パンチの独り言

(9月5日〜9月11日)
(俗世間、想定、逃げ道、愚挙、懲りない、忘れる、不思議)



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9月11日(日)−不思議

 理科離れが、問題視されていたのは、遥か昔のことのようだ。難しいことは、避けて通ることで、賢く生きようとする動きの方が、遥かに重視され、ここでも傾向と対策が、講じられている。分からないことは、知らなくても良い、という生き方で、本当に良いのか、という意見もあるのに。
 目の前の問題だけに、目を奪われる人々は、それまで、どうでも良いと思ったことが、問題となった途端に、正反対の意見を出す。科学の問題は、まさにその典型であり、原発のことは、今は、生き死にを決めるものとして、無視できないとする人まで居る。だが、依然として、原理どころか、そこから生じる問題にまで、誤解や鵜呑みが数多生まれ、不安を煽る為の、嘘が作り出される。知らねばならぬ、という掛け声は、まさにそのままで、本質を見抜けぬままに、騒ぎだけが大きくなる。冷静に分析しても、恐怖を鎮めることはできず、嘘吐き呼ばわりされ、論理が受け入れられることはない。何故、大衆は、こんな反応を繰り返すのか。この疑問に答えてくれる人はおらず、世の中は、ただ混乱を繰り返す。これを、理科離れの弊害と見做しては、どうか。身の回りの不思議に、疑問を抱き、その答えを追い求める中で、既知の事実に触れ、その説明に論理を見出す。その過程で、様々な能力が身に付き、生きる為の術ともなる筈が、今では、事実を信じることが、生きる術となると言われ、疑問を抱くことさえ、認められない。教科書にあることを丸覚えし、それを書くことで、点数を獲得すれば、より良い道を歩める、という仕組みも、悪い事ばかりではないが、論理を共有できない状況では、問題が起きた時に、解決する手段を見出せない。用水路の蛙を救おうと、様々な方法を検討し、シュロの三つ編みを垂らすことで、救い出したという話も、疑問から考えることの大切さを、伝えていたが、この話を、戸惑うばかりの人々は、どんな目で見たのだろう。

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9月10日(土)−忘れる

 危険な目に遭うと、不安が募ることがある。当然の反応だが、時間の経過と共に、その感覚が薄れ、そのうち、忘れてしまう。こちらも当然の経過であり、精神的な抑圧から、逃れる為の術として、人間誰もが、持ち合わせる能力と言われる。ところが、不安を殊更に取り上げると、様子が変わるのだ。
 忘れることの大切さを、現代人は見失ったのではないか。重要なことは、忘れてはいけない。と言われ続けた結果、恐ろしい経験さえ、忘れることができずに、不安に苛まれた生活を送る。それでも、そういう人を保護せねばならぬ、とばかりに、温かい言葉が送られ、生きる為の意欲が出てくる。そこまでなら、何の問題も生じないが、実際には、周囲が忘れ始め、保護の対象を別に移す。自分が忘れられない中で、周囲に忘れられてしまえば、不安を克服できないままに、孤立感に襲われ、状況は、一気に悪化する。こんな様子を眺めると、忘れない、という掛け声が、何の意味も持たないことが、実感でき、もっと大切なことに、気付けるかもしれない。しかし、社会は、そのまま、忘れない、ことをし続けようとする。何が原因となっているのか、誰にでもわかることだと思うが、ものを考えなくなった人々が、それに気付く気配は見えない。なぜ、これほどまでに、劣化が進んでしまったのか、などと思ったりするが、それ自体が、悪い展開を進めていると、気付かない人にとっては、何が悪いかさえも、理解できない。これでは、袋小路に追い込まれたままではないか。一人ひとりにできることは、たぶん一つだけだろう。不安を、必ずしも良いことと見做さず、忘れることの大切さを、思い出すのだ。

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9月9日(金)−懲りない

 情報技術の人材育成は、もう何年もの間、課題の一つとして挙げられ続けてきた。蒸し返す訳でもあるまいが、プログラミング言語の話題は、「またか!」との反応で迎えられたようだ。手を替え品を替え、とも思える戦略の変更だが、今回は、以前にも増して、無理筋に思える。
 あらゆる製品に、制御系が組み込まれ、複雑な動作を、実現する。そんな技術革新において、情報処理の技術は、不可欠なものとなり、その進歩を確実にする為の、人材確保が、社会問題として取り上げられた。と言っても、これは産業界の課題に過ぎず、社会全体に広がる気配は見えなかった。その中で、高度な技術を備えた人材を、育成する仕組みの導入が、教育界からではなく、産業界から図られたのは、暫く前のことである。結果を語るには、まだ、十分な時間を経過していないが、最近の方針転換は、当事者達が、既に、見込んだ成果を得られないと、見限ったからだろう。社会全体を考える為には、一部の指導者の養成ではなく、殆どの人が、それを身に付けられるように、仕組みを整備しなければならない。それが、言語能力に関わる話であり、プログラミングに関するものに、触れる機会を増やそうとする試みに、注目を集めようとの動きへと繋がる。だが、前日にも書いたように、言語能力は、その中枢における、論理構築の問題であり、それを鍛えることなく、ただ、道具を磨くだけでは、何も得られないように思える。自分が身に付けていない能力や、今必要となる能力に、注目することは、難しくはないが、持ち合わせていないものに、必要な要素を見抜くことは、ないだけに、困難なものとなる。こんな状況で、手を替えたとしても、大した効果は得られず、結局、無駄を繰り返すだけだろう。「またか!」の反応には、そんな思いも込められている。

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9月8日(木)−愚挙

 言語能力を身に付けることが、生き抜く為の術のように扱う。何の疑問も抱かず、精を上げる人々が居るが、事は、思い通りに運ばないようだ。成績は伸びているのに、使うべき場面では、思うようにいかず、自信を失うことさえある。足らないものがあるに違いないが、何か見えない。
 そんなことが度重なり、足りないことに悩み続けても、何かは見えてこない。だが、それを補う試みは、様々に行われる。その中で出されたものが、コミュニケーション能力と呼ばれる。言語能力との違いは、説明されるようだが、こちらも、その訓練の様子からは、練習までは整うものの、実地での効果は未知数に思える。能力を鍛える、という方法が悪い訳ではないもの、何かがうまくいっていないのは、何故だろうか。おそらく、表面的なものをなぞるだけで、本質に触れることがないから、真の意味で、身に付くことがない、からではないだろうか。言語も、コミュニケーションも、他人との意見の交換や共有が、その目的となる。その伝達手段が、肝心となるとばかり、訓練に励む訳だが、実は、肝心な要素が、欠落しているのだ。どう伝えるかに目を奪われ、何を伝えるかを考えなければ、内容が決められた練習では、無難にこなせるのに、話題を決めなければならない現実では、手も足も出ないことになる。更に、目的に応じた訓練では、それぞれに異なる手法が、紹介されているように見えるが、実は根本では似たものに過ぎず、ただの繰り返しとなる。技術を身に付けることも大切だろうが、その中枢を鍛えさえすれば、あとはどうにかなるものではないか。そんな混乱の中に、更なる課題が登場しつつある。プログラミング言語なる、別種の言語に、注目が集まっているという話だ。ここでも、表面的な技術に目を向けるばかりで、根本が見えないらしい。英語への憧れと、同じ状況が生まれつつあり、愚が繰り返されつつあるようにしか見えない。

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9月7日(水)−逃げ道

 突然、繋がらなくなった。以前の場所では、こんなことが何度も起きたが、ここに移ってからは、何の問題もなく、毎日の更新を行うことができた。それが、まさに突然で、何が起きたかさえ、わからない。でも、繋がらなければ、何もできない。待つしかない訳だ。
 今回は、管理者のウェブサイトにも、繋がらなくなっていた。こうなれば、何が起きたのか、読み解くことさえできない。想像をしようにも、材料が全くない状況では、どうにもならない。半日以上が経過したところで、突然、回復したけれど、もう安心とは思えない。だからと言って、今流行りの、不安を訴えるつもりはない。こんなことは、今までも、何度もあったことだし、対価を支払わずに、恩恵に浴しているのだから、少しの我慢は必要だろう。今は、豪雨、雷雨の中だから、別の要因で、接続が絶たれるかもしれない。でも、少なくとも、こういう形で、文章を入力できるのだから、先ほどまでの状態とは、大きく異なっている。発信が、当然のことと思えば、こんなことも、ごく当たり前と映るだろうが、実際には、整備が進んだとはいえ、不安定は、どこかに潜んでいる。異常気象から、各地で異変が起きる中、こんな設備も、安全が保たれているかは、約束できるものではない。何かしらの不安定を抱える中、様々な事態を想定しつつ、解決策を常に考え続ける。書いてしまえば、簡単に思えることでも、障害が起きた途端に、うまくいかなくなる。だからこそ、一つの道筋だけに、依存することは、危険だと言われる。だから、発信の道具として、色々な手立てを、準備しておくのも、危機回避の方法の一つとなる。掲示の場所を、一つではなく、幾つも備えておくのも、上手い手かもしれない。ブログだけでなく、ツイッターやフェイスブックも、その手の一つとなる。全部備えるのは、無駄かもしれないが。

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9月6日(火)−想定

 やってみなければわからない、試してみる価値がある、という話に、違和感を抱く人が、増えているのではないか。確実を求める動きは、そんな中で、当然の権利として、主張され始めた。傾向と対策が、整備されたことも、この動きには、強い味方となっているようだ。
 科学的知見も、対策を講じる為に、有用な手段と見做されているが、一般に受け取られるものとは、少し事情が異なる。理論上の予測を、対策へと繋げる考え方も、理論に綻びが見つかると、間違いとなり、対策不十分となる。それを補うのが、試してみることであり、それにより、不十分な考えも埋め合わせることができる。こんな手順を踏み、確かさを高めてきたことも、最後に出てくる対策だけに、目を向ける風潮の中では、単なる傾向と対策と、何も違わないことになる。別の面でも、科学の力が活かされており、傾向を分析する中で、解析の手段として使われる。ただ、この場面でも、経験的な蓄積から、導き出された解釈が、用いられることが多く、試すことが必要となる。それでも、全ての事象を、点検することはできず、時に、想定外と呼ばれる結果が、起きてしまうこととなる。ここでも、議論は、確率に基づいて行われ、その検証は、試すことでしか行えない。例えば、建物の強度について、計算上の話ができ、それによって、耐震設計が可能となったのだが、同じ強度の地震が、重なって起きた場合の計算は、予測不能なものと扱われる。限界は、始めから分かっていたことだが、それに触れず、導入へと繋げた結果、こんなことが起きる。触れておけば、一般の人々も、限界を知ることができたのに、との指摘は、的外れかもしれない。わかりやすい話を求める人に、複雑な論理は、理解不能となり、誤解を生むからだ。そう思って眺めると、傾向と対策と思える話の多くは、何かを隠しているように見える。

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9月5日(月)−俗世間

 「絶対に儲かる」とか、「必ず長生きできる」とか、そんな言葉に踊らされる人が、多いと聞く。確かに、確実な話には、成功しかない。失敗を恐れる人で溢れる時代には、これ程に魅力的な話はない、と映るのだろう。だが、少し考えればわかるように、何事にも、絶対は存在しないのだ。
 でも、少しでも有利にする為に、こんな話に乗る人は多い。絶対に確実、とは信じていなくても、そういう謳い文句が並べば、可能性が高まると思うからだ。でも、これも、おかしなことである。絶対がない世界で、絶対を謳う程、不確実な話はないからだ。不当な主張の背景には、何かしらの不正があり、それを見抜く為の手段として、この手の謳い文句を、利用しない手はない。確率でものを語るのであれば、それをそのままに示せばよく、それ以外の方法は、あり得ない訳だ。確率の高さを誇れば、それが主張の強さを表し、それをそのままに受け取れば、どの程度の確実性があるかを、計ることが可能となる。簡単なことだが、何故、これを実施しないのか。失敗が忌み嫌われる時代には、たとえ、僅かな確率でも、失敗が起きるということが、敬遠する要因となる。その中では、失敗はない、との断言が、魅力的なものと映る訳だ。たとえ、それが嘘だとわかっていても、手を伸ばしてしまう。冷静な分析を、行ったことがなく、行う為の能力も、持ち合わせていない人にとって、こんな状況では、詐欺に誘い込まれるのも、やむなしということらしい。いやはや、何と不思議な時代だろうか。生きる為の術を、身に付けることなく、ただ、他人に依存して生きる人に、幸せな人生は、保障される筈もない。それを保障せよとの要求に、応える必要などは、どこにもないのに。

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