パンチの独り言

(8月1日〜8月7日)
(一攫千金、悪書、反抗、不似合い、馬鹿騒ぎ、反論、無関心)



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8月7日(日)−無関心

 興味を引きたい、という気持ちは、解らなくもない。でも、面白そうだ、と思わせることばかりで、その後がない状況を見せつけられると、相変わらず、成果は期待できそうもない。だが、興味を引くことと、成果を得ることは、どう結びつくのだろうか。そこに大きな問題があるのでは、ないか。
 技術革新に必要となるのは、まずは人材、と言われる。そこで、科学を支える人材の育成を目指し、様々な方策が講じられる。子供は、自然に育つもの、と決めつけていた時代と異なり、今は、安定した時代であり、傾向と対策を整えることが、第一と置かれている。そんなことが取り沙汰されるようになった頃から、対策の不備が、屡々指摘されることとなった。問題点を指摘し、それに対する方策を、講じているように見えるけれども、現実には、空振りばかりで、思った程の効果が上がらない。興味を失った子供達の、目を集める為の方法は、意外な程多くのものが、編み出されており、そこまでは、十分に整っていると言われる。遊びに誘い、それに熱中させれば、後は、一人で次の遊び方を見つける、という考えに基づくものだが、現実には、与えられた遊びには興じるものの、そこから先の工夫を、しようともしない子らに、周囲の焦りは募るばかりだ。興味の強さが足りないとばかり、更なる遊びの広がりを導き、もっと高い所へ運べば、工夫も生まれる筈との目論見も、ほぼ全てが外れている。与えられることに慣れた子供にとって、別の遊びの必要性は感じられず、そのままの面白さに満足する。努力を強いれば、興味が失われ、元も子もなくなるから、この状況では、試みることさえできない。一方、興味を失わぬままに、少しずつでも歩を進めていた子らも、科学に関わる事柄に、教科として触れた途端に、興味が薄れてしまう。ゆとりを持たせたことが、大失敗を招いた結果、以前にも増して、多くの事柄を教え込もうとした結果、興味の喪失が目立ち始めたと言われる。堂々巡りは、どこへ向かうか、誰にも見えていない。

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8月6日(土)−反論

 議論の大切さや主義主張の重要性を、何度も書いているが、根本的な問題が、解決していないようだ。何を話し合うべきか、分からぬままに、ただ、時間が過ぎていく議論や、偏った考えを、相手に押し付けるだけで、確固たる根拠を示せぬ、ハリボテの主張など、形だけで、中身のないものばかりだ。
 この問題の、最も大きな原因は、批判を受けることがない、という環境だろう。これに慣れた人々は、いざ、厳しい批判に出合っても、相手にしないだけで、済ませようとする。議論の場で、そんなことが起きれば、互いの主張が飛び交うだけで、話し合いと言えない状況が、続くだけとなる。それでも、互いに、思いを吐露することができるから、精神的には、落ち着くことができると言われる。では、議論の目的が、そこにあるのかと言えば、そうでないことが明らかだから、ここに大きな問題が残る。本来の目的は、成し遂げられないままに、鬱憤晴らしに使われたのでは、何の為の場なのか、誰にも分からぬこととなる。遣り取りも、端から見れば、無駄の塊に過ぎず、どこに向かうかは、誰にも分からない。結論を導くことが、条件となっていた筈が、それができないとなると、互いに、勝手な意見を並べ、それで話し合いが成立したとする。何故、こんなことが起きるのか。結局、分からないことばかりだが、根本問題を解決しない限り、やはり、何も起きないのだろう。では、どこから始めるか。批判を常とする環境を築くべきか、それとも、競い合わせることで、何かを導くべきか。簡単なことではないが、基礎から積み上げる覚悟が、必要なのだろう。

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8月5日(金)−馬鹿騒ぎ

 ここでも、誰がやっても同じ、という考えが、大勢を占めているのだろうか。いや、その時その場での、対応を考えた時に、適材適所があるべきとのことから、任期を設け、交代を規定したのではないか。そんな議論が始まるのなら、まだマシと思うが、彼らのことだ、下らない論理が噴出しそうだ。
 安定した時代に、安定を狙うのは、当たり前のことだが、今は、いったい、どんな時代なのか。高度の成長を遂げていた時代も、その観点から、安定と見ることができたが、現実には、成長過程での変化が、大きいとの解釈が当てはまっていた。その為か、次々に交代する政権に、安定を求める人々からは、様々な不満が漏れていた。そこには、同じままの方が、安心できるという心理が働き、不変が、別の問題を招くことに、気付かぬ人が多かった。その一方で、官僚が牛耳る中では、政権交代の影響は少なく、結果的に、同じままが維持されていたようだ。それが長く続いた結果、何が起きたかは、誰もが知る所だろう。永遠に続くと信じられた成長は、膨れ上がった風船の様を呈し、結果、爆発にも似た形で、崩壊に舵が切られた。崩れ落ちる中で、安定は消え去り、不安を口にすることが、庶民の常の状況となった。不安定な時代への変貌は、変化を求める心を芽生えさせたが、その一方で、不思議な思考に注目が集まる。だが、安定を求めることと、変化を求めることは、如何にも、矛盾するとしか言いようがなく、身勝手な論理が、こんな所でも罷り通り始めている。今に変化をもたらすことも重要だが、それが歪みを招き、将来が崩れてしまっては、元も子もない。先を見通す力の喪失は、大きな問題を産み出し、下らぬ議論へと、時間の浪費が向かい始める。その下らなさに気付かぬ愚かさは、今の政治の根本問題だが、愚かな故に、それにも気付かぬ。先見性が、肝心と言われる中で、こんな騒ぎは、無駄である。

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8月4日(木)−不似合い

 国技の場に、女が立ち入れないのは、差別である。一時耳目を集めた話題も、今は、目を向ける人も少ない。女性の権利を掲げ、強硬な主張が繰り返されたが、伝統との理由で、一蹴され続けた。何度も挑めば、何とかなるとの考えは、脆くも崩れたが、単に、標的を別に移しただけのことだ。
 男女を区別することに関して、差別の考えを引き合いに出すことは、当然のように扱う人と、何を今更と、取りつく島さえ与えぬ人が、それぞれに多く居ると思う。ただ、正義をかざす人々の中には、攻撃に加わる人が居て、その対応に、多くの人が割かれることとなる。これまで通りの運営を続けようとしても、新たな理由を求められ、軽率な対応は、厳しい批判に晒される。文句をつける側が優位に立つ議論では、一度答えに窮してしまえば、それまでに築いた地位を、失うことにもなり兼ねない。難癖をつけているだけと、無視を決め込んでも、暇を持て余す人々は、しつこく付き纏ってくる。結局、相手をしない間に、相手が構築した身勝手な論理が、恰も、正しいもののように世論は操作され、気付いた頃には、既に遅いとなる。では、どうすればいいのか。要するに、難癖に過ぎないのであれば、毅然とした態度を貫き、こちらの主張を掲げればいいだけだろう。彼らの築いた論理は、その殆どが、感情に訴えかけるものに過ぎず、正当な権利を主張するものでもない。であれば、こちらの権利を主張するだけで済む。マスゴミの連中の劣悪さは、今回の野球大会の事件でも露呈し、自らの愚かさを棚に上げ、攻撃を続けようとする。感情論でなく、きちんとした論理を、と求める声に至っては、はて、どちらがそれを、と問い返したくなる。この所取り上げた本の著者たちと同じく、この業界では、自分の主張と他人の主張に、異なる基準を当てはめることに、何の疑いも持たれない。感情を操作することで、優位性を得ようとする人々に、こんな論理は扱えない。

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8月3日(水)−反抗

 権力を握る側を、徹底的に批判する。報道に携わる人間の、目標とする所、とも言われるが、これでは、前日に取り上げた、プロパガンダと変わらない。それが、権力を握ろうと立候補した、となれば、見向きもされないのも、無理はない。魂を売った、とでも、言われるのかもしれない。
 こんな姿勢だから、大企業が編み出した技術に、反対の立場を貫くのも、当然と言われる。金持ちが、更に、金儲けを目論むことを、何としてでも妨げようと、愚かな人々を扇動する。科学技術の表れに対し、問題を指摘するのに、感情に訴えるのは、彼らの常道の一つだが、この手法が、科学への理解を妨げ、馬鹿げた権利主張から、社会の荒廃へと繋がることに、何の責任も感じない。正義を貫く姿勢と胸を張るが、何の根拠もなく、権力への反発を押し出すから、論理の欠片さえ感じられない。それより、自らの主張の正当化に向けて、味方を増やすことに精を出し、不安を煽り、弱者に擦り寄る。こんな人間が、あるきっかけから、賛成側に寝返ったとしても、根拠は、相変わらず脆弱なままである。科学への理解を深め、それにより悔い改めたのであれば、あれ程の言い訳を繰り返す必要もない。論点は曖昧なままで、非論理的な言動を続けるのだから、信用に値しないままなのだ。書評によれば、絶賛や激賞の一方で、こき下ろしが目立つ。だが、この世界に巣食う人々の欠点は、ここでも露呈している。主義主張による違いに目を奪われ、根拠の検証は全くない。科学の恩恵に浴する人々が、その理解を求めないから、こんなことが起きる。そんなことより、自分の不安が先に立ち、自分の利益を優先する。金儲けを忌み嫌いつつ、そのおこぼれを乞うのでは、何とも情けない限りではないか。

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8月2日(火)−悪書

 プロパガンダは、国が政治の安定を狙い、行うものと決まっていたが、最近は、個人の主張にも、意味が広がったようだ。政とは異なり、主義主張の問題だけだが、論理より自らの考えを優先することから、こんな使い方が始まったらしい。崩壊した政治主義の、過ちとの繋がりからの連想か。
 原子力発電や遺伝子組み換え植物について、反対を掲げる人々は、自分達の主義主張を前面に押し出し、賛同者を募る。興味深いのは、非論理的な主張では、賛同が得られないとの解釈からか、科学的な証拠を示そうと、無駄な努力を続ける部分だろう。科学に不慣れな人々にとって、結果の真偽について、吟味することは難しい。そこで、主張に沿った展開をするものだけを選び出し、それを証拠として、主張の補強を図るのだ。確かに、研究現場でも、考えを優先し、それに沿う結果を抽出する人が居るが、その殆どは、信用されず、地位を築くことができない。その世界に居れば、簡単に分かることだが、政治的な活動を主とする人々には、そんなことは分かる筈もなく、信頼に値しないものにも、主張に沿いさえすれば、飛びつく訳だ。冷静に分析すれば、根拠の脆弱さに、聞く価値さえ見出せないが、恐怖を煽る手法に、惑わされる人々は、必ず居るものだ。その賛同を得て、活動を広げ続ける人々は、無知蒙昧の極みとしか思えぬ存在となる。それを支援する立場として、報道に携わる人々が居るが、彼らの存在も、無駄としか思えない。最近読んだ本に、遺伝子組み換え植物に反対する立場から、賛成する立場へと移った新聞記者が編んだものがあったが、その水準の低さに、彼らが抱える問題の本質を見る気分がした。非論理的な反対から、非論理的な賛成への豹変には、結局、何も科学的な根拠が示されず、ただの心変わりでしかない。本の劣悪さの表れは、著者の紹介にも見られ、学歴には、著名大学卒業などとの記述が目立つ。誤魔化しに慣れた人による誤魔化しは、肝心の、遺伝子組み換え植物の意義に、影を落とすだけだ。

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8月1日(月)−一攫千金

 誰がやっても同じ、と言われた時代もあった。だが、いつの頃からか、それぞれに独自の路線を編み出し、その道筋を邁進するようになった。新鮮味が現れ、違いが明確になるにつれ、魅力よりも弊害が目立つようになったのは、仕方ないことだろうか。失敗を嫌がる人々には、評判が悪いようだが。
 今がいいと思う人から見れば、新しい道を歩み出すのに、躊躇の気を抱くのは、当然のことだろう。安定した時代には、失敗を恐れる傾向が強まるのも、致し方のないところだ。だが、今が良くないと考える人には、変化こそが魅力的に映る。そこにつけこんで、様々に工夫を凝らす人に、注目が集まるのも、止むを得ないところかもしれない。だが、失敗が繰り返されると、これ以上の悪化は避けたいと思う人も出てくる。この辺りの動きは、予想することが難しく、一つのことで、揺れ動くことが多くなる。失敗さえも、次こそはとの宣言で、打ち消す人が出たり、失敗を認めることなく、成果を訴える人が出る。見方の違いは、歴然としているが、提案していた頃の様子を、少し思い出せば、どちらの解釈がおかしいかくらい、すぐに解りそうなものだ。それが、誤魔化されるのは、結局、騙されているだけなのだが、より良いものを追い求める人には、負け続ける勝負事に、次は、と願う気持ちがあるのだろう。勝ち負けに拘ることが、この混迷の主因なのだが、当人には、見えていないらしい。愚かな人々を相手にした政では、こんな展開が続いている。良くなることは、殆どなく、悪いままに終わっても、次こそはと願うのは、まるで賭け事に耽る人々の、心情と同じではないか。自分の生活を、賭け事の対象とするようでは、どうにもならないように思うのだが。

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