パンチの独り言

(10月10日〜10月16日)
(加担、予想外、能無し、失墜、形無し、除け者、噤む)



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10月16日(日)−噤む

 あげる、という表現が、乱用されている。以前も取り上げたが、元々は、「差し上げる」という意味から、目上に向かっての言葉だった。だから、現状は、間違いだらけとなる。子供相手に、「してあげる」とか、「させてあげる」とか、そんな調子が、終いには、物に向かって使われる。
 言葉は生き物だから、一定の状態に保たれることなく、次々に変化するのが当然、との考えに従えば、こんな変化も、問題なしと片付けるべきなのかもしれない。上から目線での表現が、特に嫌われるのは、現代社会の特徴の一つであり、時に、迎合と揶揄されることにもなる。子供には、「してやる」とか、「させてやる」という表現が、当たり前だった時代に、反発を催した人は、殆ど居なかった。だが、今、この表現を使うと、皆の表情が、一気に変化することがある。傲慢な人間と見る人が居たり、礼を失していると見做される。傲慢も呆れる話だが、礼を失するとは、誰を敬うというのか、不思議な考え方である。ここまで落とすのは、と思うからか、「して貰う」とする人もいるが、これはこれで、目下相手には、どうかと思う。こちらは、「させていただく」という、大人の間で乱用される、丁寧と思い込んだ末の、誤用との関連から、使われ始めたのではないか。つまり、「させていただく」という自分向けの表現は、元々、「していただく」という目上に向かったり、謙遜の意味を込めたり、そんな雰囲気を漂わす為のものから、出てきた使い方で、謙遜表現の一つかのように、見られている。だが、頂くは、貰うの謙譲語であり、貰うには、依頼の意味が込められる。自分がまるで依頼されたかのように振る舞うが、それとは異なる場面での使用は、場違いの感を強める。元に戻って、あげるに関しては、おかしな調子に受け取られた時代もあったが、今は、何の問題もないと受け取られる。おかしな具合と思うが、それを表明した途端に、変人と見做されかねない。ここは大人しく、黙っておくべきか。

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10月15日(土)−除け者

 正論を通すことは、難しいのだろうか。世の中は、これを難しいと思う人で、溢れているようだ。寄らば大樹の陰とか、長い物には巻かれろとか、そんな言葉が聞かれる程、多くの人は、従うことでよしとする。だが、正論が、組織に逆らうこととなったのは、何故なのだろうか。
 実は、そこに大きな問題がある。間違ったこととはいえ、上が定めた方針には、従わねばならない、という図式が出来上がっていて、正論を通すことは、反旗を翻すこととなると、受け取られる。この関係に、大きな問題があるのではないか。何故、上は、間違ったことをやろうとするのか、とか、何故、上が定めることには、誤りがあるのか、とか、そんなことを毎日感じながら、仕方なく服従している、というのが、下に居る人間の感覚だとしたら、それこそが、大きな間違いなのではないか。常に正しい判断を下すから、皆が慕い、付いていく、という組織の話が、全くと言っていい程、出てこないのは何故なのだろうか。判断においては、絶対的に正しいものは、殆ど存在しない。結果的に正しかったとは言えても、その最中に、その選択肢だけが正しい、となることは、殆ど無いからだ。にも拘らず、多くの組織では、構成員の多くが、違和感を覚える程に間違った判断が、上から降りてくる。しかし、保身に走る為には、逆らうよりも従う方を選ぶ。その結果、迷走が繰り返されたり、失敗へと繋がったりしても、下は上の責任と考える。ただ、無責任が蔓延する風潮の中では、誰も責任を取らず、失敗は、忘れるものとされるのだ。そんな空気の中で、正論を吐く人は、異端として疎外され、閑職へと追い込まれる。この問題は、人材活用にとっての無駄であり、停滞を抜け出すきっかけを逃すことにある。ただ、これは、上の問題でもあるが、下の問題でもあるのだ。

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10月14日(金)−形無し

 前言撤回の発言に対して、どう対処するのか、との質問は、何の意味も為さず、文字通り、開いた口が塞がらない。変更の知らせを、充分に行き渡らせる為と称して、戸別訪問による説明に、奔走した人々は、それを打ち消す更なる変更に、訪問相手への配慮も含め、対応を問うた。
 責任者の答えは、一種驚愕のものであり、何もせず、の一言だけだった。責任放棄の典型と、断じるしかない、不適切な回答だが、議場は、怒号で満たされることもなく、質問者の、わかりましたとの答えで、終わった。救いの手を、との思いからか、組織の長は、個別対応の可能性を示唆したが、これとて、全てへの対応が、当然の措置であり、何を惚けているのか、と二度目の驚きだ。不安に駆られた行動が招いた迷走は、これからも続くだろう。組織の長の愚行だけでなく、組織全体に蔓延する、無責任体質が、その原因となっていることは、明白なのだが、当人達は、自らの愚かさに、気付く気配さえ見えない。同じ組織に属する者として、恥ずかしさしか残らず、阻止できない無力感も、強く残る。社会全体に、このような状況は蔓延しており、責任転嫁に終始し、生贄を見つけることに、血道を上げる人々は、自分の足元を見ることなく、地盤そのものが崩れるまで、気付くことはない。本質を見抜けぬ無能ぶりは、これ程に悪影響を及ぼし、組織崩壊を招いているが、隣も同じとなれば、気にする必要もない、とばかりに、愚行を繰り返す。公のものを、民間と同様の仕組みにすれば、あらゆることが、正常に動き出す、との見込みは、大きく外れ、腐った組織は、徐々に崩れていく。民間だから、大丈夫との見込みが、的外れなことは、最近の事件を見れば、簡単に分かることで、そんな思い込みに頼った人々は、ただ馬鹿を見ただけ、となる。

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10月13日(木)−失墜

 無責任は、底辺にある人々だけの問題では無い。貧しい中で、何も決められず、何も成せないから、責任感に乏しくなるのは、当然のこと、と片付けられる貧困層だけでなく、本来、責任が常に付き纏う、責任ある立場の人々の、責任感にこそ、遥かに大きな問題が現れている。
 富裕層に属する人々は、多くの収入を得ているが、その理由の一つには、責任を果たす立場だから、という話がある。本来は、その通りに動く筈だが、現実は、正反対の状況を示している。彼らの頭の中では、おそらく、自らの才能が、高収入を約束しており、責任を取る必要など、どこにもない、との考えが居座っているのだろう。それも、自分だけでなく、他人の多くも、同じことをしているのだから、何の問題も無い、との結論まで付け加えられる。そこまで言うのか、と思える程の考えだが、口に出さずとも、態度に表れている。この状況を、更に悪化させているのは、例の、不安を主張する風潮だ。本来、強者である筈の人々が、不安を口にすることで、弱者を演じており、それが、異常行動へと結び付く。不安を解消する為に、様々に講じられる手立ては、どれもこれも、無駄となるしかないものばかりで、早晩、方針変更を余儀なくされる。だが、その過程での責任は、彼らの頭を過ることなく、弱者の権利を、声高に主張して、全てが終わることとなる。振り回された周囲は、多大な迷惑を被るが、彼らをその立場に据えたのに、一切の責任が無い訳でもなく、泣き寝入りにも似た態度をとるしか無い。しかし、事は組織内の問題に留まらず、悪影響は、時に、社会全体へと広がる。こんな人々を、排除する仕組みが欲しいと、願う人も多いのでは無いか。だが、無責任な人々は、仲間と徒党を組むのが得意で、そんな働きかけには、逆にこちらが排除されるだけとなる。全く、地に堕ちたものだと思うしか無い。

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10月12日(水)−能無し

 責任は、自分で負いたくない、と思っているからだろうか。社会批判を繰り返し、足元を見ない人が、ブツブツ文句を並べている。弱者を装うのも、その戦略の一つだろうが、これを助長しているのが、無知蒙昧の支援を自認している、無能な人間達だ。情報伝達を担いながら、誤報を繰り返す。
 貧困が寿命を縮めているとの調査結果に、飛び付く姿勢は、無能さの表れの一つだが、彼らは、無知な大衆と同じように、分かり易い話を好む。これは、難しい話を、分かり易く説明する役目を、放棄しているだけでなく、その能力がないからであり、ただ、右から左に、話を伝えることしか、できないからなのだ。そんな連中に、権利を与える社会は、自分で自分の首を絞めることに、なっている。それでも、弱者救済は、如何にも、自分の格を上げることに、繋がるように思えるのだろう。血道を上げて、無駄な情報を、垂れ流し続ける。貧困と健康の繋がりを、何としてでも成立させたい人々は、無理筋を見分けることもできず、また、非論理的な話を、実しやかに伝えていた。子供達の虫歯の問題が、深刻となっているのは、貧しい生活で、歯科治療を受けられないから、とばかりに、凄まじい譬え話を持ち出し、衝撃的な話題を取り上げたと、悦に入っている。虫歯の多さが、問題となり、柔らかな食べ物しか、食べない子供の問題を、貧困と繋げて、社会問題としたいのだろうが、単なる、親の教育の問題に過ぎず、硬いものを食べさせる習慣は、収入の多寡とは、無関係なのだ。健康保険にも入らない、非常識な人間にとって、その責任を、貧困を強いる社会に、押し付けるのは、ただの身勝手なのに、それをも、保護の対象として取り上げる。それを正当化する為の、こんな作り話は、聞く価値も無いものだ。

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10月11日(火)−予想外

 子供の頃に、伝えられていた、未来の世界は、今、目の前に広がるものとは、大きく異なっていた。建物の形も違い、乗り物の形態も違う。予想が大きく外れた、ということなのだが、最も強い印象は、意外なところにある。おそらく、最大の違いとも言えるのだと思う。
 当時流れていた映画や漫画の世界では、人々は、錠剤を口にし、全ての必要な栄養素を、それによって摂り入れるとの説明が施されていた。では、今はどうだろうか。確かに、錠剤を口にする人の数は、膨大に及んでいるが、これは、足りない栄養を補う、という目的の為であり、全てを賄うことにはなっていない。何が違うのか、多くの人は、気付いているに違いない。栄養を摂取することと、食べることとは、同じではない、ということだ。確かに、これだけ人工のものが、世に溢れるのだから、全てを錠剤に込めて、ということは不可能ではない。では、なぜ、それが起きないのか。食べることの悦びを、多くの人が感じており、それを失いたくないからなのだ。その中で、飽食の問題が起き、贅沢なものを食べる人々が居る一方で、貧困の中で、日々の食べ物を手に入れられない人が居る。この違いが、栄養摂取の違いになり、寿命の違いを招くとの意見が出るが、これは、暴論だと思う。何を大切にするかは、人それぞれに違い、貧乏でも、食べ物に金をかける人は多い。それより、社会の問題は、食事を軽視する人が、増えたことにある。出来合いのもので満足し、自分で料理しないから、食べ物の質に、考えが及ばない。その一方で、栄養不足に不安を感じ、錠剤を山のように飲み込む。未来予想でも、こんな情景を描いた人はおらず、異常事態となりつつあるが、もし、社会崩壊を招くとしたら、こんな人々が大半を占め始めることこそが、最大の警戒をすべき事柄なのではないか。

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10月10日(月)−加担

 国の宣伝、政府が関わるものと、思う人も居るだろう。だが、戦時中の、この国の状況では、報道に携わる人々の関わりは、非常に強かった。加担への責任、との反省から、今だに、その時代のことを持ち出し、姿勢を正すことを、心がけているように見えるが、実際には、理解も反省もしていないようだ。
 そんなことを感じさせたのは、ある暴力集団に関する、情報伝達についてのことだった。殺人を正当化する為に、事件後に発表される声明に関して、報道の仕方には、異様と思われる雰囲気が漂っていた。恐怖に駆られた訳でもあるまいが、何かを恐れるかの如く、彼らの言葉を、そのまま大衆に伝え、何の批評も付け加えない。それまでの、くどいくらいの批判姿勢は、どこに隠したのか、理由も事情も、一切見えぬままに、口伝えを続けていた。国と同様に、集団の主張は、自分達に都合のいい論理が並び、正当化に終始する中で、それを伝える人々は、一切の感情を打ち消し、ただ、書いてあることを読むだけだった。異常と感じた人々は、国でもない集団への、国との称号を指摘し、一部は、呼び名を変えたけれど、報道内容については、大した変化がなかった。この状況は、まさに戦時中の、あの業界の振る舞いの再来であり、反省の対象となる筈の言動である。にも拘らず、この態度を示すのは、気の弱い犬のような、強いものへの恐怖の表れであり、反省という言葉が、見せかけに過ぎないことを表す。同じ現象は、隣の独裁国家にも当てはめられ、連日の報道からは、彼らの主張を伝えるばかりで、その異常さへの言及も少ない。冷戦時代の、国家の形態の違いから、主張を戦わせてきたのとは異なり、世界全体との乖離が、その異常性を際立たせている事態である。狂気の論理を、そのままに伝えることが、何を意味するかは、歴然としている筈だが、名ばかりの反省を口にする連中には、恐怖しか理解できないのだ。

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