特別な施しに、何を感じるのかと思えば、当然のこととしか思わないらしい。豊かな時代に、効率や向上を目指して、若者達への働きかけは、豪勢なものとなる。だが、求めてもいないのに、与えられるのでは、当人達に、喜ぶ気配が見えないのも、当然だろう。そろそろ、懐は寂しくなりつつあるのに。
施しという言葉に、悪い印象を覚える人が多いだろうが、現状は、まさに、そんな雰囲気なのだ。様々な試みがなされているが、その多くは、その場限りのもので、効果や結果を検討する機会もない。ただのバラマキと揶揄されることも多いが、予算確保に腐心する人々からすれば、自分の功績を残したいとの思いが、成就したものと見たいのだろう。だが、折角の試みも、効果を検証することなく、ただ漫然と続けられるだけでは、功績の評価もなく、感謝の言葉さえ届けられることもない。結局、与えられたものを手に取り、その場だけの活動をするだけでは、経験が活かされる訳もなく、本人達も、無駄だったという感想しか持たない。やらされる、とまで言われるようでは、そんなことを繰り返す必要もないと思うが、やはり、予算に関わる人々は、全く別の感覚を持つのだろう。相も変わらぬ、無駄な事業の創出に関して、その場限りとなれば、批判するのも面倒とばかり、放置されることが多い。その結果、無駄ばかりが山積みとなり、提案にあるような効果を、検証することもなく、金のばら撒きだけが続けられる。一方で、予算の削減が、喫緊の課題として取り上げられるのを眺めると、そこにある矛盾に、諦めの気持ちしか出てこない。こんな試みの多くが、若者達の意欲までも奪っていることを考えると、そろそろやめてしまえば、と思う。
皆の注目を浴びることに、快感を覚えているのではないか、と思えるほどに、騒ぎ立てている人は、その態度を過激にしていく。不安を口にすれば、それをありえないほどにまで、過激なものにする。注目を浴びたいと思う人にとって、皆の反応が強ければ、それが一番と考えているのではないか。
しかし、彼らにとっては、そこまでの反応だけが、重要なのだろう。その結末として、その勢いに乗せられた人々が、後々、その後の経過を知りたいと思っても、騒いだ人は、そんなことは気にも留めない。何もなかったかのように、別の題材に飛び付き、そこでも不安を口にして、注目を浴びようと努める。こんなことが、数回繰り返されれば、誰も目を向けようとせず、肝心の注目は、どこかに消えてしまう。だが、次々と、この手の人々が飛び込んでくれば、別に目が向くとはいえ、注目の対象は、無くなることはない。そんな人々を取り上げ、世の中の不安を煽ろうとする業界にとっては、何の心配もない状態だろう。いつでも、その材料となる人が見つかり、安定を維持することの難しさを、強調することができる。全体として見れば、こんな状態が続いている訳だが、ここで、一人の人間に着目してみると、一時の注目が無くなり、誰も見向きもしない存在となった時、何をしたらいいのか、悩むことになるのだろう。だが、彼らの多くは、自分の不安さえ忘れ、次の材料探しに躍起になっているのだ。結局、あの騒ぎは何だったのか、と思う人も居るだろうが、そんな人の数は少ない。次の不安を見せつけられ、また騒ぎに巻き込まれるだけだ。それぞれが、何かしらの解決を目指すのではなく、ただ、騒ぐ為の材料となっている。馬鹿げているが、つい、参加してしまう。
本人に、認める気は全くないのだろうが、翳りが見えていることは、確かなようだ。一時持て囃された、経済政策をもじった表現も、そろそろ、失策の例とされつつある。過激な動きに、刺激を受けるのは、人間社会の常だけに、一つ二つは、何とか効果を上げていたが、三度目は無いと言われる。
ただ、目の前の褒美を欲しがる愚民達にとって、将来への不安とそれとを比べた時に、果たして、どんな反応を起こすのか、判定の日が近づきつつある。景気を冷やすと、最終段階での回避を決めたことが、どのような反応へと繋がるか、単純に見えると言われるが、本当にそうだろうか。その日暮らしと言う割に、将来への保証を求める人々は、どんな感想を抱くのか、複雑に入り組んだ要素の絡みで、様々な変化が起きることを考えると、即座に理解できるような展開は、起こりえないことと言われる。ただ、人の心は揺れ動くものだから、どんな反応へと繋がるかは、誰にも予想できないだろう。一方、経済政策として、明らかな失敗と断じられた宰相は、どこ吹く風との態度を貫いている。不安に苛まれ、舞台から転げ落ちた経験の持ち主だけに、空元気を装うのも、理解できないことではないが、それで国の栄枯が左右されるのは、責任感の欠如と言われても、仕方ないことだろう。評価を受けていた頃には、冷静な判断も見えていたが、最近の閉塞感に満たされる中では、迷走ぶりが目立ち始め、発言の一貫性も失われている。一見、自信に満ちた発言と思えるものも、その後の言い訳の連続では、単なる認識不足とされるのもやむをえない。所詮、間接税に頼る仕組みでは、こんなことになるのも当然であり、他の国の窮状も、冷静に分析すれば明らかとなる。分不相応な生活も、味をしめると忘れられなくなる。成長が約束できた時代と異なり、今は、将来への保証が求められる程に、先細りが明らかとなっている。一人ひとりが、真剣に考えないといけない課題なのだ。
指示待ち世代と呼ばれた人々に、組織は様々に振り回され続けている。この問題の根深さは、自ら動くことのない人間のことだけでなく、指示さえも守れないことへの発展にある。指示を待ち続けた結果、自分で決めることどころか、考えることさえ止めてしまった人間は、指示通りに動くこともできない。
何をすべきかわからない時、上司や先輩に判断を仰ぐことは、昔から行われてきた。消極的な待ちとは違い、こちらからの働きかけだから、今とは随分と様子が違う。実は、判断を自分でしないのではなく、聞こうとする判断を下していた訳で、今の問題となる、何もせずに待ち続けるのとは、全く違う行動様式なのだ。一切の積極性を失い、ぼんやりと待ち続けていると、そのうち、何も考えなくなる。その結果が、最近の問題となっている、指示さえ守れない人間の登場へと繋がったのだ。彼らの特徴は、少し単純作業をやらせてみると、簡単に見えてくる。例えば、数字を書き写すことや、簡単な計算をやらせてみるなどの、単純な作業でも、確実にこなすことができない人が、予想以上に存在することに、愕然とさせられることがある。彼らの特徴は、作業能率の悪さを、自覚していないことであり、当然ながら、改善の気持ちは微塵もない。自らの欠点に気付かぬままに、ただ、指示を待ち続け、それを出鱈目にやり続ける。そんな人間は、人材と呼べる筈もなく、組織にとっても、ただのお荷物に過ぎないこととなるが、どこでも悩みが広がり続けているのではないか。現状を眺めるに、この状態を改善する手立てはなく、振り子が逆に振れるのを待つだけとなる。ここでも待つだけなのかとの批判もあるが、どうにも、手の施しようがないようだ。
衣替えの季節、と言われても、なにそれ、と思う人が増えているのではないか。季節感が薄れてきたこともあるが、それより大きな要素は、肝心の天候が変化してきたことにある。温暖化などと括られるが、暑くなるのが早まれば、衣服の変化も、自ずと早められるのだ。ただ、要因はそれだけではない。
昔は、学校というものは、規則に縛られるのが当然、との見方が大勢を占めていた。理不尽な規則でも、それが厳然と決められている限り、守るのが当然と思われていたのだ。ところが、最近の状況は、全く違っているのではないか。自由を優先することから、各自が選択すればいいとの考えが台頭し、規則でさえも、守るかどうかを、自分で決めればいいとなる。一見、個人の権利を尊重するように見える考え方だが、少し眺めてみると、おかしな所が山のように積み上がっている。例えば、社会には規則があり、その中で生きる為には、自由も規則を破らないという、限定条件が課される。学校教育は、人間の成長の過程に合わせて、社会への適応を進めるためのものと見れば、校則はその一段階と見るべきとなり、それを守ることは、階段を上る為に重要なものとなる。それを、自由を認めるという安易な考えから、排除することは、どんな結果を招くのか、少し考えれば理解できる。にも拘らず、目の前の問題を回避することだけを目指し、十分な説得や説明を省いた結果、自由という名の下の、放置が蔓延することとなった。人それぞれに、感じ方が違うのだから、或る日突然、一斉に、衣服を替えるなどという行事は、下らぬものと見るのも、勝手気儘の始まりと見るべきではないだろうか。そんな堅苦しいことを言わずに、というわかったふりの大人達には、困った途端の騒ぎが、常道のようだから、注意を要すると思う。
論点、と言われて、何を思い浮かべるだろう。議論ベタの人間にとって、その対象を問われても、理解不能となるだけではないか。一方で、本質を見極める力が、重視される中で、その欠如が問題であるなら、論点を問うことなど、できる筈がないのでは。合わぬ焦点に、苛立ちを覚えても、なす術がない。
こんな状況を眺めると、相変わらずとしか思えないが、かといって、山積する問題を、放置する訳にもいかない。と言って、庶民には、その為の手立てがある筈もなく、精々、清き一票に期待するくらいのものだ。将来への不安を口にしながら、今の問題からは目を逸らす、そんな人々が、論点を絞れる筈もなく、庶民どころか、政治に携わる人々まで、狭い視野しか持たないとなれば、将来を論じることは、無理難題となるだろう。にも拘らず、不安の一言は、何よりも強い切り札のように使われる。何もせずに、不安を口にするだけなら、どんなに愚かな人間にも、可能となる。まして、問題点を指摘することなく、ただ、不安に苛まれた表情を見せるだけなら、大根役者にもできる芝居だろう。こんな下らないことを放置しておきながら、窮余の策としての先送りに、どんな意味があるのか、理解しようとする気配さえない。だが、身勝手な論理に守られた主張には、理解不能な部分が殆どであり、そんな無駄はごめんとの声もある。では、どんな展開が考えられるのか。はっきり言ってしまえば、何の展開もなく、なるようにしかならない、ということだけだろう。それでも、今が良ければいいと思うのなら、放置するだけのことだろう。ただ、もしそうしたいのなら、不安などという無駄口も、叩かぬのが筋ではないか。
品格という言葉を、様々な所で見かけるようになった。その一方で、品があるとかないとか、そんな日常語は聞かれなくなっている。この違いはどこから来るのか。おそらく、堅苦しい表現を使うことで、自分から遠い存在と見せかけ、自分には無関係な、よそ事と受け取らせる思惑があるのではないか。
こんなやり方が、最近の流行のように思える。批判の対象とならずに、他人の批判に精を出したい人間にとっては、なんとも便利な環境であり、何も変わらないのも、そんな事情によるのではないか。例えば、品があるとか、ないとか、そんな言葉を使う時には、身近な人間のことを語り、それは自分との比較から来るものだった。となれば、同じ尺度で、自分が他人から計られる訳で、自分への戒めとして、遣り取りが続けられることとなる。これが、道徳や倫理と結びつき、自らの言動を抑制することへと繋がる。それにより、社会全体に、筋の通った仕組みができ、それに従うだけで、全体の均衡が保たれる。この仕組みを崩壊させたのが、自分に優しく、他人に厳しい、という批判の姿勢であり、それも、自らのものを棚上げとすることで、実現できる訳だ。となれば、その点を厳しく指摘することが、自分達の社会を豊かで安定したものにできるのではないか。品格などという、どこか余所の世界の言葉ではなく、品のある無しを、日常的に使うことが、道徳や倫理を身近なものへと、導くのではないか。自分達を変えなければ、社会は変わらないということに、気付く為に必要なことは、意外に簡単なことに思える。