科学者の不正に、庶民はどんな感覚を抱くのか。血税を無駄にして、との批判が強いが、それとは無関係なことも多い。国に雇われたり、国からの補助金を受けた場合には、確かに、税収がそこに注ぎ込まれるが、企業や私的研究所に属する人も居る。彼らには、あの批判は当たらないだろう。
学者と言えば、世離れした人間の代表で、自分の興味ばかりを追い、出世にも収入にも、無頓着だと言われてきた。だが、今話題となる不正では、地位や収入に目が眩み、悪事に手をつけた人が、中心となっている。あの世界にとっては、大転換の一つだろうが、何がきっかけになったのだろうか。一つは、社会全体に、閉塞感が強まり、打開策として、成果主義が台頭する中で、あの世界も、御多分に洩れず、成果を求められたからだろう。それも、成果を掲げ、より高い地位、より多くの研究費、より高い収入を得る人々に、注目を集めた報道の動きが、拍車をかける形で、不道徳や非倫理が、横行し始めたと思われる。人気稼業とは違い、地道な活動を続けることが、確かな成果を得る為の、唯一の方法と思われてきたのに、注目を集め、金さえ集まれば、成果は何とでもなる、と思い始めたのが、彼らの没落の始まりなのだ。不正ではないが、以前から、問題視されてきたものに、地震予知がある。学説が、法律となり、恰も可能であるかの如く、扱われ始めた頃、反論を唱える人間は、研究場所を海外に移さざるを得なかった。今となっては、どちらが正しかったのかは、明白だが、学説を出した科学者たちは、何の責任も負うことなく、鬼籍に入ったようだ。これこそが、血税の無駄の典型であり、不正と言えずとも、過ちの一つとなる。今や、確率でものを言おうとしても、庶民には響かない時代であり、本当に起きるのか、と問い返される。確率は、起きるけれど、何時かは解らぬものに、使うのだが。
私利私欲のことを批判する時、エゴと表現する人が居る。エゴイズムとは、利己主義のことであり、自分のことしか考えぬ人に対し、こんな呼称を使うことが多い。気になるのは、この言葉を使う側の問題だ。相手の自分中心を指摘する一方で、自分は、全体を見渡している、と思っているらしい。
だが、最近の傾向は、自分のことを棚に上げ、他人を批判することが多く、この場合にも、同じような状況が生まれている。時には、批判される相手より、自分の方が、遥かに自己中心的で、偏見に満ちた意見を並べる人もあり、恥ずかしくないのか、などと心配になる。ただ、これについては、心配無用というものだろう。本人の自己中心は、そんなことに気付かぬ程に、強いものであり、他人の批判に励む余り、全体どころか、自身の姿さえ見失っているのだ。ある意味、幸せとも思える状況だが、早晩、この手の論理の破綻が訪れ、批判の矢に曝されることとなる。では、やはり、心配した方がいいのでは、という意見が出るだろうが、それとて、本人の中では、勝手な論理によって、消し飛んでしまい、種さえ残らぬ状況にある。要するに、こんな輩の意見など、耳を傾ける価値さえない、と断じるべきものであり、無視するのが、簡単な方法だろう。だが、情報社会の充実は、こんな意見でさえ、大きな割合を占め、その極端さから、興味を抱く阿呆を集めることとなる。昔なら、早速に、批判の矢を浴びせかけられるが、今では、そんな劣悪品が巷に溢れ、矢が尽きているように思える。こんな環境では、自己陶酔に耽る人々は、反省する機会もなく、無能集団の応援を得て、舞い上がる。批判に手間がかかるのなら、無視するしか手立ては残っていないが、そのやり方に、一工夫が必要な時代のようだ。
もしもの時の為に、備えておくのは、今や当然のこととなっている。ただ、周辺の事情は、少しずつ変化しているようだ。もしもとは、ほんの偶にしか起きないことを表しており、それへの備えには、なけなしの金を掛るのではなく、余裕が持てるほどの少額を、注ぎ込むのが当たり前だった。
掛け捨てという考えが、主流だった時代と異なり、どんなに少額でも、何かしらの見返りを求めることに、多くの人々が、興味を持ち始めると、割引があったり、返金が為されたりと、新たな種類の商品が、次々に登場することとなった。もしもの備えという、同じ考えに基づくものの、そこには、少しずつ違った考えが加えられ、互いの区別を理解することは、困難を伴うようになる。今までなら、同じ状況を続けるだけが、消費者の選択だったのが、変更による利益を、強調するような勧誘手法が多くなると、少しでも有利なものを、と願う人々は、右往左往することとなる。だが、銭失いとなることも多く、実際の選択が、正しいものかの判断は、より難しくなる。そんなところに現れたのが、比較する為の仕組みなのだ。業界の共同事業として、中立の立場から、比較検討することを目的として、設立された組織は、それが恰も大きな利益を生むような、印象を与えようとしている。だが、様々な要因が絡む事象では、簡単に結論を出すことはできず、個々の事情を考えれば考える程、判断が難しくなる。ただ、注目を浴びていることは確かであり、他業界でも、同じような仕組みを採り入れる動きが起きているのは、その反映と考えられる。しかし、このやり方は、傾向と対策の一種であり、以前から取り上げているように、それを切り札のように扱うのは、無理があるように感じられる。少しでも有利に働くように、という思いも、入試対策での話と似ており、消費者の心の隙をついているように思える。どれほどの効果があるのかを、検証することも困難で、結論が導けないからこそ、他の業界へも広がることは、大いにありそうだ。
知らないことを紐解く為に、色々と調べ上げる。経験したことを書くのと比べ、対象となる範囲が広いだけでなく、主観的な見方より、客観的な見方ができる、と高い評価を得ることが多い。歴史を紐解くことで、事実を掘り起こすと言われるのも、そこにある客観性の所以だろう。
そんな評判のものに、実際に触れてみると、落胆させられるのは何故か。簡単に言えば、名ばかりの客観性を掲げ、現実には、偏った考えに基づいた、捻じ曲げられた歴史の紹介、に過ぎないものとなったからだ。主義主張を持たず、全ての情報を調べ上げることで、冷静な分析を勝ち得たとの評判は、間違った理解としか思えず、自分の考えに見合う情報のみを、殊更に取り上げることで、ある主張に結びつける。一見、情報の解析に基づく、客観的な分析の結果のように思えるが、実際には、客観性の欠片も無く、著しい偏見に基づくものと、断じるべきものに過ぎない。最近の出版物には、こんな傾向が強く窺え、書き手の資質の問題だけでなく、それを出版へと結びつける、組織の問題として、厳しい批判を向けるべきと思う。売れないから、話題となるものを、という編集方針は、結果として、極端な意見を集めたものに、魅力を感じることとなる。昔なら、一笑に付されたようなものに、光を当てることに、何の意味もないことは、火を見るよりも明らかだが、それを大真面目に、新説や新解釈として、売り込もうとする。異論に触れることは、必ずしも悪いことではないが、正論を知っていてこそのものであり、異論の陳列のみで、人の考えが纏まることはない。教科書の間違いを指摘したり、定説を覆したり、無を有にするなどといった行為に、与することは何を意味するか。彼らが、知っていなければならない、大切なことだ。
不正を暴く、という行為に、賞賛の声を上げる人が居るが、どうだろうか。その行為自体に、反対の意見がある訳ではないが、やり方に関しては、異論を唱えたくなる時がある。正義を貫くこと自体、悪いことなど一つもない、と思う人は多いけれど、罪のない人にまで、影響を及ぼしてはいけない。
不正と呼ばれる行為の中には、法律を犯すものと、そうでないものがある。違法行為の場合、社会秩序を守る為に設けられた、法律に反する行為であり、社会によっては、そうならないこともある。環境によって、異なる形に解釈される訳で、考え方の違いの表れの一つとなる。古今東西、同じ基準に沿ったものであれば、疑問の余地なく、不正と断じられるが、そうでないものに対しては、様々な意見が投げられる。法律に規定されるのだから、厳しく罰するべきとの考えもあろうが、細かく定めねば、理由が分からない程のものとなると、罰を与えることが、意味を持つかが判らなくなる。一方、法律にはない不正も、世の中には存在する。嘘を吐く、騙す、偽装する、などといった行為も、法律で定められたものとは無関係なものがある。軽微なものと見做すこともできるが、そうでない反応が出ることもある。最近、話題となっているものは、研究分野のことであり、様々な不正が指摘されている。しかし、そこには、守らねばならない法律は、存在しない。では、何を根拠として、不正と断じるのか。改竄、盗用など、人間としてあるまじき行為に対し、それが適用されるようだが、そこでは、道徳や倫理という、人間として当然守るべきものを、根拠とする場合が多い。法律で禁じるという形の、防止の為の手段は、そこにはないから、どう防ぐかが大きな問題と捉えられている。その悩みが判らぬ訳でもないが、にしても、研究における倫理などと、ふざけた話などせず、人としての倫理を、もっと論じるべきではないか。
統計に騙されるな、という掛け声が、強まっているが、どういう意味だろう。自らの主張を補強する為に、様々な数値を引き合いに出し、その信頼度を高める為に、統計処理を利用する。主張が妥当なものであれば、こんなことに批判が集まる筈もないが、実態は、とんでもないものほど、統計を使うようだ。
差の見えない所に、歴然とした差を見せようとする。そんな意図を持った処理に、疑いを抱くのは、当然のことだ。にも拘らず、異様とも思える主張に与する人々は、数値を頼りに、強気の姿勢を示し続ける。となれば、反論にも、数値や統計が必要となる、と思う人も多いが、相手の土俵に上がる必要は、必ずしもないのではないか。誤った手法で集められた数値や、不適切な処理を施した統計では、それを打ち砕く反論には、同じような処理は不要だからだ。手法の間違いや処理の不適切さを、適正に指摘するだけで、こんな暴論は、簡単に却下できる。それを同じ形の議論に加わると、相手の思う壺にはまる。結果として、無駄な時間が流れ、正しい結論には程遠い状態に、陥ることとなる。暴論の場合、間違った方法によるだけでなく、同じ結果でも、違った解釈を適用することで、正反対の結論を導くこともある。こちらも、解釈の誤りを、的確に指摘するだけで、馬鹿げた主張は打ち砕かれる。ここでも、自由な解釈を主張する人に対して、その論理の過ちを、一つ一つ指摘すれば、それで済むことなのだ。自由は、あくまでも、ある範囲に留まるものであり、奇想天外なものまで、認める必要などありはしない。人との違いを強調するあまり、異論をも受け入れることが、寛容さの表れのように、思う人がいるようだが、その弊害が、最近の議論に、悪影響を及ぼしているようだ。批判的な姿勢を、常に持つことこそが、今の時代を賢く生きる為の術と思う。
有意差、という言葉を、聞いたことのある人は、多いと思う。統計の世界で使われ、ある事象と別の事象に、意味のある差があるかどうかを、示す指標である。一目で違いが判る場合は、そんな処理をすることなく、結果を眺めるだけでいいが、殆ど違いがなくても、差が有ることを示すものだ。
統計の世界では、一見差がないように思える事象に、有意差を見出すことで、違うものと断定する。日常生活で、こんなものが必要になることはないが、例えば、薬の有効性を確かめたり、集団間の違いを確かめたりする場合に使われ、結果として、生活に大きな影響を与えるものと言われる。差を主張する人々からすれば、確実なものとの認識があるのだろうが、それを受け取る人々には、どんな処理なのか理解できず、確実さについても、疑問が残ることが多い。明らかな差との主張も、見ただけで判らないものに、何故、そんなことが言えるのか、疑いを抱く。僅かな差を、際立たせる為の手法とも言われるが、時には、全く差がないように思えるものにさえ、差をつけているように感じられる。そこには、作為が入り込む余地があり、恣意的な操作となったとしても、過程が見えないだけに、反論が難しくなる。ある薬の別の作用を主張した、数々の論文が、捏造と断定されたこともあり、処理後の結果を鵜呑みにする危険性は、常にあるものと思わねばならない。同じように、影響が定かでないものにも、有意差を見出して、いかにも大きな影響があるかのように、訴える主張が出される。これについては、統計処理に間違いがなくても、差が何を表しているのか、見えてこないものには、疑いを持つべきだろう。個々のデータについて、差が有ることを反映した場合、どんな意味が出てくるのか、主張する人間は、影響があること以外に、何も訴えない。特に、人間の集団を対象とした解析では、個体差を無視することが多く、結果として、全ての原因を、外的要因に帰する。有ると見ての解釈と、無いと見ての解釈では、始めから、結論が異なってくる。処理が機械的なものでも、結果に作為が入り込むようでは、それ自体の信頼は、高くないのだろう。