パンチの独り言

(10月24日〜10月30日)
(強制力、絶滅、果たさず、途切れ、自責の念、優柔、変わり身)



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10月30日(日)−変わり身

 舌の根の乾かぬうち、とは、初めの主張を言い終わらないまま、正反対の主張を始めることを指す。世の中には、これを得意とする人種が多いが、例えば、評論家は、場当たり的な意見を並べ、時に、自らの矛盾に、気付かぬふりを繰り返す。商売とは言え、情けない姿を曝け出す。
 同類とも思えるのは、政治家だろう。彼らも、勝手な意見を重ね、時に、記憶喪失に陥ることさえある。最近は、どんな場所でも、記録に留める人々が居て、記憶頼みだった頃と比べると、惚けることが難しくなった。その為、前言撤回や謝罪など、何とも情けない姿を曝し、主義主張が無いことを、露呈し続ける。過激な意見を述べる人ほど、この傾向は著しいものの、最近は、冷静で確かな意見を並べる人でさえ、怪しげな言動へと繋がることがある。一つ一つの意見が、いかに確かなものだとしても、互いに合致しない面があれば、どちらも奇怪なものとなる。死んだ人に、罵声を浴びせる人は居ないと言われるが、自らの命を絶った人の、原因となったことに対しては、罵声や厳しい意見が浴びせられる。ここまでだけなら、厳しい意見も、価値を保てるのだろうが、まさに、舌の根の話の如く、別の話題へと移った途端に、逆の考えを広げていることに、気付かぬのは、何故だろうか。法外な残業の果てに、命を絶った人を、雇っていた企業への風当たりは、急速に強まった。その結果、全社をあげて、対策を講じざるを得なくなり、消灯された建物が、映し出される。こちらは、暫くすると、喉元過ぎれば、となるだろうが、別の場面では、企業に副業を認めさせる、と宣う政治家が現れる。同じ企業であれば、残業となる筈のものを、別組織で働けば、良いとでも言うのだろうか。はたまた、別の話として、考えたとでも言うのだろうか。賛否を問うにしても、本業の収入を抑えることに、繋がり兼ねないようなことに、何の疑問も挟まぬ人に、判断できるとは、とても思えない。舌の根、喉元、口は災いの元か。

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10月29日(土)−優柔

 世の中は、優しさが求められる時代にある。弱さの表明が、権利主張の条件のように見做される中、それを癒す為の方法が、挙って取り上げられたり、優しさを求める声が、強まっている。確かに、弱者保護は、社会の責任の一つだろうが、偽物相手では、溝に捨てるようなものだ。
 癒しを求める声は、まるで、それが唯一の救いかのように、思っているようだが、何故、救いが必要なのか、不思議に思える例は少なくない。弱さの表明と同じように、大した努力もせず、それほどの窮地に追い込まれずとも、手を差し伸べて欲しいと、願い続けているらしい。自力で這い上がるなどといった、泥臭い行動には、誰も興味を抱かず、周囲からの優しさも、できる限り得ようと望む。だが、この手の人々は、他人への優しさを、単なる放置と無興味と、取り違えているようだ。何が起きても、放っておけば、それは優しさの表れと受け取る。顔が向いていても、本当は興味を抱かないから、何の反応も返さないが、これも、温かく見守ることと受け取る。叱咤激励や意見を出すことは、厳しい言葉を伴うから、当然、優しくない行為と映り、避けるべき人間と決めつける。こんなことを繰り返したら、成長は望めないと見るのは、多くの厳しい大人達だけで、仲間内の慰め合いには、そんな空気を吹き飛ばす仕組みがある。一番の問題は、他人に優しさを求める人間の多くが、自分への優しさを当然と思うことで、責任の回避や転嫁が頻発するのも、こんな心から起きるようだ。これでは、成長が見込めないと、たとえ認識していたとしても、一時の癒しや優しさに、安住を感じる人間には、他の選択肢がないのだろうか。所詮、その程度の人間なら、人材として扱う必要もなく、扱いも軽くして仕舞えばいい。ただ、それが、大部分を形成するようだと、二進も三進も行かなくなる。さて、時代は、どこに向かうのか。自分達に、何ができるというのか。

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10月28日(金)−自責の念

 責任感の持ち方は、人それぞれなのだろう。だが、社会での責任は、一様に問われている。たとえ、自分が感じていなくとも、他人がそう思えば、責任が問われることとなる。その上、果たし方に関しても、それぞれの違いがあるが、こちらも、型通りに押し付けられることとなる。
 未熟なうちは、責任が問われることはない。というのが、常識となっているが、責任を感じるかどうかは、個人の判断に任されている。過剰に意識すれば、萎縮へと繋がり、平静を保つことが難しくなり、折角の機会を逃すことになり兼ねない。だから、気楽に構えろと、周囲からは、温かい言葉をかけられる。だからと言って、どう処すかは、人によるものだ。責任を問われずとも、任されたことを意識、何とか、達成しようと努力する。この場合、圧力をかけているのは、周囲ではなく、自分自身となる。それが、緊張を招き、萎縮した結果として、失敗へと繋がったとしても、ある意味、仕方のない所だろう。ただ、周囲は、結果を重視し、時に、能力の判断を行う。気楽に行けと言いつつ、結果を評価するのだったら、結局、同じことではないか。それなら、自身の力で、自らに責任を課し、やり遂げようと努力するしかない。今の雰囲気は、かなり微妙な状況にあり、かけた言葉とは裏腹に、厳しい評価を下すことがあり、当人にとっては、裏切られた気分に、陥りかねないようだ。それくらいなら、厳しい言葉をかけて貰えた方が、というのは、実は、虫のいい話だろう。励ましや優しさを求めながら、結果が違うと、逆を望む。そんなに都合のいい話はない。よく考えずとも理解できるように、自分の処し方が、全てを決めていると考えるべきだろう。責任は押し付けられるものではなく、自分で感じるものであり、過剰反応が起きないように、自らを鍛える必要があるのだ。日頃からの訓練が必要なのだろう。

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10月27日(木)−途切れ

 ある週末、車での通り道に立てかけられた看板には、130周年の文字があった。その施設が出来てから、130年の歴史を、写真で振り返ろうとの催しが、開かれていたようだ。130年前といえば、1886年であり、この国の年号で考えると、明治19年である。そんな頃から、なのだと思った。
 同じ頃に訪ねた施設は、近々、120周年の催しを開くという。維新以降に整えられた、学校制度の一環として、設置された施設なのだろうが、地方の大きな町では、地域の子弟の育成という目的で、このような施設が建てられ、その後の制度の改正により、現在の名称を得たものと考えられる。どちらも、義務教育とは無関係の施設だが、早期の教育と、高度な教育という、別の目的とはいえ、社会の要請に応える為に設けられ、その目的を十分に果たしてきたのだろう。ただ、最近の状況は、厳しいものと言われている。先日の調査でも、再確認されたように、この国の人の数は減り始めており、それは、若年層の著しい減少に繋がっている。当然、どちらの施設においても、深刻な問題が見え始めており、前者の場合は、近隣の同様の施設が、数年前に閉鎖となっているし、後者の場合は、併合という形での再編が、始まっていると言われる。歴史が途切れることに対し、出身者達の気持ちは、理解できる部分も多いが、背に腹はかえられないとか、無い袖は振れないとか、そんな一言で、片付けられることが多い。その時代に、その場に居る人間にとって、施設の歴史は、何の意味も成さないのだろうが、少し時代を経て顧みると、歴史の一こまに、自分が居たことを意識し、その意味が理解できる。だから、という訳では無いが、増やし続けてきた反動のような、閉鎖や併合に対して、手当の必要を感じてしまう。

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10月26日(水)−果たさず

 自由と責任、と言われて、煙たいと感じる若者は多い。これは、古今東西、どこでもいつでも、通用する話だろう。負うべき責任を、持っていない若い世代にとって、自由を謳歌するのは、当然の権利なのだ。では、その権利を得て、年齢を重ねていくと、どんな義務が待っているのか。
 自由を享受している最中に、そんなことを考えることは、まずない。だが、権利を手にした時、そこに生じる義務は、避けることが難しい。その意味では、実は、自由と責任よりも、権利と義務の関係の方が、先に降りかかってくるようだ。そんなことを思い浮かべながら、周囲を見回してみると、この関係の中で、戸惑う若者が沢山居ることに、気付かされる。権利主張の結果、それを手に入れた途端、あまりはっきりとしない形でも、何かしらの義務が課される。それを無視し続ければ、権利が剥奪されるだけでなく、徐々に、自由までもが奪われることになる。権利主張において、この感覚を身に付けなければ、自らの存在までも、窮地に追い込むことになり兼ねない。だが、当人達は、気付く気配もなく、偶々手に入れた権利を、楽しむだけとなる。周囲の心配をよそに、勝手気侭に振る舞う人々に、やはり明るい未来は、やってきそうもない。では、どうすればいいのか。最も簡単なのは、手に入れた権利に見合う、義務を果たすことだ。単純なのに、それができない人間は、結局、無能との烙印を押される。それを避ける為の行動は、ごく単純なのだから、さっさとやればいいのに、それをしないのは何故か。面倒との一言で片付ける人が多いが、面倒なら、権利の主張も止めればいい。この状況は、均衡が取れておらず、崩れた関係は、壊れるしかないだろう。どちらも、自業自得のものだけに、悔やんでも仕方のないことである。悔やむくらいなら、義務を果たすという、簡単なことに手を付けるべきだろう。

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10月25日(火)−絶滅

 権利主張が重要と見られるようになったのは、おそらく西欧化の一つではないか。お上の決めたことを、絶対と見做し、服従を当然と受け止めていた人々は、突如として、不満を口にし始め、権利を要求してきた。その結果は、歪みの蓄積にしか繋がらず、状況の悪化を強めている。
 救済の対象となるのは、弱者と呼ばれる人々であり、社会福祉の重要な要素として、扱われている。しかし、人権が尊重されるのと同じように、弱者の権利を保障するのも、社会全体の役目であり、それが当人から要求されるとなると、話が大きく違ってくる。人より劣る状況に陥ったのも、止むを得ない理由からではなく、選択の一つとして突き進んだ結果となれば、果たして、救い出すことが必要なのか、という疑問も浮かんでくる。例えば、一攫千金を狙い、持ち金を全て投げ出してしまった人に、昔は、とても冷たい態度を貫いていた。と言っても、最低限の救済を行いつつも、本人の反省を促し、自力回復を待つだけだった。それを、冷たい仕打ちと見做す人々は、過剰な救済を施そうとし、賭けに敗れた人は、当然の権利として、それを要求し、受け取ることとなる。弱者という括りが、怪しげなものとなったことに、多くの人は気付いているが、これを強調すると、社会からの総攻撃を受け、精神的な痛手を負いかねない。ということで、思っていても、黙っている人の数は多く、世相は、全く別の考えで染まっているように見える。人と違うことに対しても、度が過ぎる程の寛容性が要求され、異常とも思える言動が続く。生き物として、必要不可欠な生殖行為でさえ、選択により、排除できるとされつつあるが、これを異常と捉えることは、憚られる。選択の自由が、種の存続を危うくすることに、危機感を抱かない社会は、絶滅するしかないのかもしれない。

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10月24日(月)−強制力

 多様性を受け入れながら、画一化を図る。何とも不思議な図式だが、この国の教育現場は、これを強いられている。その結果は、様々な所に悪影響を及ぼし、矛盾に満ちた社会を形成している。矛盾に憤りを感じながら、反発を表明せず、温順しく生き続ける。その結果、歪みが極まるのだ。
 何故、こんなことが起きるのか。多様性とは、人それぞれに当てはめれば、他人と自分は違い、それぞれに異なる特徴を持つこととなる。それを受け入れるということは、勝手気侭を許すことになる、と思う人が多く、その状況を保ちながら、教育と称して、何かを押し付けることは、難しくなる。ここに、矛盾の最大の要因があるが、教育に携わる人々は、それに気付きつつも、触らぬ神に祟りなし、といった態度を続ける。方針を決める人も、結局、大した違いがある訳ではなく、同じように、見て見ぬ振りを続けるから、全体として、何の問題もなく、修正も必要ないとなる。だが、今の社会の歪みを眺めると、この状態を放置することには、何も良いことがない、となる。では、どうしたら良いのか。簡単に言えば、人と人の違いを受け入れる、という形ではなく、単に無視すれば良いということだろう。違いを殊更に取り上げる風潮では、それを禁じる力をかける必要がある、との解釈から、かなりの強制力が行使されているが、これが逆効果を産み出し、結果的に、人の心に大きな矛盾を落とし、精神の不安定を招く。おそらく、それに気付きつつも、同じことを繰り返すことで、表面的な安定を保とうとしているのだろうが、無駄な努力としか言えない。違うのは当然として、それを、殊更に取り上げず、一方で、皆がやるべきことを示し、導く必要がある。この時に、達成目標が違ってくるのは、それぞれの資質の違いから、当然となる。実は、難しいことではない。

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