凄惨な事件に、心穏やかで居られないのは、当然のことかもしれない。しかし、だからと言って、極端な意見が許される筈もない。こんな時こそ、冷静に考える必要があるのに、当然のことの如く、過激な意見を出す人々が居る。彼らの権利は保障されるべきだが、別の権利を奪っていい訳ではない。
事件の背景として、人権の話が取り上げられている。だが、徐々に歪曲が強まるのに、興奮状態の人々は、気付かぬようだ。人であれば、誰もが保障される権利、という意味なのだが、それを要求するような言動に、違和感を抱く人も多い。だが、主張する当人達には、何の問題もないとする意見が多い。人権の保障は、自らが要求するものではなく、周囲が保つべきもの、という考えが、違う形で扱われることには、ものの考え方の歪みを、意識させられる。今回は、障害を持つ人々に対して、その問題が大きく取り上げられているが、一方で、惨劇を引き起こした人間に対しても、同じ問題が当てはまる。異常を来した人間に対して、様々な措置を下す制度に関して、その不備を訴える意見が噴出するが、この問題は、彼らが主張する程には、単純なものではなさそうだ。障害とは、身体的なものだけでなく、精神的なものも含まれる。今回も、それらが複雑に絡み合った状況で、被害と加害が、歴然と区別された。だが、怒りに震える人々は、加えたか被ったかの違いで、扱いを大きく変えようとする。冷静が常に正しい結果を導く訳ではないが、一方的な判断は、結局は、偏見に基づくものとしかならず、間違った結果に行き着くことが多い。現状を眺めると、まさにその道をまっしぐらに進む人々が、興奮を抑えきれず、正義を掲げて、突き進んでいるように思える。人権の保障の為に、作られた制度を、いつの間にか、変更しようとする動きは、まさに、その人々の権利を奪うものとなる。感情的になっては、道を誤ることが確実とならないか。
口先だけの話は、一杯あるのだけれど、それにしても、あそこまで、と思ったことがある。選挙運動では、自分に有利な話を並べ、人の関心を引こうとする。それまでの実績を提げ、より一層の支持を得ようとするのは、当然の戦略となるが、にしても、あの表現は、明らかに後ろめたさを意識させた。
翳りの見えた政策について、一層の努力を積み重ねる、といった表現は、これまでに何度も聞いたものだが、今回のものは、異常とも思えるものだった。自ら編み出したという意識から、名前をもじった呼び名の政策は、発表直後は、関心を呼び、効果もそれなりの形となっていた。しかし、次々と繰り出される施策が、悉く成果を上げるという目論見も、いつの間にか、何をどうしようとしたのかさえ、さっぱり分からないものとなり、失敗との評価が、度々下されるようになった。それに対して、本人の弁は、失敗していない、というものであり、普通なら、失敗したとの意識から、発せられるものと言われる。驚きは、発言者の常識に欠ける言動だけでなく、それに対する世間の評判であり、発言の意図ではなく、依然として、効果の上がらない政策への、期待を口にする人々にある。行間を読む、などと言われ、言葉に表れない意図を、読み取る力が重要との話は、ここではすっかり忘れ去られている。それくらい、直接的な表現しか、意味を成さない時代なのか。それとも、愚かな人々にとっては、口先だけの話でも、光り輝くものと映るのだろうか。話を聞く人々だけに問題があるのではなく、発言者の愚かしさを表したものと思えるが、自らの言葉に酔う人間には、何の異常も感じられない言葉だったのかもしれない。
利害を基本に、物事を考える。そんな人を見ると、何故と思うことがある。何事にも、利害があるのは、当然のことだが、取りかかろうとする物事が、何かということよりも、その利害関係を、優先して考える姿に、どこか狭い考えを想像する。これは、特に、教育現場で、目立ち始めている。
将来に役立つから、ということを強調され、学ぶことを強いられてきた人の中には、始める前に、必ず、利害の程を提示して欲しい、と思う人がいる。役に立つかどうかで、学ぶかどうかを決める、という考えを、否定することは難しいが、簡単には結び付けられないものが、排除され始めるのを眺めると、何とも、狭苦しさがあるな、と思えてくる。この辺りの事情から、報酬を求める人が増えているのも、気になることだ。学習においては、自己満足が第一となるが、そこに、周囲からの報酬が加わると、様子が一変することがある。合否は、その一つに違いないが、それは、ほんの偶にしか、起きないことであり、日常的に、報酬を得ようとすると、設定が難しくなるばかりでなく、意欲が減退する危険性を高めるように思う。役立つことも、ご褒美も、子供達の為と称して、大人が作り出したことに違いないが、成果ばかりを強調し、悪影響に目を向けなかったことから、全体の歪みは強まってしまった。何をすればいいのか、ということより、何が貰えるのか、ということに目を向ける人間に、面倒が増えているが、社会全体が、報酬を要求するようになり、それが極まると、交換条件がなくなるようだから、更に、面倒が増えることになる。この問題の根底に、教育現場の変貌があるとしたら、止める必要があるのではないか。高みを目指すための努力に、報酬が期待できる事は、ある程度理解できるが、いい加減なものを達成して、何かを手に入れようとするのは、無駄な気がする。
本当に対策は功を奏しているのか。こんな疑問を呈したとしても、成果が上がっているのだから、という一言で、流されてしまう。だが、始めの問いかけの真意は、目標達成の成果ではなく、その後の展開に関するものであり、先を見ずに、目の前のものを手に入れようとする姿勢の問題なのだ。
これもまた、ここまで説明したとしても、傾向と対策に、地道を上げている人々には、殆ど響かないだろう。成果主義も、こんな形が本道だと思われては、困ったものとしか言いようがないが、特に気になるのは、成果と称して、地力を鍛えるのではなく、鍍金とも思える、表面的な力の養成を、目標とすることが多いからだ。これが、人材育成の現場の話となると、実際には、かなり深刻な事態を招きかねないのだが、当事者達が気付かぬままに、時が過ぎていることから、問題とも受け取られていない。となれば、始めの指摘を繰り返したとしても、問題の本質に気付かぬままに、同じことを繰り返し続け、成果を誇り続けるなど、問題は拡大しかねない。では、何をすればいいのか。安直な答えとしては、対策を立てなければいい、となる。だが、それでは、成功に導けない。それも、入り口が大切となる、安定した世の中では、その機会を与えないことは、致命的なことと受け取られる。では、何をすればいいのか。少し時間がかかるが、地力を鍛える為に必要な方法を、我慢強く続けさせることが、本当は重要なのだろう。機会を得る為に、などとの言い訳を発しながら、定着しない知識を授け、一時の誤魔化しを繰り返す。これを止めることが重要で、定着させる為に必要な何かを、どう授けるかが大切なのだ。だとして、どこから動くのか。
平和な時代が続くと、不安を忌み嫌う傾向が強まるが、彼らの多くは、平和の上に胡座をかいている。居座る人間達は、与えられることを当然とし、如何に多くを受け取れるかに、心が奪われている。一方的な考え方に、危惧を抱く人も多いが、そんな意見も、異端と片付けられてしまう。
こんな書き方をすれば、過激な思想のように映るが、現状を、ごく冷静に分析したに過ぎない。問題となるのは、こんな事態にあるにも拘らず、それに気付かぬ人々が、警鐘を、一笑に付すことで、肝心の危機感は、ここでは一切感じられない。極端な考え方は、こんな具合に定着し、当然のものとなる。だが、その進展と共に、歪みは強まるばかりとなり、人間関係も含め、極端な状況が増え続ける。言葉だけでは、上手く表現できないが、実例を挙げれば、少しは分かり易くなるだろうか。例えば、教えられることに慣れた人々は、教えるという行為に関して、一面しか捉えない。自分が理解できないのは、教える人間が悪いから、という言い訳はよく聞かれるが、こんな人達が、教える側に回った時に、起きることは、かなり深刻な状況にある。書いてあることをそのまま読んだり、質問に答える術を持たなかったりと、欠陥は様々に露呈するが、本人は、そのことに気付かず、場合によっては、正しいやり方を、「教えてくれなかった」などと宣う。言葉を失うほどの体たらくだが、与えられることを当然として育った人には、当たり前としか映らないらしい。相手の立場になって考える、という行為も、何を言われているか、さっぱり判らないという若者が、増えているのも、そんな時代背景によるものと言われる。だが、至れり尽くせりの状態を、整える事ばかりで、本人の努力の機会を奪っていることは、こんな馬鹿げた状況を産み出すことに、気付かないのだろうか。
多数決は、民主主義の象徴と言われるが、その意義が、危うくなり始めているのではないか。愚民政治の表れとして、何でもかんでも、直接決めようとするのも、要因の一つであるが、多数決の欠陥として指摘される、少数派の意見の尊重に関して、最近は、全く別の問題が表に現れ始めている。
どちらが多くを占めるかで、すべての決定を下す方法では、僅かな違いでも、白黒を明確にすることとなる。多数決なのだから、当然の成り行きだが、その動きの不確実さや、あるきっかけから、大きく変動することから、果たして、尊重すべき結果かどうかに、疑問を呈する意見も出ている。そんな所から、一度決まったことさえ、改めて、ひっくり返そうとの動きも、ごく当然の権利の如く、扱われ始めている。だが、これは、多数決という方式の根幹を揺るがすものであり、その動きが強まることは、民主主義を破壊しかねないものではないだろうか。実は、勝つ事ばかりに心を奪われ、結果が出た後の少数派への配慮が、蔑ろにされ始めてから、民主主義が壊れ始めたとの指摘もある。勝てば官軍などと、勝手な意見が出るのも、勝負が全てであり、そこから導き出すべき結論は、どうでもいいとの考えが、大勢を占めているからだろう。この国では、人気を誇った宰相の政治手法が、まさにその典型例であり、混乱を極めた挙句に、さっさと引き下がった結果、その後の展開は、見通すことが困難となった。そんな混迷期の政治では、何事も、即物的な示し方となり、餌のバラマキや、一時の魅力を見せることとなる。世界的にも、同じような状況が広がり、論理を優先するはずの国々が、非論理的な誘導に惑わされ続ける。決めるのなら、決めるで、一度決めたことは、守るべきである。これは、たとえ、どんなに馬鹿げた結果が出たとしても、尊重されねばならない。その姿勢が、少数派の尊重へも繋がるのだから。
情報社会の利点は、何だろうか。色々な考えがあるだろうが、情報を手に入れることによって、備えができるというものが、第一に挙げられるのではないか。備えあれば憂いなし、との如く、それにより、不安を解消しようとする。だが、現実は、逆効果となっているのではないか。
不安を解消しようと、情報を漁り続けるが、消え去らないものに、苛立ちが募ったままとなる。安心へと繋がるのが、情報だと信じる人からすれば、収集を続ければ、徐々に安心が広がると思いたい所だろうが、現実は、正反対の状態となっている。その理由は簡単で、情報そのものが信頼に値するものとは限らず、不安を煽る目的で流されたものに接すれば、解消できるどころか、増大させることに繋がる。実は、その点に大きな誤解があるのではないか。知らない方が、落ち着きが保てた、という経験をした人も居るだろうが、そういう点を考えず、ただ、偽物も混じる情報に、振り回されるだけの状況に、何らかの打開策を講じる必要を、感じている人が多い。情報統制は、忌み嫌われる存在だが、強制的なものではなく、自主規制のような形で、実施されていた時代には、僅かに流れる情報を、手に入れることが、重要とされていた。それが洪水のように流れる状況となり、真偽入り混じる状態の中で、どう選び出すかが肝心となると、集める能力ではなく、吟味する能力が重要となる。実際には、その備えが整わず、疑うより信じることを先とすることで、右往左往させられている人が多い。必死で、安心を追い求めた挙句、不安に苛まれるのでは、本末転倒だろう。これでは、知らぬ方が、安全となる訳だ。その状況を理解しつつ、安易に接続できる、怪しげな情報源に、手を伸ばすのは何故か。その問題を論じるより、まずは、吟味する力を養うことが、優先ではないか。