報道に携わる人々も含め、組織を批判すれば、それでいいと思うのは、何故なのだろうか。力を持つ人間を、常に悪者と見做すことで、弱い人間を保護しようとする。そんな理由が、屡々説明に使われるが、どうにも納得できない。特に、悪事を働いた人間を、擁護する言動には、矛盾が一杯だ。
力を持たない人間は、自分では何も決められないのだから、全体に対する責任を、負うことはできない、との主張を、度々聞かされる。だが、それが良いことか悪いことかの判断は、力の有る無しに関係なく、人としてどうか、という基準を持って、行えば良いのではないか。間違いを繰り返しても、それに対する注意や警告がなかったから、彼らには責任がない、と断定する人々は、いかにも、弱者の味方のように、振る舞う。だが、一部を除けば、間違いを繰り返したり、悪事を働いたりする人には、その意識があり、罪を犯したことに関して、何の責任もない、とは言えない状況にある。それを、こんな形で片付けようとするのは、明らかに間違いなのだ。それを、権力者への反抗と、何をどう取り違えたのか、勝手な論理で、力を握る者を批判することに終始する。実は、弱者と見做された人間の多くが、こういう救済を受けたことに、何の疑問も抱かず、自分を正当化するだけとなり、反省することなく、別の間違いを犯し続ける。強い者が、常に正しいとは思わないが、弱者は、常に救われるべきという、間違った考えに囚われた人々が、身勝手な言動を押し付けることで、結局、何も解決しないこととなるのは、社会的には大問題である。この問題を、力の強弱、権力の有無、といった問題へとすり替える人間に、倫理も道徳も、語る資格など、ある筈もない。
結果が全てと言われる一方で、頑張りや努力に注目する人が居る。確かに、頑張ることも、努力することもなく、良い結果を手に入れることはできないが、努力を強調する人の中には、結果の良し悪しに関係なく、過程を重視する人が居る。この考えが強まると、様子がおかしくなるようだ。
結果を手に入れることで、更なる高みを目指すのは、ごく当然の成り行きだが、悪い結果で、辞めざるを得なくなっても、努力を怠らなかったからと、次の機会を与えようとする。この考え方には、賛否両論があるだろう。努力を積み重ねる過程で、一つや二つの挫折は、大したことのないものとの判断が、下される場合があるものの、積み重ねは途切れてしまう。頂点を目指す争いの中では、失敗を取り返す過程も、重要なものと見做されるが、それとは違う、普通の人々の争いの中では、少し様子が異なってくる。特に、可能性を開く為に、機会を得ようとする場合に、努力を第一とすることがあるが、才能があり、それを活かす機会を与える必要があるなら、理解できる部分も大きいが、そうでない時、特別な機会を与える必要があるか否かは、もっと厳密に検討しても良いように思う。最近の、貧困問題を引き合いに出し、機会を奪うことがよくないとする考えには、どこか的外れな見方が、主体となっているようで、無理筋としか思えないこともある。努力は当然とし、その価値を才能との繋がりとして、扱うべきとも思えるが、何とも不思議な論理が、押し付けられているようだ。機会均等とは、どういう意味かを、もう一度考えてみるべきと思うが、どうだろうか。
調子が狂う。時差に振り回されるのは、何も旅行をする時だけでなく、情報を手に入れようとする時にも、起きることなのだ。太陽の動きに従うのか、月の動きに従うのか、どちらもあり得る中で、丸い星の上では、場所によって時間の流れが違う。その違いに、惑わされている訳だ。
何事にも、情報を手に入れることが、必要不可欠と言われる。その為の時間を、どのように捻出するかが、肝心となる訳だ。だが、時を争う中で、全ての情報を手に入れようとすれば、四六時中、収集を続けることが必要となる。だが、そんなことを目指そうとしても、人間が生き物である以上、休む時間も、眠る時間も、必要となる。では、どうすればいいのか。まずは、全てという考えを捨てねばならない。どこまでを許すのかは、一概には決められないことだが、ある程度、始めから捨てておかねばならない。もっと大きな問題は、時間のズレに関することだろう。起きた瞬間に手に入れることは、確かに、重要なことには違いないが、それに拘る余り、余裕を無くすことは、避けねばならない。生の情報の重要性は、自身による分析の為には、確かにあるには違いないが、それを行う為の時間が必要となり、別の情報を失う恐れが出てくる。この辺りの程度が、実は、最も重要な要素となる。失うことを、過剰に警戒する人が多いが、実際には、無理をせずに、ある程度処理された情報を、手に入れることに、専念したほうがいい。但し、処理後の情報には、様々な欠落があることに、注意を要する。情報を手に入れるのに必要となる時間と、情報の質の間の関係は、簡単には理解できないものだけに、色々と試みる必要がある。
忘れっぽくなっている。齢を重ねるにつれ、気にする人が多い現象だが、致し方のないことなのか、それとも、何かの妙薬があるのだろうか。そんなことを気にしつつ、どうしたものかと思う人が殆どだろう。だが、甚だしい状況に陥らない限り、気にする必要はないのではないだろうか。
では、どこまでが許される範囲なのか。人それぞれに、境は違うところにあるが、微妙な点に関しては、各人の思いの差として、気にすることもなさそうだ。自分の問題として考えれば、調子が外れ始めた所で、どんな対応が必要となるかを、少し考えておけばいいと思う。多くの場合、周囲への影響が大きく出るのは、忘れること自体が問題となるからではなく、それに対する本人の反応に問題が起きるからである。忘れたり、間違えたりすることが繰り返され、周囲に苛立ちが起き始めると、どうしても、厳しい言葉が向けられることがある。それに対して、本人は、自分を守る為も含め、反論を繰り返すことになり、間違いを認めぬ頑なさが、目立ち始める。ここでの周囲の対応が、状況を悪化させるか否かを、決めるように思う。病状の悪化ばかりに、皆の目が集まるけれど、実際には、ある程度の加齢による問題を、どう受け止めるかの方に、もっと目を集めるべきだろう。酷い状況ばかりを伝え、その解決法を議論するが、現実には、全体を見渡すことが、不十分なままに終わっている。本当に、その問題を解決したいと願うのであれば、全体を見渡し、細かなことにも、目を向けるべきだろう。その上で、各段階の問題を整理し、それぞれの対策を講じるべきだろう。結果や結末ばかりに目を向ける傾向は、実は、問題解決を遠ざけているように思える。
特集番組が、次々と流される。どれ程の人が、興味を抱くのかは、全く分からないが、恒例の行事のように、流されている。知らないことの多さに、改めて、驚くことが多いが、これもまた、一過性のものに終わるのか。重要な情報に違いないが、果たして、万人にとってのものか、判断はつかない。
色々な見方があるから、それぞれからの分析を進めれば、全く違った様相が見えてくる。しかし、全体として、何が問題なのか、という点からすれば、所詮瑣末なことに過ぎないだろう。記憶に残ることは少なく、印象も残らない。だが、このような形にせよ、記録として残すことは、重要なのだ。それでも、情報過多の時代には、それらを、もう一度引き出すことさえ、難しいのも事実だ。書物という媒体から、電子媒体への変化は、記録保存としては、膨大な量を可能とするだけでなく、それに触れることも、ある程度容易にすることができる。これが、次にどのような展開を招くのかは、まだ明らかになっていないが、少し時間が経過した頃に、徐々に明らかになるだろう。その時、記録の重要性は、改めて認識されるのかもしれない。それとも、情報の氾濫に巻き込まれるだけで、何の理解も進められず、結果として、無駄なものと片付けられてしまうのだろうか。何れにしても、現時点では、分析を繰り返し、記録に残すことを、続けていくしかない。それがどう展開するかは、今の人ではなく、将来の人の判断に委ねるしかないのだ。歴史とは、所詮、そのようなものであり、名を残そうと躍起になっても、成果が得られないことは、度々起こる。
忘れないことの大切さが、毎年のように訴えられる。それに巻き込まれた人間が、忘れることができないのは、当然として、それ以外の人々が、覚えておかねばならないのは、何故なのだろう。当事者が、その訴えを続けることに、異論を唱える人はおらず、あれもこれもと言われてしまう。
こんな調子で、何もかも覚えておこうとしても、記憶には限りがあり、全てを忘れずにおくことは、不可能である。にも拘らず、それぞれの事柄について、忘れるなと言われることに、抵抗を覚える人は、確かに居るだろう。だが、それを公言することは、どういう訳か、憚られていて、忘れるなという主張だけが、強く印象付けられる。記憶に留めることの難しさは、各人の問題であるが、社会的には、それを要求される雰囲気があるから、皆、抗うことを避け、主張を受け止めようとする。だが、良いことも悪いことも、人間は、すぐに忘れてしまう生き物である。それによって、次への取り組みが、可能となる場合も多く、忘れることの必要性は、もっと強調されてもいいように思う。では、事件も事故も、何もかも、人々の記憶から、消し去られてしまうのだろうか。確かに、一時的には、そんなことが起きるようにも思えるが、一方で、記録に残すことで、記憶を蘇らせることを、可能としている。心理学の世界では、強烈な印象を受けたことに関して、あえて、それを忘れようとする仕組みがある、と言われる。嫌なことを忘れようとするのも、その例の一つだろうが、それを妨げる動きに対して、反対する権利は、残しておかねばならない。記録と記憶、どちらも大切なことに違いないが、いい加減なものとなりうる、記憶について、強調し過ぎるのは、危ないように思う。それより、正しい記録を残しておけば、誰もがそれを知ることができ、間違いも起きなくなるのではないか。