パンチの独り言

(9月19日〜9月25日)
(好都合、良い嘘、原点回帰、バチ当たり、一つ覚え、非科学、餅は餅屋)



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9月25日(日)−餅は餅屋

 難しいとか、分からないとか、そんな言葉をつけることで、遠い存在とする動きは、ずっと以前から続いてきた。そのままに伝えるのではなく、何らかの説明を加えることで、少しでも近い存在へと、という思いも、同じように続いている。だが、その担い手に、大きな変化が起きている。
 一流の学者の中で、文章表現に才能を見せる人々が、専門分野だけでなく、全く異なる分野の科学について、分かり易い説明を施してきた。寺田寅彦とか中谷宇吉郎は、その代表格であり、今でも、彼らの科学随筆の、出版が続いているのは、ただ分かり易いことだけでなく、そこに横たわる、時代を超えた共通の考え方が、共感を産んでいるからだろう。だが、今では、学者達は、本務に追われている。研究もさることながら、組織の運営に、忙殺されているようだ。そんな環境で、随筆に手を出せば、周囲から批判の雨が降り注ぐ。文章表現の才能も、大衆に向けてではなく、研究費や運営費の獲得に向けられ、自分達の地位や環境を守る為にだけ使われる。だが、そこには、大きな落とし穴ができているようだ。世の中を回る金は、殆どが、大衆を源とし、そこから流れ出る。無理解な人々を相手に、資金を要求するにしても、説明が必要となる筈だが、その暇は全く無いに等しい。そこに登場し始めたのが、報道に携わる人間の中で、科学の解説を担う人々だ。欧米では、研究者の成れの果て、と言われる人が目立つが、こちら側では、その数は極端に少ない。始めから、報道の道に進んだ理系出身者だけでなく、全く畑違いのところから、参入した人が目立つ。客観的な視点から、という利点がある一方で、大衆に迎合する姿勢も目立ち、本質から程遠いところにしか、到達しない。面白く、分かり易い解説は、その為、中身がなくなるどころか、事実誤認を招くことさえある。寺田や中谷が、この現状を眺めたら、すぐに筆をとるのかもしれない。

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9月24日(土)−非科学

 期待し過ぎたのだと思う。ある科学ジャーナリストの本を、読んでみた時の感想は、落胆だった。女性の進出は、様々な分野で、著しいと言われる。報道の世界でも、人間の半分を占める性を持つ、人々の意見は、重要と考えられてきた。朝ドラでも、そんな人の人生が紹介されている。
 だから、というわけではない。件の人の書いたものは、高い評価を受けていたからだ。本に書いてあることで、初めて気がついたが、書き物だけでなく、画面にも登場したとある。例のリケジョの代表と呼ばれた、割烹着の研究者を、絶賛したことに、少しの反省を示していた。本人は、医者を目指し、理系の科目とも格闘していたが、受験直前に、限界を感じ、文転したという。何だ、理系人間じゃないんだ、と思っても、世間の評判は、研究を紹介する文章の分かりやすさにあり、理系である必要は、どこにもない。ただ、世間というのは、やはり、研究そのものとは、全く違う基準で動いているようだ。ある研究者が、専門的な話を、わかりやすく著すと、評判をとっていたが、これは世間の話であり、専門家の評判は、惨憺たるものだった。分かりやすさが、嘘や誇張へと繋がっては、真面目な研究が、蔑ろにされたと感じたからだ。話を戻すと、彼女の本の内容は、分かりやすいことは確かだが、研究者を身近な存在と、感じられるように、という配慮があるからと思う。ただ、その身近さは、何やら、怪しげな人間の心情に、注目した結果らしく、迷惑な印象も起きると思う。だが、落胆の原因は、そこにある訳ではない。一番の要因は、原発事故に関するところだ。著しい偏りに基づく、持論の展開には、ある人々は、賛同を示すだろうが、科学を正しく伝える筈の、本来の役目からは、程遠いものとなり、読む価値を、激減させていたのだ。科学を理解するより、別のことが、彼女の中にあるのだろう。

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9月23日(金)−一つ覚え

 同じ共通認識なのに、一方は常識と見做され、もう一方は「一つ覚え」と揶揄される。どこが違うのか、気付かない人は、おそらく、後者に振り分けられるのだろう。確固たるものとして、揺るぎない地位を築いたものは、常識として、共有されるが、同じことを言い続けるだけでは、馬鹿にされるだけだ。
 権力を握る側に、反旗を翻す人々は、屡々、権力側に反対する為に、同じことを繰り返す。その言葉に、含蓄があれば、皆が頷く筈だが、現状は、そうなっていない。何でも反対、という立場を貫くのみで、そこには、対案も無く、解決策も見えてこない。やるという動きに対して、やらないという意見は、対案だと思う人も居るだろうが、大きな間違いだろう。何かを解決する為に、対策を講じる必要があるからこそ、何かしらの策が、提案されている。その中で、やらないという選択肢は、殆ど意味を成さない。この点に気付かぬ人が、世の中には、あまりに多く居るようだ。歯止めをかける為に、野党の存在意義がある、という意見に対して、異論はない。それは、同じ土俵の上で、戦う中だからだ。だが、土俵が違う環境で、権力側に反対する人々の多くは、何の意味も成さない意見を、何度でも並べてくる。常識で考えれば、そんなものに、意味がある筈もないが、権力に立ち向かうことに、喜びを見出す人々は、そんなことを気にかけるそぶりさえ見せない。自らの勇姿に、満足げな表情を浮かべ、悦に入るだけなのだ。「反対」の一言を、切り札のように扱い、民を味方につけていると、自信たっぷりに話す。こんな人を選んでしまったことに、有権者が、反省する日は来るのだろうか。

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9月22日(木)−バチ当たり

 お天道様が見ているとか、バチが当たるとか、そんな言葉を、大人達から聞かされて、息苦しく感じながら、昔の子供達は育ってきた。誰も見ていないとか、バレなければいいとか、そんな悪魔の囁きに、耳を塞ぐ為のコツとして、心の奥底に刻まれていた。だが、今の大人の社会は、どうしたのか。
 他人を出し抜く為に、嘘の一つや二つ、どうということはない、などと言われるようになったのは、高度成長期が、末期状態に陥った頃だった。まともな商売を続ければ、明るい未来を手に入れられる、と思われた時代に、翳りが見え始め、競争の勝ち負けこそが、未来を明るくすると言われるようになった。そこでは、正当な競争も確かにあったが、勝ち組になる為に、不当な行為も許される、などと言い出す人も出始めた。結果が全て、と言われるに至って、手段を選ばずとまで言われるようになると、もう歯止めは利かなくなる。その頃でも、一部の大人達は、お天道様やバチの話を、引き合いに出していたが、子供の目に、大人達の汚れは、はっきりと見えていた。身勝手な考えに基づく、悪行の数々に、話が違うと思うのは、当然のことだったに違いない。悪事を隠し通せれば、問題は何もないとする、勝手な論理も、結果が全てとする風潮では、皆の同調を得ているようにさえ見えた。こんな時代が、社会の閉塞感が長引くと共に、長く続いた結果が、今、皆の目の前に広がっている。不正を行う人々も、それを暴く人々も、誰もが、お天道様を意識せず、自分中心の考えに、囚われているのだ。罪を犯した人間に、罰を与えるのも、人間の所業である。人の過ちを正す為と称して、罰を与えたとしても、うわべの反省だけで、心の底に蠢く悪心を、消し去ることができるとは限らない。心の中に、そんな気持ちが芽生える為に、見守ってくれ、バチを与える、お天道様の存在が、やはり必要なのではないか。

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9月21日(水)−原点回帰

 研究不正の話が、また出てきた。世の中は、そろそろ、見飽きてきたらしく、以前のような、興奮は感じられない。その傾向は、指摘された側にも現れており、反論を選ぶより、傍観を貫くようだ。と言っても、これは報道によるもので、伝える側が冷めてしまった、結果なのかもしれない。
 真実を見出す、という目的を抱いて、地道な活動を続ける。そんなことが当たり前だった世界に、いつの間にか、世の中の汚れた空気が流れ込み、成功を手に入れる為に、努力よりも、不正に手を染める人が、現れてきた。その姿を、羨望の目で眺める中で、その為の秘法が漏れてくると、手っ取り早い方法として、皆が挙って取り組むようになる。だが、臭いものに蓋は出来ず、徐々に漏れ出した「噂」は、それに興味を示す人々の、検証の対象とされるようになる。伝聞だけでは、確実なことは言えないが、証拠を示すのが常である、研究の世界では、その肝心なデータに、改竄の手が及び、それが、逆の意味の証拠として、そこに残されることとなる。不正を暴くことを、批判するつもりは毛頭ないが、これほどに深刻な事態を招くようになると、その行為自体を、評価する動きに対して、違和感を抱かざるを得ない。そこに、それとは別の形で、世間の反応が起き始めている。あまりに多くの人々が、不正に関わったことが、明らかになるにつれ、初めに起きた興味は、徐々に薄れ始め、切り捨てようとしているように見える。そんな世界なら、支援の必要はないとばかりに、興味の喪失ばかりか、支援の打ち切りを提案する。自浄作用を促す為に、との発言には、呆れるしかないのだが、肝心の世界は、呆然としたまま、意見を出せない状況に見える。原点に立ち戻り、不正とは何か、を論じるだけでなく、研究とは何をすることか、を考える必要があるのではないか。

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9月20日(火)−良い嘘

 主張の場において、強い印象を植え付ける為の、技術の話は沢山ある。話し方は勿論のこと、画像の構成、データの見せ方と、次々に、注目を勝ち取るコツが、説明される。他人を出し抜く手段として、その活用法が論じられ、階段を上るような具合で、進む過程が説明される。ある肝心なことを、忘れたままに。
 何が何でも、自分の主張を押し通す、という思いを持ちつつ、技術の習得を目指す人々は、表面的なことばかりに、心が奪われる。主張が何に基づくかは、殆ど論じられることなく、それをよく見せる技ばかりが、紹介され、それさえ身に付ければ、成功間違いなし、となる。だが、基本となる事実に関しては、どうだろうか。事実に基づく主張ならば、誰がどのように話したとしても、同じ結果に繋がる。明白なものなら、そこに技術を付加する必要などなく、事実を表すデータを示せば、理解されないことはない。ところが、始めに書いた状況は、もっと微妙なものであり、どちらに転がるかは、見せ方によるとされる。そこで、話し方や見せ方に、注目が集まる訳だが、そちらに重心が移ると、方法に見合う事実を、多くの中から選び出すという作業が、入り込み始める。その結果が、事実の歪曲やデータの改竄、と呼ばれる行為へと繋がり、不正が行われることとなる。口頭での主張は、その場限りのものであり、跡を残すものとならない、と言われてきたが、最近のように、様々な記録媒体が使われ、その内容が、世に流されるようでは、これとて安心できない。以前ならば、話の中での誇大は、跡を残さないから、ある程度許されるが、文字という形になる時は、注意を要すると言われたが、今は、そんなことさえ言えない時代である。にも拘らず、都合の良い嘘は構わない、などと、平気で言い切る人々が、胸を張って闊歩するのに、首を傾げたくなる。この矛盾が続く限り、不正を無くすことは叶わない。

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9月19日(月)−好都合

 データを基に、話をする。ごく普通の行為と思えるが、最近は、少しずつ事情が違ってきているようだ。人前で話をすることを想定し、そこでの印象を強める為に、何ができるかを考える。傾向と対策の上に、技術的な訓練を施す。賢く生きる為の術が、重要と見做される時代なのだ。
 術を与えることも、身に付けることも、重要には違いないが、それが、本質的なことでなく、表面的なものに終わったとしても、対策の一つなのだから、問題ないと言われる。おかしな話なのだが、他の手立てに思い当たらないのでは、反論がしにくいのも事実だ。そんな中で、データに基づく話が、おかしな具合になっている。筋道を立てた話を、との指示は、いつの間にか、筋道が優先され、それに見合うデータを見繕うこととなる。全体として、筋が通ったものに、評価が高くなるのは、当然のことだが、馬脚を露わすまでに、大した時間を要しない。ところが、本人は、筋を追うことに躍起となり、ばれた話でさえ、その筋書きを守ろうとする。その中で、事実に基づくはずのデータは、姿を変え、都合のいい形に改竄される。不正と呼ばれる行為の一つで、厳禁のものなのだが、いつの間にか、手を染める人も多い。主義主張に合う話を、という気持ちが強まると、気付かぬうちに、となると言われるが、そうでもないらしい。初めから、不正に気付きつつ、主張を強める為と、正当化した結果なのだ。こんな蛮行が、罷り通る中では、それを見抜き、騙されないようにする必要がある。だが、主義主張に目を奪われ、吟味を忘れてしまうと、そのカラクリに気付かぬままに、結論だけに振り回される。データは、事実に基づくのは当然だが、それとて、一部だけを抜き出し、都合良く並べ替えれば、思い通りの結果を得ることができる。今朝の新聞の公私の大学間の格差の意見も、その典型に思えるものだった。数値は事実に基づくが、それ以外の数字を省くことで、主張を補強できる。ばれたとしても、そこにあるのは事実なのだから、反論が可能と思うのだろうか。

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