経済状況が、教育の水準を決める、とはよく言われることだ。公教育だけでなく、それを補う教育機会が、将来を決めるとなれば、確かに、収入の多寡が、大きく影響することとなる。だが、最低限の機会を保障する為の、公教育の存在について、評価が低過ぎるのは何故か、議論は起きない。
こんな意見に対しては、何を今更、との批判が飛んでくる。公教育では不十分であり、それを補う機会を、与えられるか否かが、人を育てる為に、必要不可欠だと言う訳だ。何度も書いてきたように、傾向と対策が、十分に整備される時代には、それを充実させるような、仕組みに接する機会が、成否を定めるように、見做されている。だが、教育の機会は、補うものに限れば、収入の多少による違いが、如実に現れるが、それは、才能を決めることには、繋がらないのではないか。才能の開花の為に、教育機会の充実が、必要不可欠とする見方についても、もし、その必要が出てくれば、別の仕組みで、それを用意することもできる。奨学金と呼ばれるものは、その為に整備されてきたが、どういう訳か、効果が上がらないと言われる。これも、よく考えれば、原因は歴然としている。本当に必要な者だけに、その機会を与えればいいのに、現実は、そうなっていないからだ。勉学の意欲がさほどでもない人間や、遊ぶ為の金を欲しがる人間に、こんな金を与えれば、無駄にしかならない。でも、多くの場合、そうなっているようだ。一方で、借りた金を返すのは、当たり前のことなのに、それができない人間が、遊ぶ金を欲しがる。これもまた、制度を無駄なものへと、変えてしまう。貧富の差に、目を向けるだけでは、この状況は変えられない。必要かどうかを、厳しく吟味し、機会を活かすことに、専心させる。瑣末なことに目を奪われていては、核心を突くことは、難しくなるだけだ。
何事も、目標を置いて取り組むべし、と言われることが多いが、どうだろうか。子供の頃から、若い頃から、確固たる目標を持ち、それを達成しようと精進したことで、今の自分がある、と言う人も多い。そこから、目標の大切さを強調する声が高まるが、全員がそうだった訳でもあるまい。
目標の設定が大切とされ、それを求める圧力が高まると、人によっては、意欲が殺がれることもある。特に、最も高い所に、目標を置くことが求められると、あまりに遠い存在に、やる気が失せることがある。では、どうすればいいのか。目標にも、遠いものだけでなく、近いものもある。行き先を定めず、ただ漫然と進むだけでは、長続きが出来ない、という人からすれば、近くとも、何らかの目標を定めた方が、いい結果が得られ、いい経過を辿ることができるのだろう。ただ、一方で、最近流行りの考えからすれば、達成感ばかりに気が奪われ、それを手に入れた途端に、何も手につかなくなる場合もある。この点に関して、ある偉大な野球選手は、全く違う見方を示していたが、彼の考えを参考にすれば、目標の達成だけに目を奪われる人々は、所詮大したことを成せない、ということだろう。だから、達成できそうにもない、遠くの目標を、というのでは、本末転倒となる。成長過程で、様々な浮き沈みがあり、それを乗り越える為に、人々は、努力を重ねる。その過程を重視するのであれば、それぞれに、どんなやり方が当てはまるのか、その違いを受け入れ、それぞれの好むやり方をとるしかないだろう。あたかも、絶対的な成功法があるかのように、世間では、主張する人も多いけれど、本質を知らぬ人の戯言と、片付けておいた方が、無難に思う。
早く始める時に、大切なことは、やる気を無くさせないこと、と言われる。その中から、叱ったり、貶したりするより、褒めたり、煽てたりすることが、大切とされる。これが当てはまるかどうかは、現状を眺めれば、直ぐに解ると思う。多くの場合に、厳しい環境だけが、人を育てている。
確かに、褒めることで、やる気を維持させることができ、継続により、それなりの水準までは、成長するように見える。しかし、一般的な意味での、優秀さを求めるだけでなく、更に上を目指そうとした場合、周囲からの激励は、段々効果が見られなくなる。理由は定かではないが、頂点を目指す上で、自らの心の中から湧き出る、別の形の意欲が、重要な役割を果たすと思われる。そんな時には、激励は、意味を成さなくなり、厳しい環境が、重要となる。そこまで上り詰めると、次には、周囲からの安易な働き掛けは、何の意味も無くなり、自分こと以外は、目に入らなくなるようだ。更に上に行くと、激励にせよ、批判にせよ、他人の反応は、それとして受け止めるようになり、批判に対しても、真摯に対応するようになる。人は、自分の位置により、こんな具合に、反応を変えるものだが、対策を重視する人々は、何か一つのことに拘るようだ。本人が、やる気を見せ、意欲を示す中で、周囲が、どう対応するかが、大切と言われるが、優しく、温かく、などと、軽々しく考えるより、鍛える意味で、厳しくした方がいい。というか、本当に上を目指す為に、早く始めることを選ぶなら、優しさは無駄であり、厳しさが必要なのだ。
傾向と対策の例は、数多あるに違いないが、中でも、将来を見込んで、何事も早めに始める、という方法が、好まれているようだ。大人になる前に、というのは当然で、それが徐々に早まることで、大学が、高校が、中学が、小学校が、という流れは、幼稚園どころか、生まれる前にまで及ぶ。
技術革新の結果として、様々なことが可能となり、医学の分野でも、多くの人が救われるようになっている。ただ、中には、首を傾げざるを得ない、奇異に映るものさえある。生殖医療と呼ばれる分野は、その一つであり、不妊治療は当たり前となり、それが、子を授かるという考えを、変え始めている。五体満足な子を望むのは、親として当然だが、そこに、更なる欲望が持ち込まれ、望みを叶える為に、子を選ぼうとする動きさえ起きている。神を冒涜する、などという考えにさえ、賛否両論が飛び交う時代なのだ。そこまで極端に走らなくても、対策が極端になるものが多く、奇想天外な提案までもが、大真面目に取り上げられることがあり、無駄な試みが、何度も繰り返されてきた。しかし、それさえも、無駄とは切り捨てられず、次の対策へと繋げられる。こんなことが、何度もあった挙句に、成果が上げられないと、普通は、諦める筈が、どうも世の中の流れは、そうなっていないようだ。人材育成への手立てとして、早期教育が重要との見方は、今は当然とも思われるが、実は、年齢相応のことを、やらせることの重要性は、無視され続けている。こちらの見方をすれば、全く違った展開があるが、どうだろう。機会に恵まれず、年相応な生活を送った人に、遥かに大きなチャンスがあるのは、そんなことなのではないか。
人生の岐路は、様々な場面で訪れる。ただ、その場では、悩みに沈む程に考え込んでも、後から思うと、実は大したことでなかった、ということも多い。人生の終焉を迎えると、そんな見方も出てくるが、選択を迫られる時期には、他のことを考える余裕など無く、ただ、焦るだけとなるのだ。
そこで、もっと余裕を持って、様々な障害に立ち向かえば、との助言が、屡々送られる。だが、本人にとって、そんな助言は、殆ど役に立たない。これが人生の行方を決める、と考えている時に、どんな余裕が必要なのか、見えてこないからだ。では、何もすることはないのか。一つには、決めねばならない、という考えを、変えてみることがあるだろう。始めに書いたように、後々、大したことではなかった、と思い起こすように、その場の騒ぎが、いくら大きくても、決断の結果に、大した違いは出てこない。だとすれば、決めることへの焦りを少なくし、気楽に決めることを、考えたほうがいい、ということになる。余裕とは、少し違う形で、心の安定を目指す訳だが、経験の無い人々には、難しいことと映る。自分が、大事と考えることを、大したことは無い、と言われるのは、やはり心外だろうし、そんな考えに向けることは難しい。焦らず騒がず、と言われたのは、単に、それだけのことなのだが、渦中の若者達にとっては、難しいことに思えてしまう。岐路に立つ、という感覚からは、程遠いことだが、気楽さが、必要不可欠なのだ。
改めて、どんな役割を果たすのか、と思った人がいるだろうか。一辺倒になりやすい業界は、発言が流されそうになった途端に、個人の意思を、尊重する姿勢を示し始めたが、この話題についても、的を大きく外しているように感じられる。労りの心を表して、何を伝えたいのか、と思う。
自分達との違いは、初めから、歴然としている。特別な家系に生まれ、特別な役割を果たすことが、当然となる中で、自分の意思を表明する機会を、得ようとしないのか、あるいは、与えられないのか、どちらなのかは、本人にしか分からないことだろう。だが、その中で、何かしらの動きを決断したことには、どんな意味が込められているのか、想像するしかない。でも、それを、どう解釈するかについて、また、捻れ始めていると思える。談話の内容を、ただ伝えるだけでなく、その前後に、様々な識者の発言を加える。その中には、個人の思いが込められるが、実は、本人の発言だけが、一人ひとりに向けられたものであり、各人が、それぞれに受け止めればいいだけのことだ。大騒ぎは、常に、重要さを表すこととして、受け止められてきたが、この場合は、自分のこととして、考えればいいと思う。特に、今回の談話の内容は、少々難解な言葉の羅列となり、受け止め方の難しさが、これからも度々取り上げられるだろうが、要するに、事情の説明をしたと見るべきだろう。そう思うと、果たして、象徴の役割とは何か、を考える必要が出てくる。公務の多さを指摘する声があるのに、それぞれにおける、象徴の意味を考えない。この話題にも、思慮の浅さが、見え隠れする。それに気付かぬふりをする、識者と言われる人々と、それを垂れ流し、意味不明な特集を組む、マスゴミ達、何をしたいのだろう。こんな人々の労りに、何も感じられないのは、当然ではないか。
不思議に思うことが、興味の始まりと言われたのは、遠い昔だろうか。面白いことが、興味に繋がると言われるようになり、それが、遊びへの誘いとなって、随分長い時間が経過した。その結果、何がどう変わったのか。何も変化がないとの意見には、別の反論を向けることもできる。
難癖の一つと見る向きもあるが、その前に、思い出して欲しいことがある。興味が失われつつある中で、遊ばせれば、どうにかなるとの意見が出され、それに与したのではないか。その成果が上がらなければ、遊びの導入という提案は、功を奏しなかったことになる。興味を抱かせる、という点だけから見れば、大成功とも言える状況にあるが、次へと繋がる道は、閉ざされたままである。何が問題なのか。興味を抱かせるだけなら、これでいいのかもしれないが、失われた興味は、ここで獲得できたものとは、違うようだ。与えられた面白さに、何の疑問も持たずに、遊びに興じるだけでは、その中に潜む何かに、目を向けることはない。既存のもので、満足するようでは、次の段階へと、向かう力は起きてこない。その力を養成する仕組みとして、遊びを採り入れた筈が、その場に座り込んで、享楽に興じるだけでは、何を目論んだのか、となるのだ。教え込むことを、重要と決めつける時代を経て、遊びへの大転換が図られたが、結果は、惨憺たるものに終わった。次は、どんな奇抜な提案が為されるのか。そんな期待を持つのかもしれないが、原点に戻ることを、考えるべきではないか。何かを与えることが、恰も、最善の策かのように、思われているが、何も与えず、何も奪わない、つまり、特別なことは何もしない、というのが、不思議に触れることが、自然にできる唯一の方法かもしれない。芸術などの一部には、与えない限り、機会を得ることのないものがあるが、科学への興味は、その種が、周囲に幾らでも落ちている。子供の心は、興味の塊であることは、今更言うまでもないのだから、そのままに、放っておくことが、一番だろう。