パンチの独り言

(10月17日〜10月23日)
(理解不能、総意、解放運動、眺望、弱いが勝ち、努める、選択肢)



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10月23日(日)−選択肢

 選択と集中、様々な場面で聞こえてくる、組織運営の戦略の一つだ。でも、この言葉だけ聞くと、自分でも普段からやっている、と思う人が多いのではないか。数多ある選択肢の中から、自分の好みを選び出し、そこに力を入れる。力とは、時間であったり、金額であったり、時により異なる。
 馴染みがあれば、分かり易くなるのは常で、戦略の説明において、多用されるのは、そんな理由があるからだろう。しかし、分かり易いことと、成功に繋がることは、必ずしも一致しない。選択が正しければ、成功へと繋がるのは、当然のことで、力を集中させたことが、功を奏したと評価される。だが、出発点での過ちは、その後の経過において、様々な障害を生じ、努力の果てに、失敗という烙印が押される。これを避ける為には、選択を慎重に行うことが、必要と言われるが、どんなに慎重にやったとしても、提示された選択肢の中に、成功に繋がるものがなければ、徒労に終わる。では、十分な選択肢を提示する為には、何が必要となるのか。多種多様な選択肢を並べることは、簡単なことではない。用意された選択肢の中で、最良のものを選び出すことに、慣れてしまった人ほど、自分の力で、選択肢を用意するのは、苦手と言われる。運営においても、この段階が最も重要と言われ、その為の準備を、どう行うかが肝心となる。だが、集中する前に、どのようなやり方を行えば、あらゆる選択肢を用意できるのだろうか。全ては無理としても、それに近づく努力をする為には、時間も金も、僅かだとしても、ある程度満遍なく、振り撒く必要がある。ところが、選択と集中に、目を奪われる人の多くは、そのことに気付くことがない。準備段階の重要性に気付かず、結果として選択と集中を行う組織は、結局、選ぶべきものを見つけられず、失敗を繰り返す。これは、停滞期によく見られる現象で、成長期には、多くの無駄を容認してきたことを、すっかり忘れているからだろう。

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10月22日(土)−努める

 弱者が虐げられる存在ならば、こんなに弱さを主張することもないだろう。強い立場にある訳ではないが、弱さを殊更に強調する人々の存在に、懸念を抱く人は多い。皆が挙って、より弱いことを主張すると、競争は逆方向に進み、負の効果ばかりが強まる。正当な競争は期待できない。
 次代を担う世代に対して、周囲の期待は、常に大きい。だが、負の連鎖に耽る人々ばかりでは、期待は裏切られ続け、落胆の気分だけが残る。しかし、一度味をしめてしまうと、この快感から逃れることは難しい。注目を浴び、同情を得られれば、それが満足感に繋がる。成長に必要な努力も、何も必要なく、ただ、困った振りを続ければいい。こんなに簡単に手に入るのであれば、誰もがやりたくなるものだ、というのが、今の風潮のようだが、この辺りに、人の心理として、明らかな誤りがあると思う。楽をするとか、簡単だとか、そんなことが動機になると、世間では、受け取っているように見えるが、実際には、動機はもっと奥の方にあり、目的を持った行動に対する、怠惰な気持ちとは別に、耽るべき楽しみがある。そちらに力を入れ、肝心なことからの逃避が、現状を招いているのだ。だが、この手の人々は、何かしらの褒美を与えないと、動かない。だからこそ、弱者を装うことで手に入れられる権利に、飛びついているのである。一方で、そんなことには無頓着に、日々の努力を惜しまぬ人は、まだまだ沢山居る。彼らは、いつの時代にも、中心となって活躍し続ける。問題は、こういう人々を、評価しようとしない社会にある。何故なら、彼らには独特の強さがあり、弱者重視の社会にとっては、敵としか映らないからだろう。

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10月21日(金)−弱いが勝ち

 弱い者勝ちの状況を招いたのは、人権派と呼ばれる人々だけではない。多くの場合、強い側の不見識が露呈し、そこから、弱者が虐げられていることが、結論付けられる。上の立場にある人々が、何故、あれ程に非常識な言動を繰り返すのか、器は、人を作る筈ではなかったのか。
 今でも、器に見合うように、成長する人の方が、遥かに多くいるのだろうが、そちらは、ごく当然の流れであり、人の興味を惹くことはない。それより、力不足をはっきりと示し、それまでの信頼を、はっきりと裏切る言動を、次々に繰り返す人の、実力の問題と片付ける方が、簡単な話となる。ただ、この状況の中で、信頼と信用の問題は、あまり取り上げられない。実際には、それまでに築いた信頼が、脆くも崩れる姿ばかりが、注目の的となるが、その一方で、信頼の上に立つべき、任せるという考え方が、揺らいでいることの方が、大きな問題となるのではないか。上に立った途端に、孤立感に陥るなどというのも、如何にもおかしな状況に思えるが、意外な程、頻繁に見られるものらしい。その中で、それまでなら、思いもよらなかった行動に、出てしまうのは、人間の性のようなものかもしれない。これは、上の問題を表しているようで、実は、下の問題なのかもしれない。更に、それに乗じて、弱者保護を訴えるとなれば、下が力を握ることとなり、組織全体に、歪んだ力関係が広がることになる。上に立つより、下に留まる方が、遥かに有利に働くなどとは、以前ならあり得なかったことだが、今は、そんなところが急速に増えつつある。弱者の保護を、悪いこととは言わないが、その状況を理解せずに、ただ、保護を訴えるのでは、どの問題も、本質的な解決には、到達できそうにもない。

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10月20日(木)−眺望

 経験した人の話には、独特の重みがある、という意見がよく聞かれる。これに対して、反対する人も少なく、経験の有無が、意見の軽重に影響することは、当然のように扱われる。そこから、被害者やその擁護者達が、異論を唱える人々を糾弾するが、やはり、おかしな話だと思う。
 捜査や報道に携わる人々が、現場に出向く事を、重視することは、昔から言われ続けている。自分の目で、直接に眺めることで、新たな発見がある、ということのようだ。確かに、映像だけでは、見えない部分がありそうだ、とは誰もが抱く印象だが、これに、真っ向から反対する意見が、出始めていることに、気付いているだろうか。多くの媒体を使い、情報を収集することで、現場の状況を、あらゆる角度から捉える、という手法を、一部の報道人が用い始めた。彼らの主張は、たとえ現場に出向いたとしても、自分の向いた方しか見えないし、自らの先入観に囚われ、判断を誤ることは多く、出向かずに、様々な視点から捉えられた情報を、端末の前で手に入れた方が、現場の興奮に惑わされず、多面的な捉え方ができる、というものだ。映像を利用した報道では、事実を伝えているとの前提があるが、実際には、カメラの後ろに広がる光景を、見ることはできない。これが、現場重視の考えに繋がっていたが、今では、多くの人が媒体を手にし、そこから発信される情報は、全世界を駆け巡ることになる。一台のカメラだけならば、前に書いた通りの話になるが、全く別の視点から捉えられた画像が、別の経路を辿って伝えられ、それが手に入れられれば、その組み合わせによって、より多くの情報を手に入れられる。それらを基に、内容を把握すれば、現場に佇むよりも、多くの情報を手に入れられる、という訳だ。現状を眺めると、確かに、この立場に立った方が、全体把握が可能となるように思える。現場主義は、そろそろ廃れてきているようだ。

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10月19日(水)−解放運動

 アラブの春と言われた動きが、その後、どんな経過を辿ったのか、殆ど見えてこない。あの騒ぎの割りに、これ程の情報不足は、民衆の運動が、始めの盛り上がりが冷め、頓挫したことを表している。宗教に縛られているとの解釈まで、当てはめられるような国々での民主化は、魅力的に映ったが。
 そこまで極端な変化ではないものの、民主主義国家の多くで、民意を追い風に、様々な変革が進みつつある。ただ、その内容は、不安定な要素を多く含んでおり、予断を許さない状況にある、と言われる。この際にも、かなりの盛り上がりが伺え、目的を果たす為に、努力を惜しまないという姿勢が見えた。ただ、狭い視野に基づいて、設定された目的では、たとえ、それが達成されたとしても、その後、広がる歪みに、全体が耐え切れなくなる場合が多い。政治への不信が招いた状態であることは確かだが、不信の対象となった政治では、多くの矛盾する事柄を結び付け、それらを全体として、ある均衡に保つ為の、措置が取られる。一部だけ取り出せば、正反対の目的を設けているように見えても、全体として、そちらに向かうことが、より良い均衡を手に入れられる、となれば、その戦略を採用する。だが、近視眼的で、視野狭窄に陥っている、民衆にとっては、とてもわかりにくい状況であり、厳しい時代を経ないと、より良い環境を手に入れられない、となれば、誰もが、敬遠したくなるものだろう。その中で盛り上がり始めた運動は、一気呵成に攻め立てる訳だが、結局は、勝利を手に入れたとしても、より良い社会が築けるとはならない。そこでまた、新たな民意の表明へと繋がるが、これが更なる無駄を産むだけとなる。簡単に解る図式と思うが、大衆には、目の前のことしか見えていない。自分達で、何事もやり通したいのなら、もっと力を入れるべきだし、任せるのなら、相手を信用しないといけない。どちらもできない人間に、明るい未来など、訪れる筈もない。

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10月18日(火)−総意

 民意とは、何だろうか。民衆の総意、との意見に対して、多数決を取れば、少数派の意見は、潰されるとの答えもある。一般の会議では、様々な意見が飛び交い、それぞれの利点、欠点を検討した上で、結論を導く。総意とは、そういったものに当てはまる訳で、多数決の結果とは違う。
 会議での決議においても、多数決を持ち込む場合がある。それと同じとの意見もあるが、これもまた、全く異なると言わざるを得ない。投票までの間に、十分な時間を費やし、議論を尽くした、とするのが、その理由なのだろうが、尽くしたとは言い難い状況に留まるだけでなく、話し合う内容も、一部のものが扱われただけで、広範囲に渡ってとは、言えそうにもない。その中で、ある話題だけが注目を浴び、その賛否を問う形で、投票日を迎える。本来ならば、様々な要因が絡む中で、それぞれがどう動くかは、十分に検討しない限り、見えてこない。にも拘らず、一部のみを選び出し、それを争点として取り上げるのだから、偏った結果が導かれるのも、当然のことだろう。その結果を、民意と称して、天下を取ったかの如く、振る舞ったのは、例の宰相であり、郵政民営化などという論点が、実は、見掛け倒しであり、まやかしであったことは、現状を眺めれば、明白だろう。単純な民衆を、操る為の手段は、一見、難しいものに見えるが、一度動き出せば、あとは簡単なものとなる。この時も、勢いをつけて、一気に走り抜けた訳で、あそこで、十分な議論をしていたら、化けの皮が剥がれていただろう。今回も、民意という話が出てくるが、象徴としての役割を論じる時に、民意を持ち出す理由は見えない。遠い存在が、目の前に現れた感激を、否定するつもりはないが、それが常態化した時、役目を増やすことはできても、減らすことができなくなった。これこそ、民意の反映であり、その路線を継続すれば、結果は情けないものにしかならない。

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10月17日(月)−理解不能

 働く目的とは何か、という質問に答えることは、確かに難しい。収入を得る為、という理由は、最も大きなものとされるが、毎日働いている時に、収入のことばかり浮かべる人は、少ない。では、毎朝、重い腰を上げて、会社に向かうのに、必要な力とは何か。思い付くだろうか。
 学生達が、職を得る為に動いている最中、彼らに同じ質問をすると、働くこと自体が、生活の中心にないとの答えが、返ってくる。彼らにとって、収入は、別の目的に必要なものに過ぎず、それを得る為の手段に、何の拘りもないらしい。会社人間と呼ばれる人々には、この考え方は、全く理解できないものだろう。だが、現実には、そんな人が巷に溢れ、業後や週末の楽しみに、精を出す。働き方について、世間では、様々に議論されているようだが、こういう人種を、どう扱うのか、まだ定まっていないようだ。このように、その気のない人々を、どう扱うかが、今時の管理者の課題のようだが、その一方で、脱落する人々の問題も、膨らみ続けている。働き過ぎが原因で、心を病んでしまった人が、度々取り上げられるが、その症状は多様なようだ。解決法は、未だに見出せないが、一つである筈もなく、対症療法の如く、一つ一つの事例に合わせて、対応を検討する必要があると言われる。ただ、働き過ぎ、という状況に対する考え方だけでも、種々雑多なものがあり、簡単には片付きそうにもない。病んだ挙句に、命を絶つ人々の問題は、表面化する度に取り上げられるが、これとても、首を傾げざるを得ないものが多い。こういう場で、それを批判する内容を書いた人が、社会的に厳しく罰せられたとの情報も、ある意味、理解不能に陥らされる。週末を除くと、毎日5時間の残業を強いられた、新人社員が、命を絶ったことに対する、人々の反応は、様々だろう。その位なら、自分も経験したと思う人の意見は、厳しく聞こえるだろうし、同情する意見には、賛同したくなる。だが、そこに至る道筋を思うと、やはり疑問ばかりが残る。何故、という言葉と共に。

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