パンチの独り言

(10月31日〜11月6日)
(小人、毛嫌い、痴愚、情けない、過誤、駄本、非常識)



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11月6日(日)−非常識

 人を好き嫌いで判断してはいけないと、子供の頃に、大人達から言われた人は、多いだろう。子供にとって、好きか嫌いかは、食べ物の問題と同じように、重要な判断基準だけに、それ以外の要素で決めることは、とても難しく感じた。だが、大人になって、ふと思うことがある。
 大の大人達が、あいつは駄目だとか、素晴らしいとか、評するのを聞いていると、その基準の多くは、好悪に基づくものなのだ。問い質せば、客観的な評価との答えが戻ってくるだろうが、現実には、主観的なものに過ぎず、それどころか、人間として、好きか嫌いか、に過ぎない場合が、驚く程多いのだ。それでも、大人であるだけに、実しやかな解説が加えられ、自らの判断を、正当化しようとする。これが、自分の下劣さを際立たせているとは、当人は全く気付かず、品格を備えたとさえ、思い上がる人間さえ居る。こんな大人を見れば、子供達は馬鹿にした笑いを堪え、反応を控えようと努める。叱る大人より、愚かさを示す大人の方が、子供への教育効果は、遥かに大きいのかもしれない。だが、こんな愚行を、教育に持ち込むことこそ、憚られるというものだ。大の大人として、そういう輩を、厳しく扱うべきだろう。ただ、こんな連中に限って、傲慢に振舞うのは、権力を握っているからであり、それによる不正は、悪質さを増すばかりとなる。人間である限りは、好き嫌いを感じるのは当然であり、それ自体を、抑えようとすることは、心理的な抑圧となる。そんな感覚で過ごした人ほど、タガが外れた時に、傍若無人ぶりが際立つのだ。解放された途端に、暴れているようなものだが、当人は、いたって真面目に振舞っていると思い込んでいる。これが、問題を難しくするが、この手の人々が、それに気付くことはない。それどころか、自らの正当性を主張し、諌めた人間を、吊るし上げることとなる。

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11月5日(土)−駄本

 学校に居る頃、偏差値なるものに、一喜一憂したことは、誰しもあるのではないか。志望校に入れるかは、それがある基準を、上回るかどうかで、決まるように思っていただろうし、実際に、安定した時代には、無理を押し通すより、堅実な道を歩もうと、その判定に従った人も多いに違いない。
 では、そんな時を経て、大学も無事に卒業できた後、どんなことが起きただろう。学歴不問、を掲げていた企業も、一部にはあったけれど、多くは、学歴、特に、大卒というだけでなく、どの大学か、を問題とされた経験を持つ人が、多いのではないか。偏見にも似た、上司からの視線を捉え、反発を決意した人は、見返す為の努力を重ね、今の成功を手に入れた、という場合もある。その時、その時の、基準に対する位置は、確かに重要な要素の一つだろうが、それが自分の人生全てを、決めるとは思わない、という感想を、こんな人々は抱いてきた。そんな気持ちの中で、最高学府の頂点にある大学を、出てきた人々と、競い合うことも、時に起きる。決意を持った人々にとって、格好の標的となる人に対し、打ち勝つ為の努力は、生き甲斐を感じることさえ、あるのではないか。だが、やっと基準を満たし、自分の偏差値に見合う所に、入ったばかりの学生達にとって、遥か彼方にいる同世代の人間と、競争をするなどということは、想像だにできないことだろう。こんな人に対して書かれた本と、その題名から想像されたものは、全く違う中身に、期待を完全に裏切られた。あらゆる場面で通用する道具を、身に付けることの大切さを、説いた内容なのだが、殆ど役立たずの状況で、無駄の一言で片付けたくなる。読み終わる間際に、題名に見合う内容が、少しだけ出てきたが、単なる例え話に過ぎず、とってつけただけのことだろう。編集者の責任か、著者自身の責任か、明らかにする必要はなく、ただ捨て置けばいいと思う。

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11月4日(金)−過誤

 厳しい対応が、好まれない時代となっている。だが、逆の見方をしてみると、優しさが、好まれる時代と見ることができる。それも、前者が受ける側の思いの表れであるのに対し、後者が送る側の思いの表れであることから、主体の違いと見る向きもある。この見方からすると、何か言えそうに思う。
 例えば、厳しさを前面に表し、相手構わず、それを貫き通したことで、酷い仕打ちを受けた人の数は、最近急速に増えているのではないか。時に、職を失いかねない状況に追い込まれ、方針変更を強いられた場合、主張を曲げずに、戦う決断をすることは難しい。特に、社会が、弱者に寄り添う時代には、戦いは、孤独なものへとなり、たとえ正しい判断と決断の末だとしても、並べられた屁理屈が、全てを押し流す場合もある。結局、戦いに敗れて仕舞えば、主義主張を表現する場も失い、厳しさは、まるで罪を犯したことと見做される。だが、まともな判断力のある人から見れば、どちらが正しいかは、明らかであり、なぜ、そのような結論に至ったかは、見えないままとなる。ただ、このような意見は、社会の中で無視され、抹殺されるから、敗れたという結果だけが残り、厳しさを避ける傾向が生まれる。弱い者が勝つ図式は、このような環境下で、起こる訳だが、そこから生まれるのは、厳しさより優しさを選ぶ傾向なのだ。これは、弱者にとっても、都合の良い状況だから、今の社会では、当然のものと受け取られる。だが、その結末がどうなるか。その時、その場での、人々の感覚とは、全く異なったものが、産み出される。社会の荒廃とは、無関係と受け取られるが、実は、社会の状況は、その構成員の振る舞いによる。だとすれば、今の状況となったのは、人々の能力による、と見ることもできる。優しさが招いた、人々の能力の低下は、この社会の状況へと繋がった。その責任は、どこにあるのか。

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11月3日(木)−情けない

 品格の話は、一世を風靡していたが、さて、その言葉は、本当に大衆の心に根付いたのか。その後の成り行きを眺めるに、品の無い話、格式を忘れた傍若無人ぶり、何の影響も受けなかった、としか思えない。所詮、その程度の人間に、細々と書かれた、あるべき姿など、届く筈も無いか。
 弱者を装う人々は、品格とは無縁の世界に住む。一方、品格を漂わすべき、と諌められた人々は、権力を笠に、やりたい放題を続ける。どちらの側に蠢く人も、品も格も持ち合わすべき、との主張が、あの手の本には込められていたが、読んだ人の数の割に、何も残らなかったようだ。力を誇示するばかりで、中身のない姿を曝け出す人々は、肝心の力を失わぬように、様々に画策する。その結果は、逆らう人々を排除するだけでなく、たとえ味方だと思っても、自分の地位を脅かす人々に、難題を突きつけることで、追い落とそうとする。同じ程度の実力なら、こんな手練手管で、十分に目的を達成できるが、追う者の実力が、自分を上回るとなると、事は難しさを増す。その結果、誹謗中傷を始めとして、情報操作を繰り返し、あることだけでなく、ないことまでも、事実かのように装い、蹴落としに励むこととなる。こうなると、肝心の務めにも、身が入らず、日々策を講じることに、多くの時間を費やす。こんな人々を、自分の身近に見たことのある人は、おそらく沢山居るだろう。それくらい、品格の無い人間が、権力を手にすることで、停滞を余儀なくされる組織が、世に溢れているのだ。ここまで来ると、何故、という問いは、意味を成さなくなる。これが現実であり、情けない人々の姿なのだ。それに擦り寄り、自らも力を得たい人には、都合のいい世界だろうが、社会全体で見れば、無駄以外の何物でもなく、唾棄すべき状況ではないか。だが、それを為しているのは人間であり、それを育てるのも人間なのだ。

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11月2日(水)−痴愚

 攻撃は最大の防御、と言われるが、何を何から守ろうとするのか、さっぱり解らない言動が繰り返される。しかし、批判という攻撃を続ける人々は、それが何を産むかさえ理解できないままに、騒ぎを広げ続ける。隣の国の騒動は、これまでの事例とは異なり、任期中だけに、別の心配が広がる。
 ただ、あの騒いでいる人々は、馬鹿騒ぎを繰り広げているに過ぎない。日頃から鬱積が溜まり続け、その捌け口を見つけようと、躍起になっている人々にとって、真相が分からずとも、権力者の不正は、格好の標的となる。だが、その的を撃ち抜いたとして、何が起こるか、誰もわかっていないに違いない。その上、騒ぐことが、どんな意味をなすのかさえ、見えない人々なのだ。暴力に訴えるのも、隣国の非常識の表れだが、鬱憤晴らしに過ぎないと、冷ややかに見ても、何の意味も成さない。国民達が、自分のこととして、あの光景をどう眺めるか、聞いてみたいものだ。一方、これから選ぶべき人の、恣意的な情報操作により、世論が操作されているとしか見えない、海の向こうの国に関しては、全く別の問題がある。気に入らない候補を、こき下ろすのは、ある意味勝手なものだが、公の機関がそれに加担するとなると、何のことやら、と思えてくる。民主主義とは、程遠い状況を露呈して、国の勢いを弱めるだけでなく、ここでもまた、非常識が蔓延するという印象を強める。世界的な傾向だけに、見過ごしてしまうのかもしれないが、愚民政治が、実は、愚かな民から始まるのではなく、それを操る人間によるもの、であることを考えると、こんな状況の裏で暗躍する人々は、一体全体、何を求めているのか、さっぱり解らない。金儲けに走ることが、最優先と捉えられる、資本主義の国において、対立候補を選ぶことによる利益は、公的機関の人間にとって、何なのだろうか。もしかしたら、そんな深読みもなく、ただ、感情的になっただけのことか。だとしたら、そんな下らない考えで、国の行く末が決まるなんて、愚の骨頂ではないか。

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11月1日(火)−毛嫌い

 民衆の決断が、これ程に注目されるようになったのは、意向を直接的に反映する、手法が使われたことによる。自分達の考えが、自治体や国さえも、その行く末に反映できることに、喜びを噛み締める人が、多いと言われる。しかし、その一方で、混乱の極みとも思える状況が続き、収拾の気配は見えない。
 誰しも、自らの手で何かを決めることができれば、嬉しいに違いない。だが、その一方で、結果に対する責任が問われると、様相が一変する。決めたいが、責任を取るのは嫌、という身勝手な考えが、この制度によって、社会に蔓延るようだと、やり方自体を考え直す必要が出てくる。だが、それさえも、自分達の意向が反映されるとなると、勝手な連中が、折角手に入れた権利を、簡単に手放すようには思えない。どちらに向かうのか、将来を占う事柄が、数多ある中で、数少ない、自分で決められることさえ、的確な判断ができそうにもない。話は違うが、間接的な意向という形で、選ばれる国の頂点に関して、日が迫るに従い、徐々に状況が決まる気配が見えていた。そこに、新たな騒動が起きているようだが、これは、一部の人々の思惑が、反映しているように思える。一時的に、深刻な問題として取り上げられたものの、その後の調査は、決定的な証拠を見出せず、そのまま終息を迎えたと思えたのに、何を今更、と思う人も多い。ところが、関係当局は、かなり力を入れ始め、勝算があるかの如く、伝えられる。だが、問題となっている仕組み自体に、確実な証拠と言えるものが、残されるかは、かなり怪しげなものに思える。となれば、この見込みは、何を意味するのか。例の候補が、勝利を手にすることに対し、よしとしない人々が、その先頭に立っていると考えると、状況は簡単に理解できる。ただ、彼らの見識は、対立候補の勝利を、どう判断しているのか、殆ど何もないようだ。愚民政治がこんな形で、更なる愚かさを招くとしたら、取り返しのつかないことになり兼ねない。

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10月31日(月)−小人

 頂点に立つには、どうしたら良いのか。そんなことを考える人は、世の中に一杯居るようだ。競争社会で生き残る為には、切磋琢磨を続けることが、唯一の方法と思うのは、ある意味、暢気な意見だろう。競争で勝つ為には、敗者とならないこと、つまり、敗者を作り出すことが一番と言われる。
 社会での競争において、最も重要となるのは、この考え方とも言われ、悪賢いと言われようが、その為の画策を講じる。では、実際には、何をするのか。敗者となるべき人を、蹴落とすことが、安易な方法と言われ、周囲の人に偽の情報を流すだけでなく、本人を相手に同じことをすることもある。心理的な揺さぶりをかけ、冷静な判断を妨げるのも、一つの方法だ。だが、互いに同じ意図を持って、似通った言動をしても、相手の思惑は、お見通しとなる。こんな状況では、結局、実力がものを言うこととなる。では、正当な競争で、負けそうな気配が漂ったら、上を目指す人は、どんな行動に出るのか。最も簡単な方法と言われるのは、実力が劣る者を集め、その中での頂点に君臨する、というものだ。東西の大都市の首長を見れば、その様子は、簡単に理解できる。一時的には、国の頂点を目指したのかもしれないが、直接的な道が閉ざされ、方針変更を余儀なくされた結果、別の集団を率い、そこから、別の道として、頂点を目指すことを決断する。どんな集団でも、上に立つことさえすれば、ある欲望は満たされる。以前なら、ちっぽけなものと、馬鹿にしていたことさえ、自分がやると決めれば、違ったものに映るのだろう。悦に入った姿には、負け犬の気配など、微塵もない。だが、所詮、劣った集団を率いても、勝利を手にすることは難しい。頂点とは何か、改めて考えずとも、初めから明らかなことがある。それを忘れて、都合のいい世界を築いても、何にもならない。まさに、ちっぽけな人間のすることなのだ。

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