パンチの独り言

(6月27日〜7月3日)
(雌雄を決する、強い味方、失墜、語らず、職務放棄、心配無用、解決)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



7月3日(日)−解決

 地道に頑張る、と言われても、おかしいとしか感じない。本人にとっては、努力していることに変わりはなく、何が足らないのか、さっぱりわからない、という話だ。それまでなら、効果的な方法が伝授され、それを繰り返すだけで、十分だった。それが、突然、無意味に思えるようになる。
 頑張るとか努力するとか、そんなことを尋ねられると、すぐにそうしていると答える。彼らの多くは、時間による認識が重要と考え、どれだけの時間を費やしてきたかが、肝心と思っている。だが、効果的な方法であれば、どれだけ繰り返すかは、確かに肝心なこととなるが、そうでないことを、何度も繰り返したとしても、成果は得られない。ここに大きな問題があるが、本人は気づいていないことが多い。反復を基本として、指示に従って動いてきた人間にとって、確実な方法が見いだせない中で、何をどうすればいいのかが、見えてこない。ただ、他に手段を持ち合わせていないとなれば、無駄と知りつつも、時間をかけ、反復を繰り返すだけとなる。その結果は、ある意味悲惨なものとなる。どれほど時間をかけようとも、目標に到達することはなく、努力が評価されることは、決してない。だが、解決法は、このやり方では見いだせないのだ。それを知りつつ、時間をかけることしか知らない人々は、無駄なことを繰り返す。傍目には、無駄な努力としか映らないが、それを解決する手段を授けない限り、足踏みは続くこととなる。普通は、自分が停滞していることに気づき、何かしらの解決手段を模索することとなるが、最近の傾向は、そちらには向きにくいようだ。頑張り続け、疲れ果てた挙句、不安定な状態に陥るのも、実は、こんな事情によるものではないか。だとしたら、助けてやる必要があるのか、それとも、自力解決を待った方がいいのか。

* * * * * * * *

7月2日(土)−心配無用

 足らないものは一杯ある。だから、傾向と対策を講じて、解決に結び付けようとする。誰しも、学校に通っていた頃には、こんな経験をさせられたのではないか。でも、その効果はどうだったか。改めて、こんなことを考えてみると、意外なほどに、意味の無かったことが多いのでは。
 一時の対策として、付け焼き刃的なものでも、様々に試してみることには、意味があったように思うが、実は、それが、その場しのぎでしか無かったことに、気付かされることが多い。実用的と呼ばれるものでさえ、現実とはかけ離れたものでしかなく、役立たずが、これほどに多いのかと、驚かされる。だが、それが、世の中全体に広がり、どこでも行われているのだから、困ったものである。こんな悪質な教育方法が蔓延し、それに精を出す人々が居る訳で、将来の役立たずが、ここで作られるのか、と将来を悲観してしまう。では、何をどうすればいいのか。一つには、対策を止めてしまうことがあるだろう。傾向に照らし合わせて、それへの備えとして、対策が講じられるが、傾向は所詮、そんな事例があるということに過ぎない。個人にとって確実なことは一つもなく、何事も、予想外の展開から生まれ、それへの対応こそが、重要とされるのが世の常である。にも拘らず、一つの傾向に縛られ、無用の長物を授けられる。本質的な理解には程遠く、そこから生まれるものは殆ど無い。それでも、何かをすれば、可能性が広がるとされ、押し付けを受け入れるしか無い。でも、考えてみたら、無駄は所詮無駄なのである。何が役に立つか、そんなことがわからなくても、何かが起きると信じれば、地道に頑張るのが、一番と思える。後から解るだけのことなのだけれども。

* * * * * * * *

7月1日(金)−職務放棄

 自分達の意向が、直接に反映できるのだから、究極の民主主義である。まさに、その通りなのだが、この仕組みの弊害が露呈するにつれ、こんな民主主義はいらない、との意見が出てくるのではないか。わかりやすい説明に、納得していた人間が、後から、騙されたと叫ぶなど、下らないことだ。
 心変わりは、自由ばかりで責任を果たそうとしない人間の特徴の一つで、これに振り回されるのも、仕方ないことと言われる。結果が出た途端に、それまでの熱狂は冷め、別の心配が口を出る。頭が悪いとは、あまりに直裁な表現だが、一つのことに目を奪われ、他のことに思いが及ばぬ人々が、あることをきっかけとして、影響が様々に及ぶことを知った途端に、話が違うと罵り始める。だが、そんなことは、騙す側から見れば、百も承知のことであり、気付かぬ馬鹿が悪い、となるだけだ。直接民主主義も、これまでは、見識のある人間の誘導に従い、間違いを犯さぬことが殆どだったが、最近は、勝手な発言を広げる道具の普及から、極端な意見に注目が集まり、その真意を吟味することなく、盲信するだけでなく、その意見への賛同が、愚論をも支援することに繋がる。これに熱狂が加われば、非常識は常識となり、正論は欺瞞かのように扱われる。こんな状況で、民主主義の本質に触れた気になる人々は、実は、正常な精神を失いつつあると言えるのだ。結果が出てから、正気に戻るなどという話も、愚かさを示しただけのことであり、決定を覆そうとする動きに至っては、自らの信じる所を、打ち棄てることにしかならない。今更、何を言ったとしても、どうにもならない。にも拘らず、まだ、何かをしようとする。それが政治家の役割だとしたら、前の投票は、職務怠慢の表れではないか。決める為に選ばれた人々が、それを放棄した時点で、務めは打ち棄てられたのだから。

* * * * * * * *

6月30日(木)−語らず

 嘘を吐いたのではなく、何も言わなかっただけだ。そんな発言が出ると、一部では強く警戒されているが、本当の所は、どうなるのだろう。過激な言動で、自らの自信の無さを打ち消そうと、今回の任期では、強く打ち出ているようだが、所詮、鍍金のようなものに過ぎない。化けの皮は、いつ剥げるのか。
 経済効果が目に見える形となっていないことは、彼の発言を見れば、すぐにわかる。失敗ではなく、途上にあるのだとする、彼の言葉は、現時点では、贔屓目に見ても、成功とは言えない、ということを示すものだろう。口数が増えるのも、責められることを避ける為であり、他人の発言に割り込むのも、批判を浴びたくないとの心理と言われる。担ぎ上げている組織が、実は、信頼の置けないものであることは、前回の退陣を思い起こせば、すぐにわかるわけで、迷走を続けている中で、皆が離れていったことは、思い出したくないものに違いない。側近と目された人物まで、無視を決め込むなどとなれば、泣き面に蜂の状態であり、精神が崩壊したのも無理なし、と見る向きもある。だが、それほどに脆弱な精神の持ち主に、一体、何を期待するというのか。あの組織も、不思議な人々の集まりであり、他の政治家同様に、無知蒙昧の集団と見るべきだろう。さて、口を噤んでいるのも、都合の悪い点に限られ、どうでもいいことには、饒舌ぶりが溢れている。憲法の問題、介護や年金の問題、税金の問題、等々と、山積するものは、はっきりと見えているのに、当人は、何もないかの如くに振る舞い、他人事のように話題を流す。これでは、裸の王様の逆のように思えてくる。無いものを有ると主張する代わりに、有るものが無いと決めつける。いや、実は、有るとも無いとも言っていない、となるのだろう。触れないからと、無いとは言っていないとは、始めに書いた話のことだ。

* * * * * * * *

6月29日(水)−失墜

 民主主義の意味を、取り違えたのではないか、と思えることが、最近の政治の世界で、盛んに行われている。先日の、愚の骨頂とも思える国民投票も、その後の展開は、その愚かさぶりを、明確に表すものとなりつつあり、民の愚かさを引き出した、政治家の愚行の歴史として、名を残すのだろう。
 これも、所詮、対岸の火事と思うのも、それぞれの自由だろうが、その割には、飛び火を恐れて、騒ぎ立てる人の数が、多過ぎるようだ。その期日が近づくにつれ、騒ぎは大きくなっていたが、その一方で、楽観的な筋書きを、並べ立てる動きも、盛り上がっていた。だからと言って、予想外の結果に対する、慌てぶりには、弁解の余地はない。特に、こちら側の政治家達が、青天の霹靂のように、この結果を扱い、突如として舞い降りた、悲劇への対応のように、次々と対応策を講じ始めるに至っては、何の準備もなく、対岸を眺めていた、能天気の愚者を見る思いだ。民主主義がどんな形式を取ろうが、独裁者によるものでなく、民が国を支える仕組みであることに、変わりはない。それをどう使うかに関して、人それぞれに解釈が異なるのも、当然と言えば、当然のことだろう。にも拘らず、何やら、特別なことが起きたかのように扱い、特別な手当の必要性を、突如として訴え始める。どんな展開が起きようが、それに対する策を準備することが、政における常道の筈が、この慌てぶりを見ると、やはり、世界的な質の低下を心配したくなる。この国の政の凋落ぶりには、今更、見解を述べる必要もないが、他国とて、同じ状況にあることに、驚かされる。一部の特別な人々によっていた、以前の政治の世界も、平等と扱われる民、全てのものとなることで、迷走が続くこととなった。原因は、はっきりしているのだ。

* * * * * * * *

6月28日(火)−強い味方

 他人には厳しく、自分には優しく、という考えに、昔は厳しい目が向けられた。だが、最近はどうだろう。評論家なる人々の言動には、まさにこの様子が現れ、他人を厳しく批判する反面、自分のことは、全く違った基準を持ち、勝手気儘な生活を送る。それに憧れる人が出るとなれば、世も末か。
 力を持つ人に対して、毅然として、批判の矢を放つ人に、憧れる人は多い。正論を吐く、という点からも、ブレない人間として、羨望の的となる訳だ。だからと言って、彼らが、聖人であるとの保証はない。頭で考えた話と、身体の動きが、一致しない人が沢山居るのだ。その面を見て、憧れを捨てる人も居るが、そうでない場合も多い。憧れの人が、そんな行動をとれば、自分も同じことを、と思う人も出てくる。二つの基準を持ち、それを使い分けることも、知恵の一つと受け取り、身に付けようと努力することさえある。だが、冷静に眺めれば、そんな人は、尊敬に値せず、駄目な人間の一人となる。この現象では、憧れが、目を曇らせているのかもしれないが、どうも、それとは別の要因があるように思える。つまり、元々持ち合わせている、自己中心的な考えを、憧れの人物の行動と見比べ、あの人がそうであれば、自分もと考える訳だ。この困った考え方は、実は、人が生まれながらにして持つ、性質の一つであり、それを正当化する為のきっかけとして、憧れの人物の言動が、あるだけのことだろう。不安の入り混じった心境から、強い自信を持つようになるのも、こんな環境があるからかもしれない。だが、他人に厳しくすることは、自分をも律することへと繋がるのが、当然の成り行きではないか。簡単には理解して貰えそうにもないが。

* * * * * * * *

6月27日(月)−雌雄を決する

 攻撃は最大の防御であると言う。さながらに、他人への批判に精を出す人は、世の中に溢れている。その姿に憧れ、高い評価を示す若者達は、始めに書いたことではなく、攻勢を示す人の姿に、目を奪われているだけなのだろう。実は、中身のない批判でも、言い負かしてしまえば、勝ちに見えるのだ。
 勝負に拘るのは、若気の至りとも言われたが、最近は、庶民全体がその空気に包まれている。多数決の仕組みを取り、白黒をはっきりさせるやり方に、強い魅力を感じるのも、勝ち負けへの拘りの表れではないか。落とし所を探ることに、昔は、一部の人々が心を砕き、互いの利益を追い求める為に、調整を図っていた。しかし、今では、面倒なことを省き、白黒を明確に区別することで、分かり易さを強調し、結果として、直接的な利害だけで、互いの利益などは無視している。明確な区別は、確かに、誰にでもわかるものだが、自身の心理さえ、理解できない人間が、そんな安易なものに走るのは、如何なものなのだろう。要するに、人間が関わる事柄において、単純明快なものなど、存在する筈もないのに、それを追い求めようとすることに、何の疑いも抱かないことに、異常を感じるのだ。単純な思考回路しか持たない、愚民共を相手にすれば、利益だけを見せつけ、そこから生じる害悪などには、触れもしないのが、一番の戦略となる。だが、そんな結果が積み重なれば、不安定な状況が強まるだけで、最後には、崩壊の憂き目を見ることは、考える力が少しでもあれば、すぐに思いつく。まあ、こんなことを書いても、盛り上がった雰囲気が収まる筈もなく、暴走が続くだけのことなのだが。

(since 2002/4/3)