パンチの独り言

(11月7日〜11月13日)
(猫の目、指弾、糾弾、拒絶、拒否反応、利己主義、外遊)



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11月13日(日)−外遊

 外を目指せ、との掛け声が大きくなる。内向き志向を、良からぬ傾向と決め付け、外を見る目を養え、ということらしいが、果たして、思い通りになるのか。人は皆、始めは、井の中の蛙である。自分の世界しか知らず、それで全てを語ろうとする。未知のものがあるかも、知らないのだから。
 だが、成長するに従い、見える範囲が広がり、ついに、井戸から外に、出る時が来る。この機会を捉えよ、というのが、外を目指せとの掛け声の、主の思うだろうが、同じことを指している訳ではない。子供の頃から、成長するに従い、行動範囲が広がるのは、誰もが辿る道筋である。家庭から始まった範囲は、徐々に境界を広げ、町から都市、国へと広がり続ける。知識だけは、更なる外へと広がり、世界へも目が向き始める。目指せとの掛け声には、経験こそが意味を持つ、との考えがあり、知識だけでは見えぬ実態に、触れることの大切さを説く。だが、誰もがするべきことかは、確かではなく、掛け声の主の中にも、未経験の人が多いのは、どういうことかと思える。機会を捉えることが大切なのは確かだが、それを積極的に行わねばならぬ、となるとどうだろうか。無理を承知で、思いを押し通した挙句、自らの体や心を蝕んでしまう事態に、陥ることも珍しくない。掛け声には、そんなことへの責任感はなく、ただ、推奨するばかりで、その意義を解き続ける。本当に外の世界を知りさえすれば、何かいいことがあるのかと聞かれると、多くの経験者は、そうとは限らぬ、と答えるだろう。良いことも、悪いこともあるが、経験は大切、とは答えるが、だから必ず行くべき、とはならない。却って、未経験の人ほど、強く勧めているようだ。内にはない良いものが、外にはあると信じるのは、その人の勝手に過ぎず、従わねばならぬということでもない。就職で町を出るのも、同じようなことかもしれぬ。

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11月12日(土)−利己主義

 個の時代と言われる。人々は、全体の利益より、自身の利益を優先し、自らの権利を主張する。この考え方自体に、目新しいところはなく、誰もが同じように考える、としか思われない。だが、最近の傾向は、以前とは大きく異なるものとなっている。全てを、自分中心に考えるのだ。
 自分の利益を第一とする考えは、利己主義と呼ばれる。その台頭が目立つ中で、最近、利他主義と呼ばれる考えが、取り上げられることが多くなった。自分より、他人を優先する考えが、物珍しくなったからこそ、こんなことに注目が集まる。だが、全てを自分中心に考えることこそ、以前は、奇異なものと映っていた。利己的とか、自己中心とか、そんな言葉は、異常な言動を繰り返す人を、揶揄するために用いられてきた。だが、今や、こんなものは珍しくなく、そんな人々の競い合いを、取り上げることさえ、行われるようになっている。隣の人間など、目に入らない、という人々にとって、それを更に広げた、自分が住む集合住宅、近隣の町、都市、更には、国という単位に対しても、何の関心も抱かない。自分の利益、不利益は、重要な事柄だが、その一方で、他人の不利益には、何の関心もない。ただ、他人が得た利益に関しては、自分のものと比べ、劣っていた場合に、大声をあげる。身勝手と言えば、その通りなのだが、本人は、そんなことは露にも思わず、権利や被害を訴え続ける。このような形では、人々が集まる単位の運営は、大きな困難を伴うものとなる。どんな主義に基づくものでも、多くの人々からなる国は、互いのことを理解しあわなければ、成り立つはずもない。まして、全体の利益を追求する為の、民主主義においては、この傾向は強まる筈である。にも拘らず、今、世界に渦巻いている、不安定な状況は、ほど遠いものとなっている。果たして、何処に向かおうとしているのか。

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11月11日(金)−拒否反応

 不安と期待、入り混じる中で、反応は、大きくぶれる結果となった。確かに、将来を見通すことは難しく、同じ状況でも、正反対の意見が出てくる。経験を積んだ人とて、そんな状態なのだから、経験の少ない人達は、更に悲惨な状況に陥る。その中で、受け入れ拒否の声が上がったのか。
 民主主義の歪曲は、最近、こんな形に現れるようになった。結論を導く為に、多数決を行う訳だが、ほんの僅かでも、上回った方が、全てを受けることとなる。盛り上がりがあればあるほど、結果を受け入れ難い、と思う人が増え、拒否の声が上がるのだろう。だが、民主主義の根幹を成す、この制度に対して、拒絶した瞬間に、非民主的な勢力に、力を貸すことになる。若者の多くは、このことに気付かず、民主主義なのだから、自分の意見は、いつまでも押し通せると、信じているようだ。結果の尊重を、手放した瞬間に、自分の権利も手放すことは、明白な筈なのだが、そう思っていない人が多いのは、ここ数年の傾向に思える。自由も責任も、ごたまぜにする人々は、ここでも、非論理的な意見を、一つ覚えのように展開する。社会とは、とか、世の中は、とか、年長者が戒めても、聞く耳を持たない人間には、届きそうにない。その一方で、喝を入れる人が、減ったことは、この異常事態を、更に強めているように見える。褒めて育てることと、厳しい対応ができない環境が、相俟って、結果的に、放置される若者達が、勝手な行動を続けている訳だが、社会性の欠如だけでなく、最低限の論理も投げ出し、このままだと、あらゆることに争いが起き兼ねない。安定の時代から、混迷の時代への転換は、また、大規模な紛争へと繋がると、年長者は危惧するが、渦中の若者たちは、自己満足を得る為と、争いへと身を投げ入れる。さて、どこかで、歯止めがかかるものか。

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11月10日(木)−拒絶

 何故選ばれたか、についての意見が、喧しくなっている。その一方で、何故選ばれなかった、については、殆ど聞こえてこない。結果の分析については、どちらも重要なものの筈だが、大衆の関心を呼ばないらしく、誰も取り上げようとしない。そうかもしれないが、本当なのだろうか。
 横槍が入り始めてから、国全体が迷走を始め、元々、最終盤は罵倒合戦となる上に、公の機関からの情報となって、異様な事態を招いていた。それが終息宣言を出した瞬間、安心感の広がりを、ほぼ全ての報道が伝えていたが、事後の分析では、これも目論見の一つであり、安心という油断を招いたとの見方もある。だが、根底にあるのは、何故、彼女を選ばせたくないのか、何故、彼女を選ばなかったのか、という疑問への答えではないか。穿った見方をすれば、女性である、という一点が全てと思える。もうすぐ席をゆずる人が、最初に選ばれた時も、その組織での競争相手は、彼女だった。その時の選択は、究極とも言われ、女を選ぶか、黒人を選ぶか、などと裏では言われたものだ。結果は、人種の選択が上回り、性別の選択は排除された。今回は、更に厳しい選択を迫られた、と言われているが、現実には、前の時と同じ判断が下された。この問題は、予想以上に深刻であり、女性解放の先頭を行くと言われる国でさえ、未だに、解決を迎えられぬ状況にある。特に、難しいと思われるのは、同性による拒絶であり、その理由は様々だろうが、表で言われているように、綺麗事では片付かない、ドロドロとした問題が、横たわっているのだろう。生物学的な差異は、歴然とする中で、様々な努力を重ね、進出を果たし続けてくる中で、一部の成功者と、それ以外の人々の間には、埋められぬ溝が、はっきりと表れている。性別による差より、個体差の方が、遥かに大きいのは、誰もが認めるところだろうが、それを埋める為の手立ては、新たな差別を招くということが、こんな社会現象の原因となっているようだ。

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11月9日(水)−糾弾

 ああ、また評論家達が、騒いでいるな、と思った人が多いのではないか。芸術を主張した展示物が、焼け落ちた事件で、死者までもが出たのは、本当に悲惨なことだが、それに関して、憶測を交えて、様々に意見を述べる。これ自体に、悪いことなど何もない、と思っているようだが。
 責任問題を取り上げる姿勢には、何も悪いことはないに違いないのだが、現時点で、誰の責任かを問うことには、明確に抵抗を覚える。確かに、無知による事件なのだろうが、だからと言って、責め立てることが、それ程重要とも思えない。思慮の足らない行動に、厳しい批判が浴びせられるのも、ごく当然のことなのだが、しかし、こんなにまでする必要があるか、同意できない。ただ、現時点では、これらの動きに、反対を表明すれば、まるで犯罪者かの如く、勢いを増した人々から、罵声を浴びせられる。難しい時代になったものだ、などと思うが、これとても、騒ぎに加わる人々には、何の意味だか、分かる筈もないだろう。何事にも、責任が伴うものだとは、ごく当然のことだが、自由を謳歌し、主張を掲げてきた人々に、この間までは、応援をしてきた人々が、手の平を返すように、厳しい言葉を投げつける。確かに、無知が招いた事件である。だが、その無知に対して、応援者達は、どんな態度をとってきたか。また、その責任は、どうだろうか。そんなことを考えてしまう。評論家は、その代表のようなものであり、彼らは、常に標的を探している。そんな連中が、声高に訴えることに、耳を傾ける必要はない。それより、各人が冷静に、物事を考える方が、無知を減らす役には立つものだ。騒ぎたい人が、そんなことに気が向くことは、まずありえない。

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11月8日(火)−指弾

 悪事を働いたのだから、罰を受けるのは当然である。という考えに、異論を唱える人は居ない。だが、権力にある人間かどうかで、判断が異なるのは何故だろう。隣の国の、大統領への批判の高まりは、異常とも思える事態に至り、退陣を求めることは、国全体に広がっているように見える。
 ただ、あの国のこれまでのやり方を見ると、徹底攻撃が常道で、それにより、批判の的となった人が、自らの命を絶ったことも、度々あった。今回の標的は、そこまで弱い人間ではないだろうが、それにしても、実質的な痛手だけでなく、心の奥底までも侵そうとする、極端なやり方には、嫌悪さえ催される。悪事がいけないことは、当然のことだが、それを批判する声の中には、同類とも思える人々の影が見える。多くは、自らの努力で勝ち取った地位であり、それにより得た力だが、その周囲でおこぼれを強請る人々は、大した努力もなしに、権力を手に入れようと躍起になる。その際に、周囲の人間を陥れるのも、常道の一つだけに、しっぺ返しを受けるのも、やむを得ないのだろう。ただ、本当の権力者達は、取り巻きの連中とは異なり、それなりの成果を得て、登りつめた結果であり、取り巻くゴロツキと一緒にしては、いけないと思う。確かに、暴利を貪ろうと近づいた人の、真意を見抜けなかった責任は、あるに違いないが、だからと言って、退陣を要求したとしても、何の意味も成さないと思う。普段からあった、不平不満の表れと言えば、その通りだし、その程度の人間が、声を荒げているだけのこと、と見ることもできる。彼方に比べて、大人しいと言われる、こちらの人間達も、最近は、声を出すようになったと言われる。だが、その中心に居る人の多くは、例の、不平不満の捌け口として、権力批判を繰り返した、あの世代の人々なのだ。相変わらずの状況に、冷ややかな目を向けるしかないが、だからと言って、今の混乱を、よしとするわけでもない。

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11月7日(月)−猫の目

 生き残りを図る、という掛け声が、巷に溢れている。停滞や閉塞が実感され、更なる悪化が危惧される中で、組織の存続を目指す為に、どんな方法が考えられるか、多くの人が心を砕いている。だが、その騒動を、冷めた気持ちで眺めることが多い。変化への対応を、強調する程、付け焼き刃の感は否めない。
 確かに、安定している時代とはいえ、変化が消えることはない。旧態依然としていては、変化への対応が遅れ、取り返しのつかない状況に追い込まれる、と戦々恐々とする人々は、小さなものも、見逃すまいと躍起になる。だが、変化は一方向に限ったものでなく、方向も大きさも、変幻自在と思える。その中で、細やかな対応を施せば、現場はあらゆる方向に振り回され、落ち着くことができない。これでは、じっくりと計画を練ることもできない、との悲鳴が聞こえてくるが、実際には、場当たり的な対応が求められ、猫の目の如く、日々変化が起こる。重要なことは、先見性にある筈だが、場当たりや付け焼き刃を繰り返すだけでは、好転の兆しさえ、見出せないこととなる。人口減少が、深刻な問題と捉えられ、高齢化の拍車が、更なる問題を招くと言われるが、その対応として、実施されている手立てには、一時の応急手当に過ぎず、問題の解決には、程遠い状況にある。減少は、滅亡へと向かわない限り、ある水準へと向かうだけだし、増えた高齢者も、それに伴い、徐々に減少する。変化が一定方向であったとしても、このくらいのことは、簡単に想像できると思えるが、社会に巣食う劣悪な人々は、濡れ手に粟の状況を作り出そうと、煽り続ける。減少は、学校教育にも影を落とし、統合や閉校など、様々な問題を生じる。ここでも、場当たり的な対応に、奔走する人が居るが、先を見越しているとは、とても思えぬ状況を招く。無駄なばら撒きや、現場の混乱を、招くだけのことなら、止めておいた方が余程いいし、そんなことに頭を使うより、制度自体の変更を含む、根本的な改革を考えるべきだろう。

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