パンチの独り言

(9月26日〜10月2日)
(打ち破る、完成、自力解決、騒音、苦言、バレた、色眼鏡)



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10月2日(日)−色眼鏡

 日曜の朝、時事の話題を提供し、識者が意見を述べる番組が、流れてくる。紆余曲折はあったのだろうが、長寿番組であるのは、人気を誇っているからだろう。様々な考えを持つ人が、独自の意見を述べることで、大衆が、それぞれの話題への、理解を深めるのに、役立つと言われる。
 が、身勝手な意見ばかりとの批判があり、仕組まれた内容との疑いが挟められる。立場や考えの違いが反映されるのだから、こんな意見は当然のものであり、尊重する必要はあるが、受け入れる必要は、必ずしもない。一方で、大衆の代弁者としての、司会者の役割に関して、高い評価を与える向きもあるが、こちらについては、大衆の水準の設定に、異論を挟みたくなる。無知蒙昧、と呼ばれれば、誰もが、反発を感じるだろう。だが、識者の解説に、まともな反応さえ返せない司会者の態度は、何も知らず、何も理解しようとしない、頑固な馬鹿者にしか見えない。それを代表と見れば、まさに現状を反映している、と言われては、公共の電波を使う資格など、あり得ない。本質を見抜く力が、識者にあるかは、不確かではあるが、その曖昧さに、気付こうともしない態度は、学ぶ姿勢が感じられない。こんな具合だから、いい加減な意見を看過し、明らかな間違いさえ、信じ込もうとしてしまう。社会全体が、こんな状態を続ければ、成長は見込めず、次代を担う人々は、劣悪化を繰り返す。象徴の役割を、考えることのないままに、退位を論じる意義は、見いだせないのに、何故か、議論ばかりが盛り上がる。自動運転の効用を、様々に議論する中で、自動化とは無関係なものばかり、取り上げる。本質を捉え、核心に迫る。そんな役を担う筈の人々は、うわべの飾りに目を奪われ、分かりやすさに心を奪われる。伝達者が、吟味に加わると、情報操作が、頻りに行われることになる。そんな篩を通しては、本質は見えない所に、隠されてしまう。

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10月1日(土)−バレた

 不正が発覚した時に、両極端の反応が生まれる。謝罪を繰り返し、罪の意識に苛まれる人が居る一方で、不正とは認めず、当然の権利として居直る人が居る。それぞれに主張はあるのだろうが、社会は、不正という観点からしか、問題を論じないから、どちらにしても、厳しく罰せられる。
 懲罰を与えることに、熱を入れる時代は、嘗てなかったのではないか。成長期には、多少のことは、大目に見ていたが、停滞が深刻となるに従い、より小さなことにまで、厳しい目が向けられている。大らかな時代に、活躍していた人ほど、この変化に適応できず、居直りにも似た行動を示すようだ。ただ、瑣末なことかどうかは、各人の判断に過ぎず、社会がどう見るかは、全く別のものとなる。特に、最近の傾向で目立つのは、立場の違いで、判断基準を変えることで、使い分けは、より厳しい目が向く。勝手な言動にも、活躍していれば、との評価もあったが、全体が停滞する中では、活躍にも、何らかの不正が潜む場合が、多くなっているようだ。何れにしても、社会の目が厳しくなるのは、特に、公僕やそれに類した役を負う人々であり、自分の為にしか働かない輩は、結局、肝心の職を失うこととなる。誰の為、などと今更言っても仕方がないが、そんな基本にさえ、気付かぬ連中のようだ。議員と呼ばれる人々の、品格のなさには、呆れるばかりとなるが、これとて、本職とは別に、地域の為に、と励んだ時代と異なり、職業としての議員を、生業とする人々は、不正に手を染めることに、止むを得なかったとの言い訳を繰り返す。より多くの収入を得る為に、少しの嘘くらいは、などという人は、議員になる前から、嘘に塗れた生活を送っていたのだろう。でも、嘘を吐いたことのない人は、居ないのだから、あれほどに攻撃するのも、どうかと思う。ここでも、立場の違いが、際立っているからか。

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9月30日(金)−苦言

 仲間を大切にする。孤立感に陥らない為に、最も重要なこと、と思われているようだが、社会で起きていることを眺めると、仲間だから、悪事にも目を瞑る、などといったことが、度々起きていて、被害を広げている。一言、厳しい言葉を向ければ、すぐに防げる筈なのに。
 大切にしたい存在に対して、特別扱いをすることには、同じ態度を、自分に示して欲しい、との思いが表れている。これが諸悪の根源になるとは、誰も思わないのだろうが、皆が正直に生きるとは限らない中では、悪の波の広がりを、止める為の手立ては、堤防のように、妨げる存在となるしかない。邪魔な存在と言われても、間違いを指摘し続ければ、組織は正常な状態に保てる。皆がやっているからとか、目立たない為にとか、嫌われたくないからとか、そんなことが、頭の大部分を占める人間には、歯止めをかける役目は、荷が重過ぎるのだろう。知らぬふりをし続ければ、波風も立たずに、平穏な人生が送れる、と思うのかもしれないが、それが組織を壊し、社会を荒廃させたとしたら、自分勝手な論理が、悪い結果を招いたということになる。安心や安全を求める人の多くは、実は、こんな考えに囚われており、皆と同じであることを求め、何が正しいのかの判断も、他人任せにしてしまう。子供達は、そんな情けない大人達の姿を、どう捉えているのだろうか。いや、最近では、子供達こそ、そんな行動を、当然とする社会を、作り出している当事者なのだ。そのまま、大人になってみれば、今の状況も、当然と言うしかないのだろう。たまには、異論を唱えてみるのも、中々に面白いものだ。ほんの少しの勇気だけで、自分の思いが果たせるのだから、簡単な楽しみになると思う。

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9月29日(木)−騒音

 外圧に弱い国にとって、世界的な調査結果は、何よりも重要な指標となるらしい。順位を落としたとの報道に、落胆する人が居るかは、全く判らないが、伝える側は、まるで大事のように伝える。理由は簡単で、社会が抱える問題として、自分達が取り上げているものが、悪化の原因となったからだ。
 先進国として、社会的な仕組みが整備されているのは、当然のことだろう。だが、その指標として、何が適切であるかは、国ごとに異なっているのが、当たり前ではないか。原因の一つとして、取り上げられたのは、連日の話題となるが、女性の社会進出なのだ。その整備が進んでいないことが、問題となるとの話だが、この分析には、首を傾げざるを得ない。例えば、上位にある国について、何故だろう、と思った人が多いだろう。スイス、シンガポール、先進国という括りに、異論はないだろうが、最上位に位置することに、はて、と思うのではないか。ある基準を当てはめれば、こうなるのだ、と言われたら、納得するかもしれないが、その基準を示しもせずに、順位を突きつけ、問題を指摘するのは、いつもの如く、本質を見誤る連中の、愚かな考えであろう。女性の役割に関しても、進出を押し進め、かなり整備が進んだ時点で、ふと、原点に戻るべきでは、と舵を切る国もあった。独自の路線を進むことに、違和感を抱かないのは、長きに渡り、先頭を走り続けてきたことを、誇りに思っているからだろうが、表面ばかり飾り立て、成り上りの先進国を、自認する国にとっては、外からの意見に、逆らうことは難しいらしい。進出を妨げる必要はないだろうが、役割を果たすことの重要性を、蔑ろにしながら、それを推し進めれば、砂上の楼閣を築くだけで、早晩、根本から崩れてしまうことになりかねない。喧しい人々は、そんな結果を招いても、何の責任も感じず、負うことなど、ある筈もないのだ。

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9月28日(水)−自力解決

 馬鹿げた意見、と思う人が多いのではないか。女性の社会進出を、妨げているのは、税制という話だ。風が吹けば桶屋が、という話ではないが、すぐに思い当たらない流れに、肝心なものはない。専業主婦で居続けることが、難しいご時世では、女性も働かざるを得ない、と言われる。
 だが、税制の中にある、配偶者控除という仕組みが、収入を抑制する為、正規雇用を避ける傾向がある、とのことだが、いやはや、こんな論理が罷り通ること自体、常識が通用しないことを、表しているのではないか。女性の社会進出において、最も重要なことは、職業意識であり、それに繋がるのは、職場環境と言われる。新卒者が、同等に社会進出するのに、結婚、出産を機に、一時的な休職を余儀なくされるのは、雌という生物学的分類が、生き物としての役割を果たすからであり、それを否定することは、種の存続を考えても、あり得ない話となる。だが、環境によっては、仕組みとして、復職を保障しているものの、実態は、元通りとならないことから、意欲を失ったり、諦めてしまう人が、多く出てくる。このような経験を持つ人々に、税制という、全く別の要因を持ち出して、復帰を促すことは、どんな意味を持つというのだろう。無気力な人々を、職場に引っ張り出して、どんな効果を狙うのか。こじつけばかりで、まともな考えを出すことさえできない宰相に、期待するだけ無駄に思える。国の政治を司る人が、論理の欠片もない話に、地道を上げる姿に、期待する人々は、やはり、他力本願の考えしか持たず、自らの不幸せは、誰かの責任と言いたくて仕方がない。意欲を失わされたのも、会社のせいであり、自分の努力は、全て無駄となったと考える。だが、一時の頑張りが、後の運命を決めるとしたら、諦めは、早過ぎたのではないか。自分で解決できることを、いかに見つけ、いかに取り組むか、少し考えてみた方がいい、と思う。

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9月27日(火)−完成

 足らないから、そんな声が上がっているのだろうが、肝心なところが、見えていないようだ。人材の必要性は、いつの時代も、あるのは当然だが、では、どんな人が求められているのか、説明されることは、あまりに少ない。中身を知らずにする買い物のように、開けてビックリとなっている。
 工業製品のように、ある基準が設けられ、それを上回ることで、市場に出回るのであれば、現場の混乱が、起きることもなかっただろう。悲惨な現実は、現場の窮状を、更に強めることとなり、何を求めるかを定めぬままに、更なる要求が出されることとなる。これでは、まるで、負の連鎖であり、好転の兆しが見えないのも、当然なのではないか。では、求めるべき人材とは何か。一つだけの答えがある筈もなく、場所による違いは、驚く程に大きい。となれば、安定した時代が得意とする、傾向と対策は、役に立たないことになる。目標を定めずに、進んでいくことは、今の時代には、実現不可能な事柄のように見られ、皆、立ち尽くすだけとなる。本来であれば、最低限の要素を、満たすことから始めねばならないが、確実な道を歩むことに、慣れてきた人々にとって、それは、ただの辛い道としかならない。とはいえ、現状では、何も達成できないのだから、やはり、最低限を、今一度考える必要があるのではないか。思いつくことを挙げて貰ったとしても、答えは簡単には見つからないだろう。何故なら、そういったことより、その場で役立つ能力ばかりを、追い続けてきたからで、即戦力にとって有用なのは、今役立つ能力なのだから。だが、その限界が見えたからには、別の要素を考えねばならない。例えば、教育を受ける中では、ある時期に、試験などの方法で、達成度を測り、それを基に、評価を下すことが常だろう。だが、社会に出て、企業などで働く場合に、必要不可欠な要素は、「完成」なのではないか。作るのであれば、それを終わらせることであり、納期などと言われる場合も、期限があるようで、実は、完成しなければ、話にならないのだ。つまり、始めるだけでなく、終わらせることが、最低限の要素であり、それを達成しなければ、実は、何も始まらないことになる。

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9月26日(月)−打ち破る

 枠を打ち破ることを、カタカナ語で表現することが、増えた。閉塞感に苛まれているから、という考えもあろうが、閉じ込められずとも、限界を感じれば、そんな思いを抱くのに、大した労力も要さない。だが、現実には、掛け声ばかりで、何も動き出さない。何故なのだろうか。
 壊す対象としての、枠組みの話が、取り沙汰されている訳だが、実際には、それまでに、安心感を与えていたものに、突然、全責任を負わせること自体に、無理があるのだろう。様々な規制に対して、緩和を求める声が高まり、外圧が高まるにつれ、次々に枠が外れていることも、事実である。にも拘らず、相変わらず、打破のことが取り上げられるのは、制度上の規制ではなく、それぞれの心の中にある、一種の抑制が、最も大きな問題だからではないか。呪縛を解く、などと言われるのも、こんな背景があるからで、自分達の意識の中にある、目に見えない縛りに対して、どう働き掛けるかが、肝心となりつつある。では、規制に関しても、それを外す為の手立ては、簡単に見つかるのだろうか。逆に見れば、現状の問題は、自ら作った規制のことであり、それを外す判断も、自らすれば済む話に思える。では、そうしないのは、何故なのだろう。一つには、その勇気がないとの意見もあろうが、本当は、その存在にさえ、気づいていないことに、問題があると思う。たとえ、一部の人間が、それに気付いても、彼らの提案を、不安要素として排除し、動き出さない訳だ。自業自得と言ってしまえば、まさにその通りの状況だろう。安心を追い求める人間が、打破を目指すとは、矛盾が大き過ぎるし、本質を示されたとしても、それを見て見ぬ振りをするなど、無能と言うしかない。変化には、まだ、暫くの時間が、必要なのだろう。

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