自愛とは、手紙の中での挨拶の一つ、と思われるかもしれないが、自らの健康に気をつけること以外に、意味はないのだろうか。現代人の特徴の一つとして、自分を大事に考えることに、この言葉は当てはまりそうに思える。辞書にも、そんな意味が並んでいるが、さて、どんな受け取り方があるのか。
自分を大切にせよとは、それが基本となり、周囲を支えることに繋がるから、言われた言葉なのだろう。しかし、最近の傾向は、随分と様子が違っているようだ。自分を優先に考えることが、第一となり、他を排除しようとする動きに、嫌な思いを抱いたことは、誰にでもありそうなことだ。大切にするあまり、他を貶したり、貶めたりする。そんな行動に、何故という思いを抱いても、本人に、伝わることはない。自分を中心に据えているからこそ、こんな考えに至る訳で、それなら、他所からの声など、聞く価値もないということだ。利己主義とも評される態度だろうが、本人にとっては、別の考えもある。こうしなければ、自分を確かなものと出来ない、ということなのだろう。だからこそ、他を排してでも、自分を残そうと躍起になる。自信が持てない、若い頃なら分かる話だが、いい大人が、同じことを続けるのを見ると、首を傾げてしまう。どこかで、大きく転換する機会が訪れる筈が、被害者意識を払拭できず、いつまでも、同じ考えに囚われる。周囲に、沢山居そうな人種だが、あまり歓迎できないものだ。他人の批判は、自分に戻ってくることを、何かしらの機会に、学ぶ筈なのだが、彼らにその能力は見出せない。情けは人の為ならず、という言葉も、そんな時代には、うまく当てはまるものとなる。
命運が尽きた、とでも評するのだろうか。愚かしい行為を続け、属する組織内でも、賛同が得られなくなった時、他力本願とも言える決定の機会を、導入した結果は、悲惨な結末を迎えた。否との声に対して、抗するだけの力は失われ、諦めに似た決断を下した時、多くの人は、やはりと感じただろう。
人気に左右される仕組みでは、実力を伴わない人でも、勢いに乗ってしまうことがある。世界で見れば、そんな宰相は無数に居るが、大国と見做される所では、そんな例はごく僅かだった。だが、愚かな民を対象とした、表面的な魅力を売る政策で、人気を勝ち取ってきた人の末路は、何とも情けないものとなった。鉄の女と評された宰相は、頗る評判が悪く、強権的な政策に対して、批判の声は高まり続けた。現実路線を突き進むやり方に、被害を受ければ、当然の如く、反対意見が噴出する。だが、そこにあるのは現実であり、一人ひとりの夢を追うものではない。望みが叶えば、と願うのは人それぞれだが、現実からかけ離れるほど、無駄なものと化する。権利を手に入れることばかりに目を奪われ、義務を見失った結果、多くの国では、様々な歪みが溢れ出てきた。連合と呼ばれる仕組みにも、多くの矛盾が満ち溢れ、その鬱積が、結果として、今回の国民の判断に結びついたと言われる。だが、矛盾をそのままに放置し、一方で、不満を突きつければ、どんな解決があるというのか。その非論理的な考えに、多くの国は、不安を抱いてきた。結果は、不安を更に煽るものとなり、矛盾は強まり続けることとなる。一政治家の運命など、こんな時には、どうでもいいことだろう。一国の独立など、どうでもいいことだろう。身勝手な人間の業が、表に現れた時、どう対処すべきか、自分の身を守る為にも、考えておく必要がある、ということだ。
自分達の意向がそのままに反映できる、そんな魅力が強調されるが、これは事実なのだろうか。盛り上がる中で、このような手段を講じた政治家達に、非常識との言葉を浴びせる意見もある。庶民の権利を重視する人々からすれば、そんな意見の方が、非常識に違いないと断じられるのだろうが。
この問題に関して、本質的な議論は殆どされていない。盛り上がりに注目が集まり、全員の意向を調べ、二つに一つの結論を導く、という仕組みに対して、異論を唱える人が居ないのだ。是非を問うことは、時に重要な問題となるが、特に、拮抗した結果が出ると、僅かな優勢が、極端な結果を導くことに、問題がない筈はないのだ。代表制の問題は、間接的にしか意向が反映されないことだが、一方で、様々な調整を図ることができ、極論に陥ることも回避できる。これほど当然のことが、別の魅力に心を奪われ、見失っている所に、盲目的な言動が加わり、極端な結果へと繋がる。興味深いのは、この結果に対する責任は何処に帰するかであり、構成員全ての参加によるものだから、全てが責任を負うべきとするかであり、ここでも、非常識が目立っている。本来ならば、非常識なことを進めた人間に責任があり、あの国の場合には、そろそろ退陣を噂されている、例の愚かな宰相にこそ、全責任がある。自らの非力を棚に上げ、見込み違いによる、狂気の沙汰を二度までも実施するなど、やはり、愚かさの象徴と見える。でも、こちらの国でも、また選挙が迫っているが、もう一つの議会の選出方法は、やはり、同じような原理によっている。これもまた、愚かな考えに基づくもので、結果の異常さは、際立っているのだ。
創業者の悩みは、様々にあるのだろうが、その他の人々にとって、理解できないものの一つに、後継者探しがある。ワンマンと呼ばれる人にとって、経営に力を入れ、課題に取り組んできたことから、独自の考えを築いてきたが、それを引き継ぐ者が、必ずしも後継となるわけではないからだ。
それまで、命令に従う者を配してきたことから、その中から選ぶのであれば、苦も無く行えるだろう。しかし、独自の経営手法を誇った人ほど、同じやり方を好ましくは思わない。そこで、全く違った考えを持つ人間を、遠くから登用しようとする。電球ソケットから始まった家電企業は、経営の神様とまで呼ばれた人物が、築き上げたものだったが、その後継に抜擢されたのは、最下位の役員だった。その決断に驚きの声が上がったが、その後の展開は、悲惨なものと言えそうだ。企業自体も、退陣をきっかけとして、凋落の道を歩み始め、優良企業も、一気に窮地に追い込まれた。もっと新しい話では、衣料販売で革命を起こしたと言われた経営者も、後進に跡を譲った筈が、突然、人事をひっくり返す事態を招いた。何が気に入らなかったのか、知る由もないが、その後の状況は、あの退陣は気紛れに過ぎなかったと思わせる。そんな歴史はまた繰り返された。これもまた、独自の経営哲学を有すると、評価の高かった経営者が、約束を反故にしたと報道された。何が、気を変えさせたのかは、本人さえ、まだ理解しきれないのかもしれないが、振り回される方は、たまったものではない。創業者の常として、作り上げた企業に対する愛情が、などと評されることもあるが、そんな単純なものではないだろう。後継選びは、個人にとっても組織にとっても、単純なものではない。
人間の業は、私利私欲に基づくものとされる。資本主義の中で、皆が金儲けに走ることは、その証とされるが、学者の中にも、違う考えを持つ人が居るという。その正誤を確かめる方法はなく、様々な事柄に、当てはめてみては、分析をするのが精々だろう。利他主義が基本となる訳もないが。
とはいえ、一部の愚かな学者紛いが、声高に主張するような、市場主義が罷り通る筈もなく、特に、最近の風潮からすると、大衆主義という形で、庶民を対象とする考えを、基本とすることで、何かしらの誘導を目論むことが、多くなっているようだ。市場という、一種の仮想空間を設定し、それが主体となる変化を、ただ眺めているかのような、身勝手な考えは、実は、それに名を借りた、利己主義の表れに過ぎない。では、人間の性とは、本当には、どちらに近いのだろうか。自分のことしか考えないか、他人のことしか考えないか。こんな質問は、まさに愚問であり、自分のことを考えない人間は、何処にも居ないに違いない。だとすると、どの程度まで、他人のことを視野に入れるのか。そこに学説が訴えたい点があるのだろう。他人を貶めても、自らの利益を追求するか、と問われれば、多くは微妙な答えを出す。しかし、結果的にそうなっても仕方ない、と考えているか、と問われれば、そうだろうと答える。人間の身勝手さの表れなのだが、それにしても、そんなことを深く追求したら、本当に、ヒトのことが理解できるのだろうか。時と場合に応じて、適当に変わる考えに、どれほどの意味があるのか、わかる筈もない。では、何故、こんなことを論じ合うのか。その理由は、おそらく、どこにも存在しないのではないか。ただ、論じたいだけなのでは。
掛け声だけなら、まだましとの声もある。嘘だったり、騙したりと、様々な手練手管を用い、自らの地位を確実なものとする。何も、近所や小さな組織の話ではなく、一つの国を操る人々の所業である。取り返しのつかぬ所まで、突き進んだと思ったら、その先は崖の下に落ちるだけだ。
弾けた後に出てきた考えに、能力給なるものがある。歩合給という仕組みは、それ以前にもあったのだが、これは営業や製造にのみ通用するもので、事務職には適用できないものとされていた。能力給は、それとは異なり、何かしらの産物から、算出するのではなく、能力という形にならないものを、基準とするものだった。一見妥当な手法と思えたものの、実際に導入してみると、全く役に立たないものとなってしまった。その原因は、評価の仕組みにある。正当な評価を導き出す手法がないままに、評価をせざるを得ない状況が作られ、設けるべき基準さえも、後付けで掲げられる始末である。そこから捻出されたのは、自己評価という代物であり、自己愛に満ちた人々には、優れた手法と見えたのだろうが、客観性を重視する人には、難しいものとなった。給与を自己申告で決めるとなれば、均衡を保つことさえ難しくなり、結果、役立たずのものと切り捨てられた。それが、再び、光を浴びることとなった理由は、全く別の所にあるのだろう。だが、所詮、基準なしの導入では、また、崩壊の道を歩むしかないようだ。利点ばかりを取り上げ、必要となる要素を吟味しない風潮は、こんな所でも悪弊を産み出す。暫く後には、また、悪者と見做すことで、次の改革を目指すだけのことだ。
厳しさだけでは、何も起こせない時代なのだろう。寛容は、自らの意思として、何処からの圧力も受けずに、実行するものだったのが、今や、義務かのように扱われる。押し付けられた考えが、皆に受け入れられたことは、歴史上も皆無に等しいと思うが、それを当然と思い込むのも、今の特徴か。
人を育てる手法として、様々なものが取り上げられてきたが、ある時代から、厳しさよりも優しさが優先されるようになった。これ自体を悪いとは言えないものの、その頃からの展開は、社会体制を崩壊させる方へと動いている。それを横目に見ながら、依然として、同じ方向に走る人々は、一体何を考えているのだろう。優しさが表に現れたものとして、所謂ゆとりなる考え方があったが、その逆効果ぶりに、流石の「優しさ」優先派も、批判の声をあげ、舵きりを余儀なくされていた。だが、そんな瑣末なことは、どうでもいいのだろう。厳しさが、時には必要という考えは、依然として、間違ったものと糾弾され、何か特別な手法がある筈と、別の手立てを講じ続けている。こんな状況では、社会の仕組みが元通りになることはなく、崩れ始めた体制は、それに引き摺られるように、次々と破綻を来たし始める。その一方で、不安を口にする人が増え続けるが、これもまた、優しさの弊害と見做せばいいのに、意地を張る人々は、取り憑かれた考えに拘り続ける。気付かぬ人々に、どんな忠告も届くことはなく、地割れは広がり、地滑りは各所に起こり、人々の悲鳴が聞こえてくる。地盤が脆弱になっているからこその、連続的な現象なのだが、それを認めたくない人々には、別の要因を犯人とする動きが急となる。これは、どうにもならない状況なのだろうか。