パンチの独り言

(7月11日〜7月17日)
(強気、厳罰、異説、無情、非論理的、過誤、政情不安)



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7月17日(日)−政情不安

 遠くで騒ぎが起きている。対岸の火事、と見る向きもあろうが、不安定が強まりつつあるのは、確かだろう。遥か彼方と雖も、広がり続けるかもしれず、近くに来てからでは、遅いということにもなり兼ねない。それも、地球の裏側の出来事でなく、隣の海の話となれば、捨て置けないのでは。
 よそ者の一言に、怒りを表す姿に、震え上がった訳でもないだろうが、いつもの饒舌ぶりは、鳴りを潜めていたと言われる。頼りない宰相の話は、この際、どうでもいいのかもしれない。現実には、世界各地で起きる、不安要素に対して、どのような備えが必要なのか、困難な課題が山積みとなる。特に、互いの行き来が盛んとなり、全体が狭くなったと言われる時代には、対岸の火事の表現は、当てはまりそうにないし、当事者間での、などという戯言も、耳を傾ける必要はないだろう。日頃から、身近な不安を口にする人々は、こういう話題に対して、何とも言えない、無関心を続ける。彼らの感覚の鈍さは、こんなところに現れているのだが、その一方で、あの不安の表情は、何を示しているのだろう。愚かさを強調することを続けているが、ここでも、その問題が現れている。近くの話題にしか関心がなく、それさえも、まともな理解を示さぬままに、過剰な不安反応を示し続ける。冷静な分析は、無視されるだけで、余計な誤解を招くだけだから、無駄よりも悪い結果を導く。にも拘らず、他国の問題には、何の反応も示さないのだから、困ったものなのだ。こんな連中が、票を投じる仕組みに、信頼は失われるばかりだが、その力は、以前より増しているように思える。実は、世界的な不安の原因も、そんな所にあるのではないか。そっちの方が、余程心配なのだと思うが、それこそ、余計な心配と言われそうだ。

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7月16日(土)−過誤

 疑うことを知らぬ人々、何とも危うい印象を受ける。確かに、世界各地で起きる事件には、政治的な目的によるものが多い。のだが、全てがそうとは限らない。多くの人々を巻き込む事件に、こんな呼び名を引き出すのは、安易過ぎるだけでなく、誤解を招くものとなり兼ねない。
 規模の違いから、その区別を当てはめるとしたら、誤解を招くものとなるのでは、と思ったのは、そこに流された「テロ」の一言からだ。犯人の特定も済まさず、事件の背景も明らかにできないうちに、その一言が、安易に用いられることに、抵抗を覚える人は、今、殆ど居ないのかもしれない。だからこそ、何度も飽きることなく、繰り返される常套句に、誰も、疑問を挟もうとしない。だが、路上を暴走し、多くの被害者を出した事件は、これまでに、何度も起きてきた。オタクと呼ばれる人々の聖地と言われた地域での、暴走事件に対し、あの一言を用いた人は居なかったが、それは、凶悪な集団が世界各地を闊歩し始める前だったからだろう。今、同じ事件が起きたら、例の一言が、世界を駆け巡るかもしれない。だからこそ、もっと冷静に、状況を伝えることに、努めるべきではないか。何とかの一つ覚えでは、失われた権威を取り戻すことはできないし、その世界から、政治の世界へと進出した人々の、深慮遠謀ではなく、浅慮近謀とでも言い表せそうな主張の数々に、諦めにも似た感情が出始めていることは、やはり、あの世界に巣食う人間に、信用を回復する能力が、備わっていないことがわかる。分かり易さを強調するだけで、内容の吟味を忘れているようでは、誤解を広げ、愚かさを増すことにしかならない。こちらが注意すればいい、と思うけれど、愚民共に、そんな能力はない。

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7月15日(金)−非論理的

 議論下手の問題は、賛否の表明にも繋がっている。論理の正しさより、人の好悪を優先するやり方では、議論は成立する筈もない。この状態が長く続き、そこに更なる問題が加えられ、論理を掲げる人々は、嫌われ続けている。こんな状態では、好き嫌いで決めればよく、話し合うことは何もない。
 これを憂慮するのも、ごく一部の人間に限られている。特に、好きか嫌いかで決めることに、何の抵抗も覚えない人が多く、それでよしとなる訳だ。好悪を優先する考えを、より強めるきっかけとなったのは、やはり、イジメの問題だろう。これにより、理由の如何に関わらず、兎に角、嫌われる要素を排除することが、第一とされるようになったのだ。これでは、好き嫌いを第一とするしかなく、議論を吹っかけることは、忌み嫌われる要因としかならない。いやはや、恐ろしい時代であり、恐ろしい社会となったようだ。これでは、まともな話し合いをすることは、できる筈もないではないか。それでも、様々な機会を捉え、議論の場が設定される。目的は、別の所にあるようで、アリバイ作りとまで公言する人もいる。初めから結論が決まっており、その為の儀式に過ぎない訳で、これでは、論理の欠片も導き出せない。それが認められるようでは、単なる話し合いも、成立させることが難しい。それでも、この状況に、危機感を抱かないようだから、何かを変える必要も、感じられることがない。では、本当に、問題は一切ないのだろうか。このところ、色々と噴出してくる問題の多くは、感情の起伏に基づくものばかりで、その解決法は、容易には見出せない。ここでも、論理展開を用いて、何かしらの結論を導くことが必要だが、それを感じない人ばかりでは、何も起きそうもない。

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7月14日(木)−無情

 科学に対する無理解は、深刻なものになりつつある。わからないから、という言い訳が、簡単に受け入れられるのは、確かに、高度化の弊害として、やむを得ないものとなりつつあるが、だからと言って、感情的な反応だけとなるのは、如何なものか。論理性の喪失が、別の弊害を招きつつある。
 可哀想とか、同情するとか、感情の動きが、何よりも重視される時代に、科学の無理解は、強まっている。無関係な事象のように見えることだが、実際には、強い関係性を保ちつつ、悪化の一途を辿っているのだ。身近な存在に対して、感情を優先させれば、良好な関係を維持できる。だからと言って、様々な事柄を理解しなくてもいいわけではない。このあたりの事情を、十分に理解できないままに、関係だけを保とうとすれば、全体が崩れてしまうことになり、社会不安が強まることになり兼ねない。ところが、別の不安を訴え、個人のものを優先させることで、全体の疲弊が広がることに関して、気付かぬふりを続ける人が、あまりにも多いのではないか。この原因の一つに、科学への無理解がある、という考えを紹介しても、多くの人は、その関連性をも理解できない。実は、高度に進歩した科学のことではなく、基礎的なものへの理解が十分でないことに、本当の問題があるのだ。科学を理解する過程で、重要となる要素は、そこにある論理性を把握することにある。それを身につければ、何事に関しても、理解を進めることが、容易になるのだが、多くの人は、それをしないままに、感情論に訴えようとし、周囲もそれに同調する。これほどに馬鹿げたこともないのだが、大真面目に、それを続ける人がおり、その結果として、論理的な思考をする為の能力も、失いつつある訳だ。どんな手立てを講じればいいのか。まずは、感情優先を、止めてみたらどうだ。

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7月13日(水)−異説

 科学技術の発達を、諸手を挙げて歓迎する姿は、殆ど見られなくなった。様々な不可能が、可能になるのを、目の当たりにしていた頃、不可能がなくなると思う人も居たが、今は、そこから生まれる弊害の方に、目が向くようになり、新技術の発表は、常に疑いの目を向けられている。
 この変化に、最前線の人々の戸惑いは、高まるばかりとなる。だが、変化の前も後も、科学への理解はなく、期待や夢の実現など、目に見える形のものばかりを、追い求めていたことに気付くべきではないか。益ばかりを強調する風潮が、いつの間にか、害ばかりを強調する風潮へと変わった。だが、どちらも、分析的なものは微塵もなく、表面だけを捉え、それで満足した結果に過ぎないのだ。別の言い方をすれば、論理的ではなく、感情的なものとなる。感情ではなく、夢や期待なのだ、とする人も居るだろうが、その根拠となるものには、論理よりも、感情が優先されている。そこを指摘したとしても、元々感情で動く人々は、考え方を改めることはない。おそらく、そんな能力さえ、持ち合わせていないのだ。これらの人々を説得しようと、一部の人は力を込める。傍目から見ると、これほどの無駄はないと思えるが、渦中の人は、その気になっているようだ。この辺りの事情は、事例を示した方が、わかりやすいのかもしれない。例えば、温暖化で騒がれる現象は、今、科学的な根拠を失いつつある。にも拘らず、一般の人々には、二酸化炭素の増加との関連は、当然と受け取られ、それを問題視する。実は、気温上昇でさえ、どの程度確実な情報かも、疑われ始めている。科学という手段を用いて、現象を分析する上で、ある程度、方向性を定める必要が出るが、それを、固定してしまうと、誤りに気づかず、導かれた結論も、的外れとなる訳だ。こんな事例は、数多あり、振り回される人の数は増え続ける。科学への不信の温床となる現象は、実は、無知から生まれると同時に、当事者の無学からも生まれる。

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7月12日(火)−厳罰

 自由を謳歌しているだけ、と思っているのだろうか。しかし、法治国家においては、自由もある範囲内に限られることとなる。法を犯すことは、厳しく制限されているからだ。では、仮想空間は、どうだろうか。関わる国は、様々にあるから、多くの制限は、適用されないとされる。
 しかし、人間としてあるべき姿には、何も変わりがないのではないか。倫理とか道徳は、確かに、それぞれの社会において、自ずと決まってくるものだろうが、それでも、最低限の範囲はあるものだ。そう考えれば、好き放題に振る舞う人々には、何の権利もないし、時には、厳しく罰する必要があるのは、当然のことだろう。では、何が悪くて、何が良いのだろう。この違いに、明確な線を引くことは、難しいと言われる。同じ行為でも、受け手により、反応が大きく違うからだ。だが、どんな国においても、禁じられていることは、共通してあるのではないか。そう考えれば、一部のし放題は、明らかに、社会的制裁の対象となると思える。特に、仮想空間において、匿名性を利用した、悪意に満ちた行為に関しては、逆の意味で、厳しさを強めてもいいように思う。区別すべきではない、との意見もあるが、悪質さのみを考えても、このような行為には、特殊性が歴然とあるからだ。一方、そろそろ考えるべきことは、仮想空間を特別扱いする必要があるかどうか、ではないか。扱いに窮した結果として、ある意味の先送りを繰り返してきた事情からは、今更、そんなことは困難だとの意見もあろうが、いつか、その決断をすべきとも思える。では、どうすべきか。簡単には、被害者の属する社会を、対象とすべきとなるだろう。仮想と呼ばれても、所詮は実空間と繋がったものに過ぎない。となれば、こんな解釈が妥当となる。ついでに言えば、経済活動についても、同じ観点を適用してはどうか。そうすれば、今話題の脱税の問題など、起きる筈もなくなる。

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7月11日(月)−強気

 炎上の言葉に、恐怖を覚える人が居る。自らの意見を、社会に向けて発信できる機会を得て、正しいと思ったことを、主張している最中、思わぬ攻撃を受けたからだ。始めは、反論を繰り返したものの、多勢に無勢の状態となり、その暇さえ与えられない。その結果として、姿を消す決断をする。
 執拗な攻撃を繰り返した人々は、相手が消えたとしても、手を下げるつもりはない。居ないからこそ、激しさを増し、個人攻撃の火の手は、個人情報に及び、事実と異なる話題へと移る。ここまで来れば、反論もないのだから、言いたい放題となる。誰も止めないのだから、敵の居ない中で、好き放題が罷り通る。こんなことに惚ける人の数は、実は、一握りに過ぎないのだが、彼らに加担する人の数が、炎上を招くと言われる。罪の意識なく、正義を掲げる人々に、何の悪意もないが、結果として、悪に加担する訳だ。問題の根源は、攻撃性の高い人間にあるに違いないが、加担する人の責任は、ない訳ではない。確固たる意識を持てば、状況把握は難しくなく、無益な殺生が繰り返されることはない。だが、現実は、未熟な精神の持ち主が、武器を手に、暴れ回る状況となる。異様なことだが、それに気付かぬ頭では、無理なのだろう。結局、彼らから武器を奪い、大人しくさせるしかないようだ。一方で、攻撃を受けた時の対応も、毅然とした態度で、非論理的な攻撃と、論理的に戦うことが必要だ。以前、勝手な発言が繰り返される場で、事実と異なることまで持ち出されて、批判の対象となった人物は、敢えて、実名での戦いに挑み、誤解を解いた。独り言の場は、今まで、そんな被害に遭っていないが、掲示板では、あらぬ疑いをかけられたり、感情的な議論をふっかけられた。しかし、どこでも、論理的な対応で乗り切ってきた。決して難しいことではなく、誠実に、論理的に、が肝心で、気を強く持つべきと思う。

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