不寛容の行為を問題視する声がある。その対象となる行為は、賛同する余地もないが、一方で、社会全体に蔓延する、誤った寛容の行為についても、もっと厳しい意見が出て良いのではないか。決断力の欠如から、何事も決められず、迷走を続ける人々に、時に、優しい言葉がかけられる。
やりたい事を見つけようとしている、とか、まだ対象が見出せない、とか、そんな注釈をつけ、別の見方からは、ただ漫然と暮らし、何も始めようとしない若者達に、大人は、理解を示そうとする。これを寛容と見る向きもあろうが、あまりにも、そう思えない事例が多く、厳しい対処を避けるが為の、言い訳に過ぎない、と思えることがある。過度の圧力は、確かに、軋みを生じ、精神的な抑圧から、逃避に走る人が増えるだけだろう。だが、ただ、寛容性を示すが為の、許容には、逆効果しか見出せないことが多い。努力を評価する風潮から、成果が求められることが少なくなり、目標を達成する意欲は、減退し続けてきた。その結果が、決められない人間の増加に繋がったとは、少し無理のある論理だが、目の前で、そんなことをし続ける人を見ると、そんな気持ちが出てくる。これが社会的な問題となっていることは、例えば、次のような事例からも理解できる。高校野球の活躍は、多くの人の心を捉えるが、晴れ舞台に立てるのは、ほんの一握りにすぎず、多くは、夢を抱いて努力を積み重ねても、選ばれることなく、補欠にもなれずに、下積みで終わることとなる。その努力を讃えようと、活躍の機会を与える話が、取り上げられていたが、何をどうしたいのか、理解できなかった。というのも、彼らが主役になれないのは、実力がないからであり、それほど明確な理由はないからだ。それを、一時でもいいから、舞台に立たせようとする配慮が、如何にも重要なものであるかの如く、取り上げていたが、こんな馬鹿げた茶番はない。もし、下積みが嫌なら、さっさと辞めればいいし、もっと努力を続けて、活躍の舞台を勝ち取ればいい。どちらもできないのは、実力がない一方で、辞めたくないからであり、それを放置するのも、寛容の一つなのだ。間違った優しさは、自己満足以外、何も産まない。
らしさ、とは何だろうか。相応な姿、相応な言動、何か、相応しいと思わせるもの、といった受け取り方が、一般なのではないか。だが、巷に溢れている、らしさ、は、全く違った形のものに見える。らしいと言われる人々が、自己満足に浸ることも多いが、それとは違う形もある。
本人が自己満足を得ていることに対して、文句を並べても仕方がない。自分なりの解釈を、自分に当てはめているだけで、何も悪いことはないだろう。だが、違う形のものには、かなり大きな弊害があるように思える。本人も含めて、周囲から、らしさを押し付けられたら、誰もが嫌な思いを抱くだろう。拒絶するのも、一つの方法だが、それが別の利益を産むとなれば、気分が少し悪いくらいは、我慢しようとするようだ。だが、それによって作り出された虚像は、実像とは全く異なったものとなり、その大きさも、巨大なものとなることが多い。そんな事情から、自分を大きく見せたい若者達にとって、便利な存在となる。だが、こんなまやかしで、大きく見せたとしても、早晩、馬脚を露わすこととなるだけだ。小さな存在であれば、そのまま、見過ごされることが殆どだが、それが予想外に大きくなると、対処に苦慮することにもなる。それも、本人だけで、こんな事態を招いたのではなく、周囲からの働き掛けで、風船が膨らんでしまうと、舞い上がった本人だけの責任とは言えず、誰が、どうすればいいのかが、見えなくなる。そんなこんなの繰り返しが、世の中全体に広がった結果、摩訶不思議な状況が生まれているように思える。虚像を映し続けることが続き、それが度重なるようになると、誰の手にも余ることとなり、社会の問題へと繋がってくる。そこまで来てから、何らかの手立てを、と思ったとしても、もう、手遅れなのだ。掛け声ばかりで、実態を伴わないものでは、こんなことがよく起きるのだ。
こんなことを毎日書けるのも、言論の自由が保障されているからだ、と言えるのだろうか。だが、自由を謳歌できる反面、押し付けの意見や、明らかに間違った意見が、巷に溢れていることに対しては、不自由を感じる人も多いのではないか。そこには、ある仕掛けの功罪が、表面化している。
昔は、言論の自由といっても、それに関われる人は、ほんの一握りに限られていた。一般大衆にとっては、井戸端会議で、下らないことを喋っても、捕まることがない、というのが精々で、画面の向こうや紙面上で、持論を展開するのは、有識者と呼ばれる階級の特権に過ぎなかった。それがネットという媒体の登場から、それを利用する仕組みの構築がなされると、誰もが発言する機会を与えられ、時に、耳目を集めることさえ、可能となってきた。ブログと呼ばれる仕組みでは、送り手と受け手の区別がはっきりと分かれ、発言の自由があるとはいえ、耳目を集めることは難しいと言われている。この独り言も、その範疇であり、今では、殆ど訪ねる人も居ない。それに対して、ツイッターやフェイスブックと呼ばれる、SNSという仕組みでは、送り手と受け手の区別が曖昧となり、受けたものを送る動作により、拡大の速度は増し続けている。これが耳目を集め易くしたのは事実だが、流される話題の質は、低下し続けている。愉快犯とも思える人々が蠢き、勝手気儘な振る舞いが横行すると、それに惑わされ、被害を訴える人の数も急増する。これが不自由を招くわけだが、一部には仕組みの問題ではなく、使い方の問題とする意見がある。誤りとは言わないが、無知な利用者が急増する現状では、常識で片付けられない、重大な問題が噴き出していると見るべきだろう。まあ、玩具の一つと見れば、一々目くじらをたてることなく、吟味の上で、無視すればいいのかもしれないが。
独り言は、仮想空間でのものだが、正論を吐くことには変わりがない。一方、実空間での発言でも、ネットを介するものがあり、そちらでは実名をさらすことになる。後者では、正論とはいえ、職業上の問題を招くことがあり、最近も、注意を促す文書が出回った。中には、意に介さない人もいるようだが。
実名での発言だからと言って、それが正しいことを述べているとは限らない。顔を晒してまで、下らない感情論を展開するのは、極端な例だろうが、ああいう世界での発言で、間違いを繰り返す人は、数え切れない程居る。特に、社会で注目される話題では、持論を展開したくなるのだろうが、恥晒しかと思えるくらい、不見識を曝け出す人もいる。そのSNSでは、友達の情報が掲示されるが、直接的な友人関係になくとも、友達の友達という人間の発言が、飛び込んでくることもある。先日の話題は、原発事故以来、注目されている汚染の問題で、汚染土を他の材料と混ぜて、道路を作ろうとする試みを、非常識と断じていた。彼女の根拠は、放射性物質は、よく分からないものは、基本的に封入すると習ったのに、というものだったが、無知を晒していると感じた。管理においては、確かに、高濃度のものは、封入を基本とするが、低いレベルのものは、時に希釈をして、無害化する手法を用いる。浅知恵を、自慢げに見せる性格なのかと思ったが、別の日には、また、無理筋の論法を、正義漢のように、展開していた。科学研究での捏造事件は、「あります!」と宣言した人物の登場で、耳目を集めることとなったが、その責任の所在に関しては、立場の違いから、様々にあるようだ。だが、この発言者は、捏造したと断じられた人物を、恰も、組織的な不正の被害者のように扱い、そこから真実を引き出すかのような提案をし、常識的な友人達に、窘められていた。推測だが、この類の人々は、自らの過ちに気付かず、正義を代表するかのような言動を、この空間で続けるのだろう。こんな道具は、本当に必要なのか。
国民の為に、とは、多くの政治家が使う言葉だが、その多くが、いつの間にか、言い訳となることがある。自分ではなく、他人の為に尽くしたが、それが功を奏しなかった、という場面での発言だろうが、こんな人間が信用されるのは、かなりおかしな状況ではないか。成功と失敗で、責任の所在が異なるのだ。
それでも、他者の利益を優先させているのだから、という擁護もある。見方によっては、そんな考えもできるだろうが、実際に、利益の行き先はどこなのか、もっと考えた方がいい。元々、人間は、他人の為に生きることはなく、自分だけのために生きる。それが時に、他人の利益を産むことがあり、その部分だけを取り出せば、恰も他人の利益を優先させているように見えるだけだ。政治家が、国民を利益の対象として考えるのは当然だが、それでも、そのやり方によって、結果が全く異なることも多い。今、世界の経済界の混乱を招いているのも、元はと言えば、自らの決断を控え、国民にその権利を与えようとした、指導力に欠けた宰相の、暴走によるものと見做されている。ただ、民主主義を、曲解する人々の多くは、この手法を歓迎しており、それが招く混乱には、一瞥もくれない。代表の中の代表としての存在が、もし、外的要因により、権利を侵されることがあれば、世間は大騒動を来すに違いないが、この例は、自ら進んで、その状態を招いただけであり、何の問題もないものとされている。だが、決断力の欠如が招いた混乱は、予想外に強まっており、心理が優先される市場は、乱高下を繰り返し始めている。この責任がどこにあるかは明白で、今更、論じるまでもないことだが、どうも、当人達はそのことに気付かぬふりを続けているようだ。
迎合の対象は、大衆であると言われる。望む声に応え、様々に便宜を図る。要求する人々には、何とも魅力的な話だが、それで済むかどうかは、問われることがない。大衆迎合主義などと言っても、ピンとこないかもしれないが、これが、ポピュリズムと呼ばれるもので、世界的な大流行の中にある。
愚民政治と言われると、強い反発を覚える人も、ポピュリズムには抵抗を覚えない。どちらも、目の前の問題のみを考え、結末には思いを致さない。途中で、均衡が大きく崩れたとしても、今が良ければ、それで良しとする。その一方で、孫子に借金を残さないとか、一見、将来を見据えたかのような、言動が吐き出される。この矛盾は何処から来るか、簡単なことで、将来と言いつつ、その元となるのが、今の損得なだけだ。足元しか見えない人々は、顔を上げることなく、降ってくる施しを待ち続ける。そんな行為を、愚かと呼ばずして、何をそう見做すのか、無茶な状況にある。だが、言葉は違えども、それに似た状況を産み出す仕組みに、世界の政治家の多くは、魅力を感じるらしく、迎合という言葉の意味も、理解できていない。帝国を築いた国も、世界の指導者としての立場を、遠い昔に失ったが、そこの宰相は、この考え方に取り憑かれているらしい。地域の離脱に関しても、地域からの離脱に関しても、同様の手法を持ち出し、自らの考えの正当性を、確かめようとする。だが、前者での賛否の拮抗に、慌てて新たな権利を持ち出し、更なる混乱を招いたのも、すっかり忘れ、舌の根も乾かぬうちに、次の標的を持ち出した。自分の周囲のことしか見えぬ人々が、どんな判断を下すのかに、興味がある筈もないのに、また、勢いで始めた意向投票に、混乱が広がる。宰相としての資格なし、という点では、この国だけでなく、あちらにも居るのかと、呆れるだけだが、無責任な試みの収集はどうつけるのだろう。
自分達で決められる、そんな状況に、満足感を得ているのだろうか。民主主義の表れのような、直接選挙による、国や地域の意向の決定に関して、高い評価が聞こえているが、この手法の根本問題に触れる意見は、殆ど聞こえない。何の誤りもないのだから、それが当然とされているのだろうか。
国の行く末を決めることに、誰もが参加したいと思う、という前提がどこから出てきたのかはわからないが、直接選挙は、その代表を選ぶ為のものであり、その後の決定は、代表に任せるというやり方が、多くの民主主義国家で行われてきた。しかし、特に重要な事柄に関しては、国民すべての意見を集約させる必要がある、という考えからか、最近、事ある毎に、賛否を表明する投票が、行われている。代表を選ぶことと、全く違った論点があるのだから、改めて意思表示を行うべき、との考えに間違いがある訳ではないが、こうも度々行われると、代表の役割とは、との疑いも出てくる。一方で、変化がある度に、代表者を選ぶ選挙を繰り返す、この国のようなやり方も、無駄の典型と批判すべきだろう。国民投票が、どれほどの意味があるのか、もっと真剣に議論すべきと思うが、民主主義の核となるべき事柄だけに、無意味と断じる訳にもいかないだろう。だが、経済だけでなく、また、行く末として、当事国だけに限らず、あらゆる方面への影響の大きさを考えると、身近なことにしか目が向かない人々の意向が、それほどに重視されることには、違和感というより、ある種の嫌悪感を催す。決めることの魅力を掲げ、それに引き寄せられる人々に、誤った情報を提供することで、一部の人々が、自らの利益を求めようとする。これは民主主義ではなく、それに名を借りた、個人主義の反映に過ぎない。