誰が嘘を吐いたのか、そんな話題に注目が集まる。確かに、その手の話題は、耳目を集めやすいが、問題の解決へとは、必ずしも繋がらない。犯人を捕まえ、罰を与えることが、正義と思う人には、当然の展開だが、ここで問題となっているのは、罰ではなく、解決策なのではないか。
問題を抱えた土地に、目的とした施設を建てようと、様々な意見が集められ、解決策が講じられた。確かに、そう聞いていたが、事実は、そうでなかったとある。では、どこで、事実の歪曲がなされたのか。この答えを得ようと、多くの人が躍起になる。誰が決定をしたか、と問われれば、その答えは、簡単に導き出せる。組織の決定は、最終的には、その長が為すから、この場合には、首長の責任となる。だが、件の人物は、例の如く、素早い対応で、「騙された」の一言を、返してきた。それで責任回避できるとは、誰も思わないことは確かなのに、何故、あのような答えを返すのか。実は、簡単なことである。回避すべき責任を、元々感じていないのだ。それなら、何故、そんな答えを返すのか。必要ない筈、と思うのは、こちらの常識であり、あちらは、全く違った考えを抱くのだろう。兎に角、他人からとやかく言われることが、嫌いなだけなのではないか。負けず嫌い、と言えば、わかりやすいのかもしれない。そんな感覚で、問われた責任に対し、それを認めることが、負けに繋がると思ったのかもしれない。でも、騙されたのは、負けじゃないのか、と思うのが当然だろう。そこは、別の論理があるに違いない。という展開が進むが、この下らなさには、そろそろ皆が呆れ始めている。これ程の時間の無駄もない訳で、原因も一大事だが、解決は全く別の所にある。それを見つけないと、何にもならない。
伝染病は、恐ろしい存在として、皆が注意をしてきた。ところが、最近の傾向は、少し様子が変わったように見える。法律で定めていた存在は、別の扱いとなり、何が問題かが、わかりにくくなったと感じる人も居る。爆発的な感染を防ぐ為に、強制的な措置があったが、今は、そうでもないようだ。
そうなった途端なのか、これもまた、はっきりしないが、最近、感染症、伝染病、という言葉に、接する機会が増えたように、感じられる。人の往来が盛んとなり、感染者の移動が、容易になったことから、発病前の移動が、拡大を助けることなる。それまで、聞いたこともなかった病名に、恐れを抱く人が増えるが、感染の危険性を伝えるだけで、予防の方法も、感染後の対処も、説明されることは少ない。法律で定めていた時代には、それに責任を負うのは、公の機関に限られ、それに任せることで、拡大を防いでいたが、最近は、人それぞれの権利を尊重することから、選択の余地を残すべきとの意見もある。強制的な措置は、場合によっては、最も効果的となるが、そこに選択の自由が入り込むと、予防措置も、発病後の対処も、中途半端に終わることが多くなる。感染症を防ぐ為に、ワクチン接種があったが、その副作用に注目した結果、自由裁量となったことから、全体の整備は、不十分となってしまった。今、問題として取り上げられているのは、まさに、この状況であり、親の選択を許した結果、感染の拡大を食い止められない、事態を招いたと言われる。この責任は、どこにあるのか。行政の決定が、不完全な仕組みを作り、そこから、危機が高まってしまった。ただ、そこに至る過程で、副作用を殊更に取り上げ、他の結果に目を向けずに、整備を妨げた動きがあったことも、事実だろう。次の対処は、何なのか、見えてこない中で、同じ連中が、また、恐怖を煽っている。
地道に続けた努力が報われないどころか、酷い仕打ちを受けたという経験を持つ人は多い。成長期には、組織全体に余裕があったから、少しくらいの欠点は、大目に見られていたが、停滞期から、下降期へと移るに従い、良い面は評価されず、悪い面ばかりが取り沙汰され、責任を負わされる。
この傾向は、成長の末期に見られ始め、安定の証のように、扱われていた。つまり、安定期には、同じことが繰り返され、ある程度の傾向が見えてきたから、その中で、無難な振る舞いが、好まれることとなる。となれば、失敗は、忌み嫌われる存在となり、成功を手に入れるより、失敗を犯さぬことの方に、皆の注意が集まることとなる。極端な場合は、何もしない方が、何かを試みて、失敗するよりも、適切な選択と見做される。安定した成長が、鈍化し始めたところから、こんな風潮が高まると、時代は、当然の如く、停滞期から下降期へと流れ、閉塞感が、世間を満たすようになる。改革の努力が、叫ばれ始めた頃には、時既に遅し、という雰囲気ばかりで、誰も動かず、何も起きず、の繰り返しとなる。打開策は、机上の空論ばかりとなり、机の上では、画期的との評価を受けても、失敗を恐れる人々は、重い腰を上げようともしない。そんな中でも、努力を続ける人は居るのである。しかし、彼らは、成果を上げたとしても、失敗を殊更に取り上げられ、それを理由に、処分の対象とされる。結果として、少し改善が見られても、処分された人間に、顕彰の機会が訪れることはなく、何もしなかった上層部が、手柄を横取りする。閉塞感は、まさに、こんな中で強まり、人々は、ヤル気を失っていく。組織が崩壊するのは、まさに、こんな状況の中であり、その元凶は、無能な上層部に違いない。だが、目立たぬように振舞う人々は、彼らを糾弾することなく、大人しく崩壊の時を迎えるだけだ。これも、情けない。
世間では、年功序列が、諸悪の根源のように扱われるが、その理由は、定かにはされていない。若者達に問えば、多くは、自らの昇進への妨げとして、認識するだけだろうし、年長者達は、歯切れの悪い反応を示す。序列は、能力差で決めるべき、ことは、当然に思えるにも拘らず、だ。
その一方で、組織の意欲を高めるためには、能力の向上を目指すべきで、その為には、努力なしで獲得できる権利は、少なくすべきとの意見がある。これも、問題の一つには違いないが、餌をぶら下げられなければ、何もしないという人間が、組織にとって有用かどうかは、怪しいものではないか。今の時代は、動機付けやら意欲の向上を、必要不可欠な要素として、扱う傾向が強いけれども、それで、全てが解決するとは思えない。では、改めて問われたら、どう答えるのか。実は、簡単なことだ。能力のない人間が、上に立った時に、弊害が強まることで、仕事が滞るからだ。年齢に拘らずとも、能力を指標として使えば、こんな事態には、陥らないと言われる。年功は、要素の一つには違いないが、それのみを指標として、序列を決定していては、「上がアホやから」となってしまい、肝心の意欲だけでなく、業績の低下が著しくなる。問題を抱える組織の多くは、大なり小なり、こんな手違いを犯し、構成員達の疲弊を招いている。これが深刻化する要因は、他にもあり、悪環境の下でも、意欲を失わず、打開策を講じようと、努力を続ける人間に、アホな上は、妨害を繰り返す点にある。自らの欠点を覆い隠そうと、様々に腐心する人々は、効果を示し、業績を伸ばす、能力のある人間に、妬みにも似た感情を催す。その結果、横槍を入れたり、邪魔をしたりするだけでは、不足と思い、降格や左遷を、持ち出すこととなる。こんな事態に陥った組織は、企業だけでなく、色々な所にあり、嘗ての情けない姿に、反省を込めて改革を進めている。だが、依然として、そんな愚行が繰り返される所もある。いやはや、情けない。
無駄としか思えない。そんなものが、世に溢れているのは、結局、豊かな時代だからだろうか。余裕ができるにつれ、今の満足が、将来への不安へと繋がる。そんな空気の中で、将来への備えと称して、様々な手立てが講じられる。そこに、大きな問題があることに、気付きもせずに。
備えが重要と見る人々は、こんな指摘に、首を傾げるだろう。不安を払拭する為に、危機を回避する為に、備えることの何が悪いのか、と思うからだ。だが、何の根拠もなしに、心配が膨らんだ結果として、生まれた不安に、どれ程の意味があるのか。特に、最終結果の不安に目を奪われ、そこに至る過程での、論理の飛躍に目を向けないと、空想の怪物への備えに、精を出すこととなる。起こり得ないことに、準備をしたとして、何の意味があるのか。不安と無関係な場所に居る人間には、明白なことと思えることも、渦中の人々には、見えない存在となる。これに輪をかけているのは、不安に苛まれる人への、同情なのだが、それさえも、感情の表れとして、片付けられてしまい、目を塞ぐことしかない。止めてしまえばいいのに、と考えるのは、人々の温かい気持ちを、裏切る行為として、糾弾されるだけで、何の意味も成さない。将来の人材を、という掛け声の下に、ここでも、様々な手立てが講じられるが、現場では、労多くして功少なし、とばかり、上がらない効果に、不満の声が噴出する。その多くが、小手先の技術を身につけさせ、それによる成長を、人材育成の効果と訴えるが、現場での役立たずが、作り出されるだけでは、徒労感ばかりが残る。かといって、付け焼き刃的な育成法を避け、根本から育てようとすると、更に、効果の程は怪しく見えてくる。所詮、その程度のものとの、覚悟を持ってこそ、こんな試みに手を貸せるが、そんなものは、どこにも存在しない。自分の主張を通す為の、事実の歪曲でさえ、当然のことと見る連中に、不正の問題や、捏造の問題が、理解できる筈もなく、そんな人材を育てたら、将来の道を閉ざすことにしかならない。
報道の役目は何か。情報伝達、という答えが、すぐに戻ってくるだろう。それは確かにそうだろうが、では、どんな情報を流すのか。改めて、そんな問いを投げかけられたら、どんな答えを返すだろう。正確な、迅速な、細かな、などの答えが、戻ってくるのだろうか。
そんな思いが反映されるのか、報道は、確かな内容を保証する為に、何人もが関わる形で、確認を重ねた上で、結論を導こうとする。では、実態はどうか。不確かな情報を流し、裏をとることなく流し、誤報が相次いでいる。速さを競う中では、個人が勝手に情報を流せる時代には、慎重を期すような仕組みに、勝ち目がある筈もない。焦りがある中で、そこに、誤りが目立つようでは、本来の務めが果たせる筈もない。速さも正確さも、失い始めているようでは、何が残るというのだろうか。一つは、細かな点に言及し、詳しく解説する、という役目が、あるように思う。正確さを失ったとはいえ、それは、速報における問題であり、じっくりと調査した上での、解説記事となれば、全く違った状況が浮かぶ。以前は、こんなところに長所を見出していたが、これとて、手放し始めているように思える。本質を見抜くことができず、噂に流されるのでは、本来の役割さえ、失っていると言うしかない。首長の市場移転延期に始まった問題は、次々と噴出する、異様としか思えない話題に、何が真実なのかさえ、見えなくなっている。批判を常とする人々は、ただそれだけに精を出すようだが、何を批判すべきか、見えていないのではないか。間違いを正す為の批判としても、何が間違いなのかが見えず、ただ、声を上げているだけでは、何も解決できない。まあ、問題の存在こそが、彼らの糧であり、その解決には、何の興味も抱かないのだろうが。
貧しいから、進学を諦める。今に始まった訳でもないのに、今ほど、この意見が取り上げられる時代もないのではないか。機会均等とか、平等とか、そんな考えに基づけば、誰もが、望みさえすれば、機会を得られる、となる。それに基づいた話なのだが、鵜呑みにできないように思う。
希望が叶う、ということには、誰もが、機会を得られることを、保障する考えがある。確かに、目標を持ち、それに向かって努力を積み重ねることは、人の成長において、重要な歩みを進める。人間は、平等の下に生まれ、あらゆる機会が、等しく与えられるとされ、それが妨げられることには、国を治める為に、あってはならないこととなる。そんな考えに基づき、皆が挙って主張する中で、実情は、果たして、その通りとなっているのか。貧困層と呼ばれる人々は、日々の生活にも困り、機会を奪われることさえある、と言われるが、それに対して、異論が出されることも多い。弱者を騙り、貧しさを際立たせるが、その一方で、欲望を満たす為に、無駄遣いを繰り返す。そんな様子を見れば、似非の貧困に対し、厳しい目が向けられるのも当然だろう。だが、それは一部に過ぎず、多くは、本当に厳しい生活を強いられている、との意見もある。個別の問題を、社会問題として取り上げると、必ずと言っていい程、この手の矛盾に、注目が集まる。問題の本質を見抜けないのも、この手の問題の解決を、遠ざけているように思える。先日の報道にも、小学校にあげた時に、親が既に大学進学を望まない、という調査結果があったが、学校教育に関わる問題ではなく、産んだ途端に、その考えを持つと見做すべきではないか、と思う。彼らにとって、大学は無用な存在であり、それが生き死にを決める訳ではない。自身もそうだったように、子供にも、同じ考えを抱く。そこに問題があるかと問われれば、ないと答えるべきなのではないか。皆が行くから、自分も、という程度のことに、機会均等を当てはめること自体、無駄なことに思えるのだ。