物事を批判的にばかり取り上げていると、周囲から冷たい視線を送られる。冷静な分析をする人間にとって、当然の行為が、このような形で捉えられるのは、心外なことである。ここは一つ、逆の見方をしてはどうか。批判を嫌うあまり、誰の言葉も信じることにしたら、何が起きるのだろうか、と。
今更論じるまでもなく、鵜呑みにする行為は、時に、破滅を招くこととなる。信じていたのに、などと嘆息を漏らしても、失ったものは戻らない。その代わりに、相手の言葉に疑いを持ち、問題点を指摘すれば、自らの失敗を避けるだけでなく、相手の失敗も防ぐこととなる。だが、これは、そう簡単に成し遂げられることではない。何故なら、厳しい批判に晒されて、自らの過ちに気付き、考えを改めるのは、容易なことではないからだ。文句ばかり並べ、生産的なことは何もない、などと揶揄されるだけで、批判の意味を汲んでくれない。正論を述べているだけが、邪魔をしていると受け取られては、無意味なばかりか、反発を招くだけである。だが、そういう人が、どんな組織にも必要だということに、気付かぬ人の集まりは、結局、没落していくしかない。国がそうであれば、滅ぶだけだし、企業がそうであれば、潰れるだけだ。その点に気付かぬ人は、最近とみに増えているように感じられる。安定が、人の心に隙を作り、失敗しても、大した被害も受けない。その割に、不安を口にする人の数は減らず、馬鹿げた騒ぎだけとなっている。此の所話題となっている首長の話など、余りの下らなさに、価値を見出せない。その中で、卑しい心の持ち主が、第三者にと、思いつきで発した言葉に、的を射た質問はなかったようだ。金銭感覚のなさを指摘するなら、その経費はどこから、とでも聞いてみればいいだけなのに。
懲りないからなのか、それとも、不安に苛まれるからなのか、どちらにしても、また下らないことに精を出すらしい。一面トップに踊る文字に、人々はどんな印象を覚えるのか、食堂が客の要望に応えようと、新商品を編み出すのと似て、これで人気を保つことができる、とでも思っているのか。
教育現場の荒廃ぶりに、様々な批判が浴びせられる。そこで的となるのは、課題を直視せず、その対応が手遅れとなる問題で、山積する課題に、現場の混乱ぶりが批判される。一見当然の指摘に思えるが、実は、甚だしい的外れであり、こんな対応が繰り返された結果、課題への対応だけでなく、本来の役割さえ果たせぬものが出来上がった。重要な課題を解決するのが、なぜ悪いことなのかと、訝しむ人も居るだろう。実際には、目の前のことしか見ず、足元が危うくなりつつあることに、気付かぬ人々は、教育とは何か、という本質的な問題に、取り組む姿勢を失ってしまった。結果は、関心を呼ぶための方策を並べ、魅力的に思える試みを、大々的に喧伝することとなり、手間だけでなく、金の無駄まで招く始末となる。客の要望という食堂と同じ状況は、大学にも表れており、学生に必要なものを与えようと、様々に工夫を凝らす。これだけ読めば、何が悪いのかと思えるが、それが、教養や知識を身に付けるのでなく、職を得るためとか、働き方を覚えるとなると、職業学校なのかと思えてしまうのだ。ミスマッチなどと、問題点が指摘されるが、それを避ける為と称して、職業体験をさせるという提案が、何故に、最大の話題と取り上げられるのか。困った問題を解決する為のものだから、などと主張する人々は、教育の本質を見失い、愚かな人々の要求に応え、不安を解消しようとする。本来の責務を見失い、人気取りに走る人々に、大衆は諸手を挙げて賛成するのか。やれやれと思うしかない。
目の前の問題を解決していけば、その先が見えてくる。そんなことを信じて、生きている人は多いと思う。以前なら、そんな考えでも、どこかで先を読む力がつき、目前のことに専念していても、先との関係を見抜けるようになったものだ。だが、今は、どうも様子が違うらしい。
安定した時代に、将来も同じことが繰り返される、という考えが定着し、目の前の問題に取り組む際も、それだけを考えるだけで、先読みは無駄と切り捨てられている。となれば、力をつける段階はなくなり、いつまでも、近視眼的な考えが改められることなく、手近な解決を目指すだけとなる。それでも、一つ一つを片付ければ、何とかなるのでは、と思うのは、昔を知る人だけであり、今を生きる人々の多くは、先が見えないとの不安を抱く。ここには、大きな矛盾があり、歴史が繰り返されるのだから、自分の生き方も、誰かのものと同じとの考えが、大きな割合を占める一方で、目の前しか見えず、先を見通せないことに不安を抱くのだから、どこかおかしな論理を展開することとなる。実は、それぞれに、都合のいい考えを通しているだけであり、その矛盾に気付かぬことに、大きな問題がある。同じになるなら、何も考えずに、歩み続ければいい筈が、そうならないのではと、一抹の不安を抱くことで、何をすべきかが見えなくなる。外的な要因ではなく、内的なものだけに、誰かの助けに期待することもできず、自分で解決しなければならない、という点も、この問題を大きくしている。目指すものが何かさえ、見えなくなっていることに、気付いたとしたら、何かしらの解決策を、講じるべきではないか。そんな考えが、糸口となるのではないか。
情報の真偽を見極めることが重要と、何度も書いてきたが、その為に必要な手立てに関して、確実な指針を示すことは難しい。こうすれば、騙されずに済む、などと書くこと自体は、何も難しい所はないが、それを読んで実践したからと言って、謳い文句通りの展開となる訳でなく、人それぞれの結果となる。
迷える子羊かどうかは怪しいとしても、戸惑い、狼狽するばかりで、的確な判断を下せない人々は、他人と同じであれば、問題なしと受け取るようだから、こんな手立てが、他人を出し抜いたり、賢く生きる為の道具となっても、それが確実なものでなければ、関心を呼ばないようだ。教育を受けていた時代には、何が正しくて、何が間違っているのかを、自ら判断するより、教師がそれを指摘することが、当然となっていた。その環境に適応した人間にとって、自分で何とかするという課題は、恐ろしく大きく難しいものと映るようで、皆が、その壁の前で、ぶつかることを躊躇する姿がある。登るべき梯子が見つかれば、その方が良いに決まっているが、それが壊れないものかはわからず、間違った場所に上がることになるのか見えない状況では、そのまま、壁の前に立ち尽くしていた方が、良いように思えるのも仕方ないことだろうか。自己判断を鍛える為に、必要なことを一つ挙げるなら、理解するという段階を、経験することしかないだろう。誰かが判定してくれた時代と違い、社会に出てしまうと、他人の判断を仰ぐことも難しくなる。最近の傾向として、教育現場が下から上まで、全てが教えて貰えるようになり、その結果、自分の考えを持たぬ人間が、社会に進出することとなっている。これでは、一人では何もできない、人間ばかりとならないか。
子育てにおいて、叱ることではなく、褒めることが大切との考えが、持て囃されたことがあった。個人の才能を伸ばす為に、厳しい指摘を繰り返してきたことからすれば、全く違う考え方に、当時は戸惑う人が殆どだった。背中を見て育つ、と言われる中では、振り返って褒めろと言われても、ということだ。
それが追い風として得たのは、所謂ゆとり教育と呼ばれるもので、負荷を軽減することで、能力発揮を促すという考えに基づくものだが、的外れとの評価を下され、再び、正反対へと進み始めた。だが、ゆとりの中で育った人々には、褒め言葉が必須とされ、それを施すことで能力が伸びると、未だに信じられているようだ。教育現場での不備を、社会が補うのは、当然のことなのだが、対症療法ではろくな結果は望めない。ある意味、負の考えに基づく対応では、悪くなることはないが、良くすることができないからだ。あの教育方針が、厳しい批判にさらされたのは、評論家たちが長い目を持っていたわけでなく、場当たり的な考えに基づくものだったが、そんなこととは無関係に、教育の影響は、とてつもなく長い期間に影響を及ぼす。一度踏み外すと、元に戻ることは難しく、それ以上転げ落ちない為に、様々な工夫を施すことはできても、好転させるきっかけさえ掴めぬ時代が続く。現状は、それを如実に表しており、悪影響を受けた人々への対応が、社会全体を歪ませることとなり、生じた歪みがそれ以上に広がらないように、様々な手立てが講じられたとしても、それは、改善に向かわせることにはならない。その中で、活躍する人々は、概ね、持て囃される方針とは無関係に、家庭や周囲から教育を受けてきた人達で、自力で解決することが、当然の考えとなっている。現場では、気付かぬふりを決め込むようだが、やはり、家庭環境の影響は、こんなところに強く残るのだ。
情報の重要性を強調する中で、統計手法の問題が取り上げられる。そこでは、統計を利用して、自らの主張を確かなものにすることが、情報社会では不可欠であるとの話がある一方で、そんな処理を施した情報の中には、不正なものが多く、如何に騙されないかが重要との話もある。
何らかの主張が含まれる話で、統計処理を施したものの場合、その多くが、元の数値が見えないようにされている。統計で話をするのだから、データそのものは不要との考えもあるが、統計の多くは、そこが見えるかどうかで、信頼できる処理かの判断ができるだけに、作為的な処理と見做すべきなのではないか。にも拘らず、報道は結果のみを伝え、その信頼性に関して論じることは少ない。特に、強い印象を与える結果の場合、それだけを伝えることにより、更なる強化を目指すことが多く、処理が不正であれば、何の根拠もなく、印象的な話がでっちあげられることになる。困ったものと思うものの、報道に携わる人々の水準の低さは、今さら指摘するまでもなく、こんな場面で、検証を施すことを条件付けても、おそらく無駄に終わるだろう。では、こんな風説に振り回されないようにする為には、どうすればいいのだろうか。たった一つだが、確実な方法があることに、気付いていない人は多い。それは、自分自身の判断を磨くことだ。これまでにも、吟味力について取り上げてきたが、これを身に付けることで、いい加減な情報や、作為的な情報処理に気付き、その不正を見破る能力を高めるのが、確実な方法なのである。どうやれば見破れるか、などと悩む人も多いが、まずは、先入観を持たず、情報に接することが第一だろう。特に、最近の傾向として、問題とされているのは、不安や不満が心を占めていて、その中で判断して、過ちを繰り返すことだ。ここで、自分の心を見つめ、そこから、経験を積み上げていけば、それなりの判断力は獲得できる筈なのだ。
予想外の展開に、不可解と思った人も居るだろう。不況からの脱却に、最も大きな役割を担っている業界で、様々な不正が発覚する中、ある企業の場合、燃費と呼ばれる重要な数値に、改竄が行われたと報じられた。この不正は、単に買う人を騙すだけでなく、税制を誤魔化すという形で、国を騙した。
そんな行為が及ぼした影響は、かなり大きなものとなる。特に、金銭的な優遇を、好むという消費者心理を利用したことが、企業に対する印象を、失墜させる結果となり、報道後の売り上げの下落は、当然とはいえ、深刻なものとなった。このきっかけを与えたのは、別の企業であり、件の企業が製造したものを、自社の商品として売っていたが、実測値との格差を指摘したと言われる。一種当然の行為なのだが、それがこのような展開となるとは、どちらも予想しなかっただろう。その中で、供給を断るという選択がなされると、一部では推測されたが、現実には、全く別の選択がなされ、株式を大量に買い込み、子会社化を図るというものだった。業績の悪化が確実なものとなり、企業の存続さえ危ぶまれる中で、傘下に入れようとする選択は、無謀なものと映ったようだが、果たしてそうなのだろうか。様々な車を売り、その性能を売りとしていた企業は、今回の不正が、初めての話題ではなく、以前に、企業体質を疑われるような不正を行っていた。その中で、またか、という指摘は、厳しいものであり、信頼回復は、困難を極めると言われていた。だが、協力体制が出来上がれば、全く違う展開が予想できる。特に、親会社となる企業が、低迷する業績から、外国人社長の就任から、一気に回復した過程を思い起こせば、それを難しいと考える必要は、無さそうに感じられる。とすれば、今回の展開は、勝算のあるものであり、無謀なものとは言えない、となる。まさに、良い買い物をしたと言え、そのきっかけを思うと、不可解と思えないこともない。