はない。だが、自分達で考えることができ、それによって内容が整えられる、という組織もあるだろう。こちらに欠けているのは、所謂見栄えだけなのだが、これがまた、未確認の怪物のようなもので、確実な解決策は、ないと言われている。文字だけの訴えは、たとえ中身が伴っていても、受け手の関心を引かないとは、よく言われることだが、画像や図で訴えることは、一目で判断できるとはいえ、細かな部分は、受け手任せとなりかねない。分かり易いと言われることの多くは、実は、誤解を招き易いという負の面を持ち、時に、そちらによる悪影響が、名を汚すこととなる。広報が、そんな結果を招いては、元も子もなくなる。ここは、見栄えより中身、という原点に戻ってはどうか。見栄えに惹かれる人には、中身がないとも言われるようだから。

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