パンチの独り言

(7月4日〜7月10日)
(侮蔑、強慾、無政府状態、空論、公約、制約なし、不平等)



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7月10日(日)−不平等

 何でも同じであることを、望む人達が居る。平等という観点からすれば、当然の要求となる筈だが、その実態は、否定せざるを得ないものが多い。何が問題となっているのか。第一に目立つのは、権利ばかりに日が当たり、義務を棚上げする所だろう。しなければならない、は禁句の一つなのだ。
 だが、社会が構成される中では、様々な義務が存在する。要求が満たされぬ人々にとっては、実は、義務だけが目に入り、権利は殆ど無いように映る。でも、現実は、更に酷いものとなっている。つまり、義務を悉く放棄する一方で、権利の要求を高め続ける人が、驚く程多いのだ。貧富の差が、その根源となると考えれば、貧しい人々の考え方を、批判することとなる。ところが、その指摘は、間違ったものとして糾弾され、差別意識の表れとして、罰する動きが高まるのだ。ごく当然のこととして、分析的に捉えたものでさえ、感情的なものかの如く扱われ、偏見の表れのように、攻撃を受ける。何方が偏見を持っているかは、冷静に見ればわかるものだが、数を味方とする人々からの攻撃は、保身に走ろうとの意識から、加担する人まで加わり、悪化の一途を辿ることとなる。平等の観点は、こんな所にも弊害を及ぼし、多くの被害者を出し続ける。発言権は、保障されるべきものかもしれないが、義務と権利とは無関係に、発信することができる仕組みは、とんでもない状況を産み出している。社会に対して、害悪しか及ぼせない人々が、発言の機会を与えられると、誰彼なく、攻撃を与え続ける。社会的な制裁が、正しい形で下されていれば、こんな人々は、消滅するしかないのだが、現実は、力を増すばかりとなっていて、被害は広がり続ける。差別意識の権化のような人間ほど、こんな時に、激しい反応を繰り返す。触らぬ神に祟りなし、とはいかぬ現状に、平等の基本を考えるべき時が、来ているように感じる。

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7月9日(土)−制約なし

 将来への不安の代表格は、老後への備えだろう。生まれたからには、誰もが齢を重ね、死を迎える。ただ、それを大過なく迎えたいと願うのは、当然のことだろう。現状を眺めると、とても安心できる状況ではなく、心配は募るばかりとなる。藁にも縋る気持ちとなるのも、当たり前なのだろう。
 自己責任と考えれば、備えも自分で行うものとなるが、社会保障の考えからすれば、何かしらの支えを期待するのが当然となる。しかし、自分の懐と同様に、先立つ物がなければ、何も起きないことに変わりはない。それが社会問題と見做され、様々に対策が講じられているが、心配がなくなる様子は見えない。その理由は簡単なことで、資金不足が深刻であることが、明らかだと言われるからだ。将来への不安は、どの年齢にとっても、存在しており、遠い未来のことでも、心配しようと思えばできる。ということで、新たに権利を得た年代に、そんな話題を振る動きが、急激に強まっている。特に、選ぶ権利を手に入れれば、自らの考えを反映できるとなり、それをどう活かすかが問われている。でも、その論点たるや、なんとも局所的なものに過ぎず、広い視野は感じられない。これはある意味当然のことだろう。大人から学ぶことの多い世代にとって、情報源はそこに限られる。独自の考えを許されたとしても、それに必要となる知識が、明らかに不足しているのだ。間接税を充てるのは、今や、唯一の手段のように扱われるが、税を資金源とすることからすれば、この限定は、正当とは言い切れない。均等の負担を、基本とするとの考えも、納税の基本からすれば、的外れと見ることもできる。若者達は、柵がないとの見解も、こんな状況では、当たりそうにもない。支えてもらう為には、支える必要があるとの考えに、至りさえすれば、その手段に、制限をかける必要はないだろう。

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7月8日(金)−公約

 自分達の思いを達成できる、という誘いは、かなり魅力的なものだろう。先日の国民投票で混乱が始まった、連合の仕組みでも、借金が膨大に膨らんだことから、様々な制限を強いられた国は、それを脱しようとの思いから、新たな宰相を選んだ。だが、その際の約束は、今どうなっているのか。
 国にしろ組織にしろ、共同体を築けば、その間での調整に、かなりの難しさが伴うものだ。その任を受けて、国や組織を代表する人々が集い、議論を重ねた上で、結論を導く。その過程において、それぞれの都合が反映されるわけだが、互いの都合の調整を必要とするだけに、思いが実現できるとは限らない。しかし、それを約束した上で任に就いた場合には、調整においても、強気を崩す訳にもいかないだろう。だが、交渉は交渉である。調整を拒否し、自らの主張を押し通そうとすれば、結論が遠くなるだけでなく、有利な条件さえ、手放すことになり兼ねない。だからこそ、約束を反故にするしかなくなる。それをまた、国民や構成員に問うたとしても、決められない期間を長引かせるだけで、悪い流れを断ち切ることはできない。他国の混乱により、注目が薄れることは、歓迎の一つとなっているだろうが、問題が山積みであることに、何も変わりはない。一方で、意見が反映できることを、一つの条件として提示し、選ばれようとする動きも、誤った民主主義の解釈から、強まってきている。混乱の末に、何かしらの結論が導かれ、それが、平穏に比べたら、ずっとましな結果を産むとなれば、それも意味があるだろうが、このところの混乱は、ただそれだけに終わりそうだ。様々な利害を理解し、それらの均衡から、何が導かれるかを分析した上での、決定であれば、こんなことは起きない。朝三暮四と揶揄される、猿並みの愚かな人々では、期待も何も、ある筈がないではないか。

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7月7日(木)−空論

 批判された途端、嫌われていると考える人が居る。議論の場で、好悪を口にする人達は、一体、何を考えているのだろうか。議論の対象より、発言者や立案者に興味があり、それを優先する考えに、首を傾げたくなる。確かに、考えは人が作り出すものであり、その存在は無視できないのだが。
 だからと言って、その提案の良し悪しに、人間の善悪や人格のようなものが、関わる筈はないのではないか。こんな警告を与えると、そこでまた、好き嫌いを持ち出されることがある。反対者を黙らせようとするのは、あの人が自分を嫌っているから、などと呟くのだ。好き嫌いで言えば、感情論を持ち出す人は、確かに、嫌われることが多い。気分次第で、様々に変わる主張には、首尾一貫性はなく、論理の欠片も感じられないからだ。発言者への好悪を、そのままに反映させるやり方では、同じ意見でも、誰が出すかにより、反応を変えざるを得ない。同じ場面でも、役者によって展開が変わるとなれば、その真意を読み取ることは難しい。特に、議論の中身との関わりが、希薄になることから、議論を続けること自体が、無意味となる恐れがある。最近は、好悪を軸として、活動の場を築く人々が、地位を手に入れる場合が多く、議論の場では、そういう輩の取り扱いが、重要な要素となる。本来、論を戦わさねばならない状況で、こんな人の扱いに、時間を費やさねばならないのは、何とも情けない事態となる。だが、結論を導く為には、中身を吟味する必要があり、その過程では、馬鹿げた考えに関わっている暇は、無いのだ。この国では、こんな場面に出くわすことが、非常に多い。地位を笠に着て、横車を押そうとする人の扱いも難しいが、議論そのものを苦手とする人も、そこに居ても無駄となることが多いからだ。

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7月6日(水)−無政府状態

 ある意味、当然の展開となっているようだ。政の務めを投げ出すような行状に、一部の熱狂が加わり、民の力を見せつける結果が出ると、その後の手続きは、決められた道を歩むだけとなり、誰が政を行おうが、結果は変わらないという、何とも詰まらない務めが待つこととなる。だから、だろうか。
 まずは、そして、誰も居なくなった、という展開が起き、その後を読み解けば、次に起こるのは、話が違う、という展開に思える。つまり、離脱を決定したが、その際の幾つかの約束は、別の理由から反故にされる、ということだ。例えば、経費の問題は、既に考え直す必要が生じたと、野党党首が変心を表明すると、批判の嵐から、居なくなることへと繋がった。もう一つの大きな問題は、移民のことだろうが、これもまた、政治的な駆け引きという言い訳で、課題解決には程遠い結果を、導き出すのだろう。政治家が、決定権を放棄した結果は、確かに、民主的な決定を導いたが、それが意外であればあるほど、次の展開は、無理筋ばかりが残ることとなる。民衆の要求は、できるかできないかに関わらず、欲しいものを手に入れる為であり、それが、理想を追い求める程、悲惨な展開を迎える。決定後の展開に、民の力は役に立たず、武器を失った政治家達は、丸腰で交渉の場に向かうしかない。それどころか、目の前の、昨日の友は今日の敵、の人々だけでなく、後ろには、槍を構えた民衆達が、仁王立ちしているのだ。こんな状況で、何ができるというのか。もし、明るい展開があり得るのなら、そこには、交渉による妥協案しか、ないだろう。となれば、民の夢は、儚いものに終わる。それでいいのか、と決まってしまってから論じることは、愚の骨頂と呼ぶべきだろう。こちらの国では、こんな愚行を招いてはならない。

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7月5日(火)−強慾

 皆と同じであることを、強く追い求める一方で、人と違うことに飛びつく人々は、一体、何を考えているのだろう。前の考え方は、他人に対して、不利にならないことを求めているのに対し、後ろの考えは、他人より有利になることを、願うものだろう。こう書くと、何とも、身勝手な考えではないか。
 他人に遅れをとることに関して、病的とも思える程に、強い反応を示す。確かに、除け者にされることに、良い気がする筈もないのだが、その為に必要な条件に対して、何の関心も抱かぬ人達に、その権利があるのかは、定かではない。本人にとって、権利は当然のものであり、それを失うことはあり得ないのだが、義務との結びつきに目が向かないままに、こんな主張が通る筈もない。ここが身勝手と断じられる所以だが、当人達は、難癖のように受け取るだけだろう。その中で、有利になる条件を手に入れようと、躍起になる人々が居る。こちらに関しても、熟慮の上で、取り掛かるのではなく、ただ、見かけだけで関心を抱くから、後で、騙されたとの話になったり、すぐに投げ出したり、そんなことが繰り返される。騙されたという話でさえ、実は、努力が必要となることに対してであり、それによって手に入れられる筈の、権利がないものとなった訳ではない。ここでも、勝手な解釈が論じられ、何やら怪しげな展開が始まる。努力だけが肝心という訳ではないが、目標が定まった所で、それなりの努力を積み重ねることが必要となっても、そんな話は聞いていないとなり、楽に権利を手に入れることだけに、目が向いていることとなる。こんな書き方をすると、おそらく、そんな人は居ないだろう、と思う人が多いのかもしれないが、実際には、このくらい極端に書いても、まだ的中という訳にいかないのだ。

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7月4日(月)−侮蔑

 共生が課題となっている。考え方が違うだけでなく、文化的な背景も異なる人々が集まれば、そこに軋轢が生じるのは当然であり、利害が絡むことで、それが極まる可能性も高まる。排他的な考えが強まれば、その為の手段も、極端なものへと高まり、異常な事態が、非常事態へと発展する。
 祝いの花火が上がる一日の、意味を考える人は、減り続けているのではないか。侵略者が国を築いたことが、どれほどの意味を成すかは、今更、議論する意味を持たないが、その後の展開の中で、人種差別の問題に苦しみ続けてきた国は、多様な集まりの意味を考え続けてきた。だからこそ、他の国が、あれほどに極端に、排他的な動きに走ることに対して、理解に苦しんでいるのではないか。他の国を裁くことまで、自らの役割と自負した頃とは、随分事情が異なってきているが、と言っても、立場としては、何の変化も起きていない。一方で、自分達を虐げられた立場に置き、そこからの脱却を図る人々が、過激な行動に出ていることを、正当化する考え方には、多くの人々が違和感を抱く。更に、虐げられることが、貧困と繋がれば、理解の範囲にあるものの、事件を起こした若者達が、富裕層に属していたとなると、これまでの解釈は通用しない。だとすれば、動機も含めて、彼らの考えを見直す必要が生じ、結局、私利私欲に走るのみの集団と、断じる必要さえ感じられる。宗教も、所詮、仮面の一つに過ぎず、自らの欲を満たす為だけに、走る人々に、尊さなどは、似合わない。

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