パンチの独り言

(7月18日〜7月24日)
(理解増進、核心、懇切丁寧、気がきく、有害、着手、過剰表現)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



7月24日(日)−過剰表現

 言葉遣いの問題は、屡々指摘されている。若者達の勝手な表現に、厳しい意見が飛び交うことが多いが、それより深刻と思えるのは、大の大人の乱れた言葉遣いだろう。自分も含めて、誤用に気を付けねば、と戒めることが多いが、何を意図したのか、さっぱり分からないものが多いのだ。
 若者の敬語の乱れ、などと厳しい態度をとる人の中にも、首を傾げる言葉を操る人が居る。物や目下の者に対して、してあげると言ったり、目上に、ご苦労様、目下に、お疲れ様、と声掛けする人も多い。最近は、その割合が増えた為に、指摘されることが少なくなったが、年代によっては、あげるの一言が気にかかるのではないか。丁寧さにも、馬鹿が付く程のものが目立ち、例えば、相手を持ち上げる為に、様をつけるのを習慣とする人が居る。店員同士が、客と呼び捨てているのを、聞いた客が怒ったからかは、知る由もないが、お客様と呼ぶのが、通例となっている。これはまだ、気になる程ではないが、医者が患者を様付けで呼ぶのは、受け容れ難い気持ちがする。丁寧さは、自らの気持ちの表れの筈が、何もかも、それを付けるとなれば、気持ちは入らないことになる。こんな丁寧さが、横行し始めてから、既にかなりの年数が経つから、不思議にも思わぬ人が、大部分となっているのだろうが、目下と思しき人々に、様付けをするのは、どうかと思う。客商売であれば、様を付けるのが当然との思いから、本来、そんな商売でないものまで、客を相手にするものと見做し、様の乱立となることが多い。賃貸住宅の募集欄に、入居者様には、などとあるのも、不思議な感覚だし、学校が、保護者に様を付け始め、果ては、生徒や学生に付けるとなっては、如何なものか、となる。本人の勝手であることは確かだが、言われて気持ちの悪いものは、逆効果となるのではないか。敬語の乱れとは、こんな気持ちの表現の間違いも、含まれているようだ。

* * * * * * * *

7月23日(土)−着手

 後進を育てたい、との思いから、その魅力を伝えようとする。伝統工芸の世界の話だけでなく、色々な業界で、様々な誘いの言葉が投げかけられる。でも、その内容や伝え方には、首を傾げたくなることも多い。誘いに乗ってくれれば、落ち着いて話ができるからと、魅力を押し出しすぎるようだ。
 知りたいことがあるから、調べてみようとする。昔読んだ、ファーブルの昆虫記の中で、展開する観察記は、そんな気持ちをうまく伝えていたように思う。だが、最近の研究では、どうだろうか。世の中でどう役に立つか、誰を救うか、どんな新しいものができるか、そんなことを伝えるだけで、なぜ、そんなことに興味を持ったかは、あまり伝わってこない。不思議に思ったから、何故かを知りたかったから、という、ごく自然に湧き出る興味について語ることなく、ただ、どんな成果が得られるか、を語られると、何かが違う、と感じてしまう。案の定、若者の一部には、することへの魅力から、研究がしたいと思うことがあると聞く。何を、ではなく、漠然とした括りの中での研究では、本人も、どうしたらいいのか、戸惑うだけだろう。だが、周囲は、その若者の意欲を評価し、応援するらしい。期待に応えようと感じると、問題は更に複雑化し、出口の見えない道に迷い込んでいく。ごく単純に、知りたいという気持ちから始まればいいが、やりたいから始まると、助言も難しくなる。手当たり次第に学べば、何か疑問に思うことが見つかる、という意見もあるだろうが、やりたいという欲を満たすには、かなりの時間を要してしまう。知りたいと思うことから始めた人は、すでに手をつけているのに、自分は、手をつけるどころか、始まりさえ見出せない状況にあると意識すれば、焦るのも無理のないことだろう。隗より始めよ、ということかも。

* * * * * * * *

7月22日(金)−有害

 誰だって、文句は言われたくない。自分の欠点を指摘されたり、間違いを糾弾されたり、兎に角、この手の動きは、受ける側から見れば、攻撃としか思えない。反撃することができれば、まだ何とかなるかもしれないが、その隙も与えず、次々に繰り出されるのでは、ただ呆然とするしかない。
 では、その後の展開はどうだろうか。最近の傾向は、茫然自失のまま、無言の対応となり、そのまま終わることとなる。だが、その後がいけない。多くの人は、攻撃を受けたことを衝撃と考え、その相手を憎む場合さえある。結局、自分の欠点や間違いは棚に上げ、相手が悪いとの結論を導くことで、自らを正当化するのだ。これでは、折角の指摘も、全くの無駄となる。褒められてきた人間からすれば、突然の叱責は、確かに衝撃的なものだろうが、天狗の鼻が折れたとしても、命まで奪われる訳でもないし、回復の余地が与えられていない訳でもない。それより、先のことを考えれば、批判を受けたことを糧に、対応策を講じることで、改善を図ることができるだけに、その機会を逃すことの方が、遥かに大きな損失を招く。こんな反応を示す若者達にとって、理解を示す大人は、味方と映るに違いない。しかし、これほどに無責任で、これほどに誤った行動はないのではないか。優しい言葉掛けが、人を育てるとの方針は、既に葬り去られている。時と場合により、使い分ける必要性に気付かぬ、何とかの一つ覚えでは、役に立たないばかりか、害さえ及ぼし兼ねない。こんな大人が我が物顔で振舞う場は、若者達にとっては、何の益も得られず、ただ、将来は、あんな大きな顔をしたいと思うだけのものだろう。そもそも、こんな不条理に気付かぬ人々には、大した将来もないのではないか。

* * * * * * * *

7月21日(木)−気がきく

 客の扱いについて、様々に問題提起が行われている。要求を高める一方の事態に、扱いに窮する場面が増えているが、基本となる考え方に、変化が起きる気配はない。いつの間にか、客の要求は、受け入れざるを得ないものであり、断ることは、その存在を失うことに繋がる、と信じられている。
 こういう事例の極端なものが、数多く紹介されているが、その問題が解決する気配は見えない。一度、要求が満たされる感覚を味わうと、その魅力に引き寄せられ、それがあるのが当然となる。冷静に見れば、おかしな状況に違いないのだが、特別な扱いの快感は、それを変とも思わなくなるらしい。傲慢な人間が増えることに繋がり、社会全体に歪みが広がるから、悪いことばかりと思えるが、いつまでも無くならないのは、何か別の要因があるに違いない。一方、傲慢さの表れは、別の形を示し始めている。客の扱いが悪く、自ら原因を作り出しておきながら、その問題に気付かぬ人が増えている。特に、公の機関に属する人が多く、サービスとは名ばかりの状況を作る。表向きは、様々な支援を整備したり、利便性を高めたりと、工夫がなされているように見えるが、実態は、大きく異なるものとなる。計画通りに事が運ばず、客の立場の人間に、不快感を催させる。ここでの問題は、被害を受けた人間の感覚が、加害の立場にある人間には、全く理解されないことで、客扱いも、単なる自己満足にしかなっていない。こちらの歪みも、社会全体に様々に広がり続け、問題が指摘されるが、解決へと向かう気配は見えない。こちらはこちらで、鈍い感覚が居座ることで、問題に気付かぬままに放置される。いつから、こんな歪みが溜まってきたのか。配慮とか、気配りについて、今一度考えるべきではないか。

* * * * * * * *

7月20日(水)−懇切丁寧

 科学に関する記事には、無知を晒け出したものが多い。以前なら、謙遜を基本としたから、理解できなければ、それを補う手立てを講じようとした。ところが、いつの頃か、理解できないのは、説明が悪いと指摘し、更には、自らの立場と異なる説明に、所謂「御用学者」なる揶揄を飛ばす。
 科学としての論理性に、互いの議論の主張は、依るところが多い筈が、立ち位置の違いを表沙汰にするのは、論理を無視することに繋がる。これは、議論における、大きな罪と見るべきで、こんな主張を繰り返す人間は、信頼に値しないと厳しく断じるべきだ。まず、好悪などの感情を排し、理解を基本とした、意見の交換を進めた上で、何が正しく、何が誤っているのかを、細かく検証する必要がある。にも拘らず、その為の必要要素が失われ、罵詈雑言の飛ばし合いになっては、まともな話し合いが成立する筈もない。無知な人間が、感情論に走るのは、ある意味、仕方のないことに違いないが、それを窘めるべき人々が、同じ土俵に立つのを眺めると、愚の骨頂に思えてくる。何を説明しても、聞く耳を持たない人々に、諦めた結果なのだが、それでも、議論を止めてはいけないと思う。数値を用いての説明も、ちんぷんかんぷんとの反応に、何とか、成果を得ようと努力するが、ここでは、理解を促す手立てを講じる必要がある。相手が投げ出す素振りを見せたとしても、そこで諦めてはおしまいだろう。数字は、客観性の表れであり、それを活用することが、論理を通す為に、重要な一歩となる。この基本を忘れ、互いに罵り合うような展開は、何としてでも、避けねばならない。話せば分かる、という状況にないだけに、徒労に終わりそうに思えるが、それを恐れていては、何も始まらないし、誤った方向に導くことになり兼ねない。地道な努力が、やはり、必要だということだろう。

* * * * * * * *

7月19日(火)−核心

 放射能の話を続けよう。子供達を保護すべき、という主張に、反対するつもりはないが、その主張の基となっている考え方には、明らかな間違いが多過ぎて、傾聴の価値なし、と言わざるを得ない。そんな状況だから、もっと注意深く分析すべきと思うが、肝心の基礎知識は、空なのである。
 カメラの前で、泣き顔を見せた人は、情に溢れる人物と見做されたようだが、知識のなさを無視するのは、おかしなことと思う。感情に訴える手法は、こういう窮地の時には、効果を示すものだが、それがある線を越えると、危険な考えを広げてしまう。常に、冷静さを失わないことが、ある特定の人々には、必要なこととされるのは、社会の混乱を避ける為でもある。だが、彼らの声が、伝わり難いどころか、抹殺されるような状況には、愚かな民主主義の表れ、との印象を持たざるを得ない。その状況は、あらゆるものに対する、放射性物質の含有量に関しても、見事なほどに当てはまる。危険なものを示せば、理解が進む筈との見込みは、現況からは、的外れであったと言える。つまり、その数値の持つ意味を、理解することなく、その大小のみで、判断しようとする動きが、大半を占めてしまったからだ。放射能を考える上で、人の力とは無関係に、多くの影響が及ぼされることを、気付かせないことは、問題の本質を、隠すことへと繋がる。危険なものを、過剰に恐れる心情に、今は、寄り添うことが必要との考えも、無知を放置するだけであり、混乱を招く作用しか持たない。その中で、この星が生まれて、生命誕生を迎えた直後から、生物達に降り注いできた放射線は、強い影響を及ぼしてきた。こんな環境で生き抜く為に、様々に獲得された能力のおかげで、生き延びてきた生物だけが、今、身の回りにいるのだ。この事実を理解させることの大切さを、理解しない識者達は、不十分な情報提供しかしていない。カリウムやラドンなど、大切な物質について、もっと情報提供すべきなのだ。

* * * * * * * *

7月18日(月)−理解増進

 重大な事故を機会に、基礎知識が身についた、と思ったけれど、実際には、恐怖や不安といった感情が、表現されるだけで、肝心の知識は、空っぽのままのようだ。避難とは、字の如く、難を避けるものであり、難が何であるかを知らなければ、一体何なのか、となるのではないか。
 放射性物質が放出された結果、周辺各地の放射能汚染は、危険な水準に達したと言われた。まず、ここで、考えねばならないのは、放射線被曝の場合、放射能の強さと時間の掛け算が、その値を決めることに、注意することだ。この方式に従えば、危険とは、単に強さの問題だけでなく、その場にいる時間も重要となる。生活をするのであれば、四六時中、その環境に曝されるが、一時的な滞在であれば、どれほどの時間、その場に留まるかが、危険度を決める訳だ。この考えによれば、子供達の帰還が許されない状況も、生活を基本とするか、一時滞在を考えるかで、全く違う結果となる。理解不足が、こんな所に現れるが、危険を回避する心得として、何事も、避けたいという気持ちであれば、それも良しと言えるのかもしれない。一方、帰還に従い、農業などへの関心も高まっており、土壌汚染の問題が取り上げられる。こちらは、更に大きな問題を抱えており、無理解が横行しているようだ。ある汚染物質に対する規制が、依然として、取り上げられているが、ここでの放射性物質に関しての数値には、自然界に元から存在するものが、省かれていることに、多くの人は気づいていないようだ。恐怖を煽るなどと、無知な指摘をする人間も居るようだが、ここでの基礎知識とは、自然放射線への理解についてなのだ。数値を比較することで、汚染の程度も理解できるし、規制の意味への理解も進む。そんな配慮を忘れ、相変わらずの不安の煽りでは、能無しの状態は変わりそうにもない。

(since 2002/4/3)