不確かなことしか、言ってくれない科学、なのに、科学技術の進歩は、止まることを知らず、次々と、新しいものを作り出す。技術革新は、多くの人々に恩恵をもたらすが、時に、不用意な導入が、重大な問題を招く。そうなっても、科学は答えを示さず、ただ、可能性の話に終始する。
利益が大きかった頃や、多数の論理で少数意見が黙殺された時代には、こんなことが問題となるなどと、誰も考えなかった。公害と呼ばれる問題が、全国各地で起き始めた頃から、科学の功罪を論じることも、ごく当然と考えられたが、とは言え、今ほどの状況に陥るとは、誰も想像しなかった。恩恵に浴することで、不満を押し殺すという動きは、被害に注目する考え方により、間違いと断じられることとなり、逆に、害の部分にのみ、目を集めることが、当然となった。何故、これ程までに極端に動くのか、評論を生業とする人や、議論を好む人々は、それで当たり前と思うようだが、狂った筋道では、何も解決しない。不確かな科学では、確実を論じることはできないが、確率でものを語ることはできる。世の中はすべて確率である、と考えさえすれば、苦もなく理解できることが、絶対の安全や安心を求める、無能な人々を相手にしては、何も理解されることはない。確率が上がるという事象についても、それが確実に繋がると解釈するようでは、お手上げなのだ。放射線の影響は、地球上の生き物が現れた時から、ずっと続いているが、その量が増すことで、様々な影響が生じる。それを、確実なものとして受け取る人々は、恐れを、殊更に強調するが、どんな変化が起きると、予想されるかについては、何の興味も抱かない。科学の無力は、まさに、こんな状況にあり、それに乗じて、非論理的な話さえ、罷り通ると主張する。説得が可能であれば、努力は必要だが、さて、その確率は、どれくらいなのだろう。
核心を突く意見を出すことが、難しい時代のようだ。正しい意見を出しているのに、極端な反応から、批判の声を浴びせられる。感情論との反論も、殆ど役に立たない程、感情一辺倒となった時代に、論理的な意見は、何の役にも立たないばかりか、その姿勢をも糾弾する極端さが見られる。
なぜ、こんなことになったのか。理由は簡単なことだ。不安や心配を抱く人々に対し、同情を主体とした対応が繰り返され、冷静に問題を解決するより、感情的に寄り添うことが選ばれた。時に、非論理的としか思えない考えにより、自らの不安や心配を、正当化しようとする動きさえ、同情の一言で、容認することとなる。これでは、誰もが理解できる論理より、一目でわかる感情が優先され、その爆発を抑える為に、周囲は、様々に工夫を繰り返す。だが、間違いを指摘せず、過ちを放置した結果、利己的な人が、つけあがることに繋がった。ここまで来ては、論理が通用する筈もない。冷静な分析より、過激な偏見や極端な考えが、好まれることとなる。この危険性は、自分が、それらの意見の標的になると、すぐにわかる。だが、これも、いじめと同じように、加害者になれば、「安心」できるのだ。また、一般的な話として、紹介するだけでは、実態を理解することができない。例えば、原子力発電所の事故に関して、巷に溢れている、ありもしない話は、数え切れない程にある。自然と人工の違いを、殊更に取り上げるのも、そろそろ無理筋と思われ、触れる人は激減したが、依然として、危険性を強調する意見には、論理の欠片も見られない。これは、一方で、科学が、確率としてしか、議論ができないことで、その隙を狙ったものとなる。確実な話しかない、と信じる無知蒙昧にとって、論理の穴は見抜けない。こんなことで走り回るのなら、何もしない方がマシと思うが、さて、あなたはどちらだろうか。
信頼されているか、心配したことのある人は、確かに多いように思う。仕事を任されるかとか、昇進を促されるとか、そんなことがある度に、人々は、自分の信頼度の向上を喜び、意欲を高めていく。だが、世の中は、必ずしも順調に流れるとは限らない。閑職に追いやられたり、無視されたりといった具合に。
不正を論じる際に、信頼を裏切ったとの結論が導かれる。だが、そこに至る道筋で、どんな紆余曲折があったのかを、分析することなく、断言するのはどうかと思う。信頼が、確かにあったのであれば、それを裏切る行為には、厳しい批判が浴びせられても、致し方なしとなる。だが、信頼を勝ち取る為に、注目を浴びようとした挙句に、それに値する結果を導こうとした結果、道を誤ることもある。一度始めてしまい、それが効果を導くと、一度きりの過ちが、繰り返されることとなり、単に注目を浴びようというだけでなく、より良い結果を求めて、捏造をはじめとした不正を繰り返す。積み重ねれば、より強い印象を与える。嘘に嘘を塗り重ねた結果、犯罪を繰り返す人間と似た、異常行動だけが目に入る。だが、きっかけは何だったのか、考えてみたらどうか。周囲からの信頼を得られず、それへの焦りが募った結果、そんな窮地に追い込まれたとしたら、個人の責任が無くなる訳ではないが、個人だけでなく、周囲の責任を考える為には、こんな視点も必要となる。一方で、個人の責任を追及せず、組織に全てを負わせようとする、独特の論理を展開する人々もまた、間違った分析を犯し続ける。表面的なことに囚われたり、持論に縛られたりする人間は、結局、周囲の信頼を得ることはできない。ここでも、信頼を得ようとして、道を誤る結果となる。信頼とは、難しい問題と捉えることもできるが、実は、他人を信頼する気を持たねば、信頼されることもないということに、気付かぬ人の、何と多いことかと思う。
勉強が好きな人は、少ないのではないか。将来の為に、と言われて、それを励みにするとか、達成感を得られる、と思うことで、意欲を強めるとか、そんな話を聞くことは多いが、勉強そのものが好き、という話を聞くことは、殆ど無いように思う。必要とされるから、仕方なく、なのか。
目的や目標を示すことで、意欲を保たせようとするのも、教育現場では、当然のことと受け止められる。だが、その中で育った人々は、そんなものの提示が無いと、動かなくなっているのではないだろうか。現場は、その要素を示そうと、様々に工夫を凝らし、掛け声を強めているが、最近は、その効果も薄れてしまい、やる気のない人々相手に、困り果ててしまうことが多い。誰もが、資格の一つとして、教育を受ける権利を手に入れ、現場へと踏み出すが、意欲不足は否めない。やる気が起きないことに、言い訳を重ねる人々を相手にしては、工夫が功を奏する気配も見えない。やる気が出るまで待とうにも、期限が迫ることが多く、余裕の無い制度では、結局、中途半端なままに、資格を与えることとなる。本来、資格に見合う能力を、身に付けさせることが、現場の責任となる筈が、いつの間にやら、資格を与えることだけが、責任と見做されるようになる。こんな状態では、人材育成ができる筈もなく、諦めにも似た状況に、甘んじるしかないようだ。それが社会の荒廃を招くことが、明白になりつつある中で、現場は、何を考えるべきか。資格に見合う能力とは何か、資格を身に付けさせる為に、どんな教育が必要か、という問題も、あるのは当然のことだが、それ以上に重要なのは、意欲ややる気を、重視することではないか。能力を見極めているようで、その根本にある筈の、意欲に目を向けないのは、実は、能力を測っていないことになるようだ。
経営戦略の一つと言われ、違法性はないとされるが、世界の先進国の間で、税収の確保が難しくなりつつある中では、歪みが強まりつつある。違法との見出しに、驚きや落胆が出てくるだろうが、この問題は、どう落ち着くのだろうか。収益を追求するうち、納めるべきものを減らす工夫の末なのだが。
企業である以上、まずは売り上げを伸ばすことが、第一となる。売れる製品を作り、その販路を広げ、特に、最近では、世界的な展開から、国を跨いでの商売が当然となる。国際的な活動の場合、企業に課せられる税は、何に対するものなのか。そんな話題が取り上げられるのは、法人税の率が、国ごとに異なるだけでなく、課税対象が、企業の本部であるとされるからだ。収益に対して課せられるのだから、経済活動を、対象とすべきとの考えは、この場合には該当せず、税率の低い国を探して、本部の移転が頻繁となる。異常とも思える事態に、税源を失い始めた国々は、強硬手段に出始めた。違法との見出しは、そんな事情から掲げられたものであり、企業の戦略に対する、行政の強い姿勢を示している。だが、国ごとの事情を無視して、こんなやり方が通用する筈もない。いくら、共同体を形成しているとしても、それぞれの独立性を保障する中では、横車と断じられても、反論できないのではないか。この問題を解決する為には、税制の変更が唯一の手段であり、国際的に通用するものでなければならない。だとしたら、売上税に加え、売上に対して法人税を規定するしか、ないように思う。簡単なことに思えるが、会計法上の何かが障害となるのかもしれない。だが、今のような状況を想定しない時代に、定められた規則では、抜け駆けが横行し、違法すれすれの行為が罷り通る。倫理や道徳に頼らず、規則で縛ることが、今、必要となっているのではないか。
どんなに可能性が低くとも、完全に否定できないことは、数え切れないほどある。そんな事象に対して、どう考えるかは、人それぞれだが、最近の傾向として、起こりにくいことを、殊更に取り上げる風潮がある。不安や心配を前面に押し出し、その正当性を訴えるが、何のつもりかと思う。
大災害が起こると、必ずと言っていい程、この手の話題が並べられる。どんなに可能性が低くても、起きてしまえば、甚大な被害を及ぼす事象に対し、現実に起きたことを引き合いに出し、強い主張を繰り返すのだ。確かに、大きな被害を受けたり、その様子を見たりすると、現実のこととして、深刻に考えねば、と思いたくなる。だが、確率と被害の甚大さを、並べて考え、そこから、備えについて検討しなければ、余計な心配や過度の不安に襲われ、日々の生活が成り立たなくなりかねない。一攫千金を狙う人々は、確率と金額を掛け合わせた、期待値と呼ばれる数字に、目を向けることなく、金額だけに目を奪われる。同じこととは、言い過ぎになるかもしれないが、まさに、これと同じことが、災害の検討に、起きているのだ。災害の甚大さばかりに目が向き、それがどの程度の頻度で起きるのかに、目を向けようとしない。特に、一度起きれば、無いとは言えないとばかり、凄まじい勢いで、被害の程度を議論しようとする。備えることの大切さを、否定するつもりはないが、無駄になるだけの備えに対し、どう考えるかも、重要な課題ではないか。この典型として挙げられるのは、巨大堤防の建設で、大災害がない中では、無駄と断じられたものが、災害が起きた途端に、再検討の動きが起きる。無能な人間の考えることは、単に無駄なだけでなく、時に、浪費を産むことに、気付かねばならない。科学の知識の用い方も、この程度の知恵では、身勝手な論理に、すり替えられるだけとなる。
毎朝、新聞を読むけれど、所謂、飛ばし読みだろう。あの分量を真剣に読み解いていたら、何時間かかるかわからない。でも、読まずに済ますことはなく、見出しだけでも眺め、頁を繰り続ける。詳しいことを知らずとも、何かがあったな、といった具合の、情報収集の一種と思う。
情報依存が強い人から見れば、そんなやり方は中途半端で、ないよりましどころか、却って害となると思うのではないか。これは、人によることだから、一概に決めては困る。経験から言えば、それでも、まさに、ないよりましであり、気になったものについては、別の形で情報を集めればいいだけのことだ。時間を無駄にしたくない、という思いが反映された結果なのだが、もう一つは、新聞にせよ、所謂、マスコミは、まさにごみ捨て場になることも多く、時宜を失わぬように、不確実な情報の源となる、ことがある。これこそは無駄でしかなく、間違った情報を信じる事くらい、馬鹿げたものはないだろう。そんな思いで眺めるうちに、どこかで見たことのある、名前が目に入った。誰も覚えていないだろうが、あの、一番でなければダメか、という言いがかりだけで名を残した、節約の為の制度の中で、所属長として、対応に当たった筈の人物は、長であるが為か、具体的な答えを一つも出せずにいた。ただの飾り物として、そこに座っていた人物が、ある国立大学の教授として、高等教育に関する意見を書いていたのだ。まさに、その責任を負う部局の長であったから、この記事も当然のものなのだろうが、画面で晒された、あの体たらくは、問題とならないのだろうか。机上の空論を操るだけで、現場を理解できない人間を、大学が迎えたことは、何を意味するのか。理論ばかりで、現場で役に立たない事しか、教えていない組織だからこそ、この人材の活用も、可能だということなのだろうか。冗談の一つなのか、とも思う。