パンチの独り言

(5月23日〜5月29日)
(廃り、頑迷、告発、謝罪、要件、言い争い、抑制)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



5月29日(日)−抑制

 欲の皮が張っている人は、古今東西、様々に批判や揶揄を受けてきた。単に欲しがるだけでなく、味をしめてくると、他人を押し退けてまで、自分の欲望を満足させようとする。その強欲さに、人は呆れ、罵声を浴びせた訳だ。だが、その対象は、昔から、欲を満たす為に、財を築いた人に限られていた。
 では、最近の傾向はどうだろうか。強欲な人でも、そんな批判を受けないことがある。それは、社会的弱者と呼ばれる人々で、彼らの要求は、非常識と思えるものでも、通ってしまうことさえある。満たされぬ人間たちの、欲望を満たせてやろうと、強い立場にある人々が、腐心するようだ。権力の源が、人心にあるとすれば、弱者にも権利があり、その割合が不均衡だけに、彼らの心を捉えることは、現代社会の命題となっている。その中で、欲望から出た要求は、次々に突きつけられるが、社会はそれに応える必要があると言われる。弱い者の味方が、必要なことに関して、苦言を述べるつもりはないが、現状を眺めるにつけ、人間の欲望の限りなさに、諦めにも似た反応が、起きてくる。特に気になるのは、手を差し出した人間に、何かを与えると、すぐさま、別の手や同じ手が出てくることだ。尽きない欲望では、何かを得られれば、次を求めるのが当然だが、それが繰り返されたら、何が起こるかは、誰でも分かることだろう。以前であれば、施しが得られるまで、黙り続けていたから、そんな問題が起きることもなかったが、今は、声を出して求めただけに、次も、と思うのが自然となる。こんな図式で、世の中の流れを見てみると、そんな遣り取りが、かなり頻繁に起きていることが判る。例えば、謝れと言われたので、そうしたら、次には、誠意を見せろとなり、金品の要求も、当然の権利となる。人の間での出来事だけでなく、国の間でさえ、そんなことが頻繁に起きるのを見ると、時代がそうだとしても、あまりのことに、呆れるしかない、と思う。思い当たることは、山ほどあるのだ。欲を抑えることが、人として当然ではないのか。

* * * * * * * *

5月28日(土)−言い争い

 人それぞれの考えを、厳しく批判する声があるのは、何故だろうか。多様性が重要であると、一方では主張しながら、他方では、他人の意見を糾弾する。それぞれを尊重し、その中から、より良いものを作ろうとするなら、まずは、耳を傾ける必要がある。相手の意見を、頭から否定するなど、以ての外だ。
 ただ、拒否反応も問題なのだが、信じるあまり、鵜呑みにすることも、避ける必要がある。議論ベタの国民性、と揶揄されることが多かったが、最近は、議論の真似事も増えてきている。でも、その中身は、濃いものとは言えない状況にある。何かを築き上げる為の議論ではなく、相手を言い負かせる為の論理では、何も生まれないからだ。そこでは、相手の意見を正しく理解し、その問題点を指摘するより、気に入らない部分を引き出し、それを攻撃することに、多くの力が費やされる。それを議論と呼ぶこと自体、明らかな間違いなのだが、本質を知らない無垢な人々は、勝負事の一つと受け取るようだ。勝ち負けを競い合うことが、学校教育に採り入れられたことも、この辺りの誤解を、更に強めることに繋がった。馬鹿げたことに精を出した人々は、勝つ為には手段を選ばず、相手の発言の揚げ足取りに精を出す。下らないと断じてしまえば、それでいい筈が、どうも、事は簡単ではないらしい。反論を控え、耳を傾け、正しく理解する。書けば簡単に見えるが、そうでもないらしい。精神的な落ち着きのない人ほど、困難に襲われるようだが、間違いを指摘されることを、攻撃と受け取ることで、心の波風が起き、落ち着かなくなるのでは、どうにもならない。論理を戦わす場で、感情が高ぶるようでは、はじめから、負けが決まってしまう。というより、やはり、勝負事ではなく、正しい結論を導く為の議論、を考えなければならない。

* * * * * * * *

5月27日(金)−要件

 何が評価されるのか、分からないままに取り組むことは、嫌われる傾向にある。要求される点を満たし、その上で、評価を受けたいということのようだが、点取りを目的とする試験以外は、要素を満たすだけでは、限られた能力しか測れなくなる。それに加わる何かが、含まれるかどうかも大切とされる。
 平和で安定した時代が続き、先を見通すことも、それほどには難しくないと、考えるようになった。そこから、傾向と対策の整備が進み、如何に無難にこなすかが、肝心と見るようになった。その一方で、人材不足が問題とされるようになり、今の仕組みでは、将来性のある人を育てることが、難しいと言われ始めた。家中の人々は、無難な人生を望み、その為に、努力を惜しまない。だが、何が要求されているかではなく、どこまで到達できたかが、課題として与えられた場合、こんな努力は、不十分なものと見做されてしまう。折角、要求されるものを分析し、必要な点を満たそうと努力したのに、それが評価されないどころか、将来性が不足すると指摘される。話が違うと言いたいのかもしれないが、自らの可能性を矮小化していることに、気付かないことこそ、大きな問題なのではないか。努力ではなく、結果が評価されるという点についても、若い世代には不評であり、要素を示すことなく、結果が問われるのは心外と言われる。この考え方について、厳しい批判がある一方で、擁護論もある。指示に従う人間を、好ましいと思う人からすれば、要求を満たすだけで、満足が得られるのかもしれないが、多様な業務をこなし、予想外の事柄への対応が求められる場合、果たして、彼らに明るい未来があるのか、かなり怪しいものである。不安とは異なる感覚で、自分の将来を見据える心構えが、求められているのではないか。

* * * * * * * *

5月26日(木)−謝罪

 謝罪はしない、との発言に、大した反響はなかった。戦後70年を経て、誰の責任を問うのか、との問題に答えを示さぬままに、謝るかどうかが問われている。被害者という意味では、何の変わりもないのに、なぜ、これほどに反応が異なるのか。そんな疑問を呈したら、即座に激しい反応があるだろう。
 そこにある論理は、被害者と雖も、加害者の中に含まれる場合には、同じに扱う必要はないというもので、更に極端なものでは、自業自得の結果であり、最後の結果が悲惨だからといって、それを被害と呼ぶとは何事、ということだ。この論理の違いは、立場の違いからくるとされるが、身勝手な論理を得意とする人々は、こっちを見るのと、あっちを見るので、違う色の眼鏡をかけるのだから、反論も無駄と見るべきか。こんな状況では、まともな議論は無理であり、互いに、意見を出すだけとなる。なのに、説得を試みるとか、受け入れて貰うとか、何やら、呑気な話をする人々が居る。彼らが何を望んでいるのか、見えてこないだけに、それを論じることも、無駄に思える。ただ、こんな輩が、報道に携わったり、画面でしたり顔を晒したり、という現状は、世論を曲げる結果ともなる。ここでも、議論の余地はないようで、結局、互いに意見を出し、それで終わりとなっている。過去の過ちから学ぶべきものがあるのは、事実に違いないだろうが、それに対する反省が、どんな形で行われようとも、当人達にとっては、学ぶことに変わりはない。にも拘らず、雑音に惑わされ、服従するかの如くの態度をとる。これは、明らかに異常な状態ではないか。どんな事情や背景があるにしろ、行為そのものを認める以外に、自らの立場を守る手立てはない。上に立つ人間にとって、正当化とは、何と魅力的で、難しいもののようだ。

* * * * * * * *

5月25日(水)−告発

 裸の王様、と揶揄される人が、いろんな所に居る。騙されても、それに気付かないばかりか、周囲は、それに対して何も進言しない。上に立つ人間が、陥る典型として、紹介されることは多いが、果たして、正直者の子供の如くの人は、登場するのだろうか。無難に生きるのに、そんな勇気は必要ないか。
 正直なのか、勇気なのか、肝心なことはわからないが、正しい意見を発した時の、周囲の反応が、その言動を左右しそうだ。上への反発と受け取り、処分を下すような組織では、こんなことは起きる筈もない。もし、そういった安全装置が欲しいのなら、それを据え付けられる環境を整える必要がある。だが、現実は、それほどには簡単ではないようだ。表面ではそうなっているように見えても、実際には、感情的な言動が優先されるようでは、反感を買うことを恐れて、誰も、正直には振る舞えなくなる。そんな時代には、告発という方法しか残っていない、とも言われるが、本当にそうなのだろうか。組織が腐敗しているから、組織の為にならないことも、致し方ないとの見方もあるが、正義を押し通す為に、母屋が崩れてしまっては、元も子もなくなるのではないか。そんなことを考える余裕などなく、放置すれば崩壊に繋がるのだから、外部に依存することも止む無し、との解釈も、釈然としない部分がある。特に、報道では、勇気を持った告発と、それを賞讃する意見が添えられるが、現実には、その後の展開が伝えられることはなく、どんな結末を迎えたのかを知らないままに、そんな解釈をすることが正しいとは思えない。結局、上が愚かな為に、下も愚かにならざるを得ない、ということとされるが、それでは、何の解決も得られない。上も下も、考えるのを止めてはいけない、ということだろう。

* * * * * * * *

5月24日(火)−頑迷

 上に立つ人間が、自分の考えを正しいものと信じることは、組織を導く為に不可欠と言われる。だが、過ちを犯した時、それを認めず、暴走を繰り返すと、その導きは破滅への道へと繋がる。信じることは必要だが、その間違いに気付いてもなお、それを認めずに走ることは、失敗となるのだ。
 では、この展開の分かれ目となるのは、何だろうか。間違えたり、誤ったことに気づいた時に、それを認めることから始めてみることが、重要だろう。それでは、運営に支障を来す、と思う人もいるだろうが、手当てをせずに、遮二無二走り続けることは、傍目には暴走としか映らない。それを繰り返しつつも、繁栄を築いてきた人もいるが、もし、何の反省もなく繰り返してきたとしたら、単に運がいいだけのことだろう。上に立つ者同士の間でも、この際の振る舞いは、注目を浴びることとなるが、実は、過ちを犯した人の、下で働く者にとって、上の処し方が大変重要に思える。勝手な判断を繰り返し、方針を次々に変更すると、一番の被害を受けるのは、下で動く者達であり、彼らへの配慮のない人には、上に立つ資格はないと、下は思うものだろう。それに気付かないのも、資格がないことの証となるし、たとえ、気付いていたとしても、正しく対応しなければ、組織からの信頼は得られない。こんな組織が巷に溢れ、一時的な権力を得て、その維持に夢中になる人間が、沢山居ることに驚かされる。これは、そういった人間の問題というより、組織が抱えている問題と言うべきだろう。組織を運営する為に必要なことは何か、という疑問に答えを持たず、ただ漫然と走り続けることで、現状維持を保とうとする。だが、その過程で選ばれた人間が、過誤を認めない状況は、悲劇を招きかねないことに、気付かない状況に、大きな問題があるのだ。

* * * * * * * *

5月23日(月)−廃り

 流行に惑わされるのは、悪いことと決めつけられない。だが、多数がそれをするから、という理由だけで動いていると、そこに主体性は出てこない。何かを決めねばならない時、主体性は重要な要素となる筈だが、それまでの行動様式で、それを身に付けてこなかったことが、問題となるようだ。
 流行は、所詮肝心な事柄ではなく、下らないことばかりに起きるから、重要な選択の場となれば、別の力が発揮される筈、との意見もあるが、日々の積み重ねが、人格を形成することを思うと、軽率な行動は、直接的ではないにしろ、何かしらの影響を及ぼすのだろう。そんな思いを抱きながら、街を歩いていると、様々なところに、流行を感じる。何の主体性もなく、ただ、他人が並んでいるからと、列の後ろに向かう人や、誰かが取り上げていたから、そこに行ってみるといった行動は、皆と同じであることが第一との考えに基づき、流行に乗り遅れぬことを、最優先と考えているようだ。集団行動を得意とする国民性から、流行についても様々な批判が飛び交ったが、情報提供の充実は、個人主義の国においても、流行りに惑わされる人の数を増やすことに繋がった。観光客の増加を見込み、色々な働きかけが仕掛けられてきたが、中でも、情報を利用したものが、特に大きな効果を上げているらしい。観光地で、情報端末を見ながら歩く外国人の姿に、驚いた人もいるのではないか。あれを見る限り、流行に乗る人々が、訪ねてきているとしか思えない。訪ねる国に関して、様々な情報を手に入れてくる人もいるだろうが、殆どの人は、端末に表示される情報だけに注目し、それに動かされているだけだろう。こんな所でも、流行に乗ることが第一となり、人が集まる所に、更に集まるという現象が、目立ち始めている。

(since 2002/4/3)