パンチの独り言

(11月14日〜11月20日)
(想定外、摩天楼、外界、信仰、見返り、成長、気にしない)



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11月20日(日)−気にしない

 他人の評価を気にする人が居る。確かに、それが、昇進へと結びつく場合が多く、少しでも、気に入られたい、との思いがあるからだろう。だが、逆に見れば、気にしたからと言って、評価が変わる訳でもなく、気に入られるような行為が、必ずしも、評価へと繋がる訳ではない。
 だとしたら、気にすることは、必ずしも良い結果へと結びつかない、かもしれない。それを、気にすることが、いつの間にか、気に病むようになると、事は難しくなる場合がある。確かに、昇進を目指して、日々の努力を積み重ねる、という人も居るだろう。だが、それが功を奏さず、却って、逆効果を招くとしたら、無意味な行動となるのではないか。気にするな、という上司の言葉も、素直に受け取れず、悩みに沈むのだとしたら、それこそ、元も子もない、ことではないだろうか。何も気にせず、自分のできることを、粛々と行っていくことで、業績を積み上げ、評価へと繋がるのであれば、これほどの幸いはないだろう。だが、人間の気持ちとは、それほどに単純なものでもない。常に、周囲を気にして、彼らからの声掛けを、一々気にする人にとっては、ほんの一言が、気持ちを大きく変えることがある。だが、他人は、その人の気持ちを考えて、声を掛ける訳でもない。だからこそ、気にすることが、いいことへと繋がることは、稀となるのではないか。様々な助言を無視しろ、と言っているのではない。評価という形の、褒め言葉を期待し、それが出ないことを、殊更に気にするのを、止めたらどうか、ということなのだ。本当に、確かな仕事をしていれば、それを、認める人は、自ずと出てくるものである。気にして、気に入ろうとしたからといって、それが現れる訳でもないのだ。

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11月19日(土)−成長

 久しぶりの景色は、高層ビルの林立という風情は、殆ど変わらないと思えたが、その輝きに大きな違いがあるように感じられた。仕事も含め、生活の輝きから来る光には、過剰な煌めきはないが、繁栄を誇示しようと、付け加えられた光には、無駄とも思える煌めきが、感じられた。
 繁栄を継続する為には、成長し続けることが、不可欠であるとの考えには、誤りはないのかもしれない。だが、器の大きさや、対象となる数に、限りがある中では、成長にも、自ずと限界が現れる。その中で、膨れ上がった風船が、弾けるが如くの状況を、経験した国には、無駄な装飾は消え去り、最低限のものを維持することで、到達した繁栄の維持を、図ろうとする努力が、積み重ねられている。そんな国がある一方で、世界には、成長の途上にある国も多く、先人達の経験を糧に、間違いを繰り返さぬように、様々な制限を加えた上で、繁栄の継続を図る。だが、他にはない魅力を備える為には、装飾は不可欠であり、輝きは繁栄や成長の象徴として、過剰な程強調される。その結果は、今までの所、何の問題も生じていないように見えるが、果たして、このままの状況が続くのか、失敗を経験した人々からは、別の見方が出されている。隣の国も、繁栄の象徴として、様々な建物が造られているが、それとて、一部には、完成を待つ中で、廃墟と化したものが出ており、翳りを見せ始めている。様々な説明が為されても、将来への不安の象徴として、その存在は、厳然とした形で聳えており、国の経済さえも、暗い面を露わにし始めている。では、石油による経済成長を、勝ち得てきた国については、どうか。依然として、石油の重要度は変わらないままだが、価格の下落に従い、不安が漂い始め、別の形での成長を目論んで進められている、不動産投資に関しても、早晩、限界が見えてくるように思われる。どんな確実性が期待されるのか、誰にもわからないのだろうが、また、弾けてしまっては、世界恐慌が、起きないとも限らない。

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11月18日(金)−見返り

 感謝されても、されなくても、構わないと思ったかどうか、今となってはわからない。分かる人にだけ、分かってもらえばいい、という考えもあったのだろうが、根が傲慢な国民性の場合、感謝はいつまで待っても出てこず、それより前のことを引き合いに出して、批判を続ける。恨みこそが全てであるが如くに。
 その払拭を図ったのかどうかさえ、今となってはわからない。単なる倫理観からくるものとも見えるし、一方で、施しの一つと見ることもできる。これも、心情としては、困っている人を見たら、というだけのものかもしれず、そこには、何の意図も思惑もない。だが、それをいいことに、こちらの善行は無視し、悪行の数々を忘れぬ為に、教育の場を活用し、人々の洗脳を続ける。馬鹿げたこととも思えるが、実は、そんなものを受けてきた人々は、心から、信じているのだから、不思議なものだ。洗脳という手法の、絶大なる力を見せつけられる気がするが、所詮、外からの目や力は、何の効果も持たない。もともと、受けた恩を忘れぬことは、かなりの困難を伴う。失敗は、他の責任としたいし、成功は、自分の功としたい。そんな心理で動く限り、他人からの施しは、忘れるべきものであり、感謝は微塵も感じるべきではない。となれば、こちらも、何もしなければいい、と思うのは、まだ、修行が足りないのかもしれない。施しも、見返りを求めるのではなく、心からのものとなれば、何も起きずとも、何かしらの反応がありさえすれば、それで十分だとなる。こんな調子で、成長を続けた時代も、また、下り坂となってもなお、施しを絶やすことなく継続する。いつの日にか、などと考えなければ、特に問題も起きないのだろう。

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11月17日(木)−信仰

 信じるものの違いは、区別を生じ、それが差別へと繋がることが多い。信仰の対象となると、単なる思い付きとは異なり、そこに何らかの論理が採り入れられ、区別は一段と際立つものとなる。他から強制された場合、多くは拒絶という結果となり、それが差別へと結びつく。歴史は、こんな様子を様々に伝える。
 宗教に寛容と言われる国でも、嘗ては、様々な弾圧を行ってきた。異教徒という言葉には、そんな思いが込められ、排除へと繋がるが、人間の存在をも脅かす、そんな圧力へと変わった歴史も、数多くある。これが不寛容な国となると、その弾圧の極まりは、大量虐殺となり、歴史上の汚点として残るものもある。だが、それはそれで、独裁者による虐殺や、戦争での虐殺と比べると、扱いは、かなり軽くなっているように見える。個人の欲望からくるものと違い、信仰によるものは、全く別の根拠を持つから、とはよく説明で使われることだが、果たして、そうなのかと思えることも多い。所詮、人間の欲が優先され、信仰の場でも、そんなことが度々起きている。聖教者などと呼ばれた人々の、悪行などが伝えられると、そこには、宗教に隠された、人間の欲望が見え隠れし、この世界を、特別扱いにすることへの、違和感を強めていく。こんな流れの中で、様々な信仰が入り乱れ、様々に変遷を繰り返したものが、現代社会の状況なのではないか。こうなれば、互いを認め合い、許容することこそが、互いの存在を保つ為の、唯一の方法と思えてくる。ただ、そうなってくると、様々な制限をかけるものほど、難しい状況に陥るようだ。信仰の対象は、常に、人々を赦す為にあるようだが、それとても、その条件を設定した途端に、厳しさを増す。施しを説いたり、社会への貢献を説くことからは、人間の欲望の闇の部分を、見るような気分もするが、それも、一つの条件となっているのだろう。

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11月16日(水)−外界

 別の土地に行くと、自分が育った環境の素晴らしさに、気付かされる。普段は、何も感じないのに、別の世界を覗いた途端に、強く感じることがあるのだ。何気なく見ていたものが、当たり前ではなく、何らかの理由を持って、そこにあることに気付く。それでも、重要性には、まだ気付いていない。
 特に、若い世代は、あれこれと文句をつけ、不満を捲し立てる。だが、彼らの多くは、他の世界を見たこともなく、また、自分の世界の素晴らしさに、気付く機会を得ない。そんな中で、偶々見ることができた、別の世界は、それまでに抱いてきた期待とは、大きく異なったものであり、密かに抱いてきた希望も、脆くも崩れてしまう。その時点で、元の世界を思い出せば、何が大切だったのかも、すぐに気付けるかもしれない。だが、多くの若者達は、そんな機会に気付かず、自分の夢を否定せず、儚いものを追いかけようとする。結果は、ただ悲惨となるが、この原因と責任は、どこにあるのだろう。よく考えれば、簡単に気付けることでさえ、目を向けようとせず、受け入れないままとなる。これほどの不幸は、そう簡単には見つからず、何をしているのかと、見守る人々もいる。だが、そこで的確な助言をするより、ただ、見守るだけで終わる人が、多いのではないだろうか。気付いたとしても、それを伝えなければ、何もならない。にも拘らず、そのまま、見て見ぬ振りを続けるのは、やはり、人間関係の構築の難しさを、強く感じさせる。どうすればいいのかは、はっきりと見えていたとしても、それを実行に移せるかどうかが、実は肝心なことなのだ。さて、そんな気持ちを保てるか、まだまだ、難しいことが山積しているようだ。

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11月15日(火)−摩天楼

 荒廃した土地の只中に、背の高いビル群が聳え立つ。異様な光景とも思えるが、そんな場所は、世界を見渡せば、指折り数えられる程にある。繁栄の象徴なのだろうが、何かが違っているような感覚を抱く。気候や自然の豊かさを、享受しながら育った土地から、与えられるものとの違いが、そうさせる。
 年端、人が作り上げたものだから、人工的であるのは、当然のことに違いない。それでも、徐々に力を付けてきた所と、ある日を境に、一気に繁栄へと結びついた場所では、様子が大きく異なるようだ。ここのビル群は、安定した地盤の上に築かれてきたからか、奇抜な外観を示したものが多く、単に高さを競うだけでなく、姿形の異様さを、競い合っているように思えてくる。それに、不動産投資以外に、これといった産業がない中で、ビルが作り出す空間には、何が入っているのかと、心配にもなってくる。確かに、投資先を探し続ける、大金持ち達にとって、次々に迫り上がるビルの、建築への投資は、大きな対象となっており、行先が定まらぬ先進国とは、全く違った状況は、魅力的なものに映るだろう。だが、建てられた中身には、何があるのだろう。何かの拠点を形成するにしても、中心となる産業がなければ、ただの箱にしかならない。だが、繁栄は続き、さらに多くの金が、世界各地から集まってくる。経済活動を支える拠点、と言えなくもないが、どうもしっくりとこない。特に、人為的な企てが、様々な形で加えられた結果としての、都市にとっては、こんな経過を辿るのも、当然のことなのかもしれない。ただ、こんな場所に住みたいか、と問われれば、やはり「否」と答えるしかない。どんなに活発な動きがあったとしても、自然という大切なものを欠いた世界は、魅力を感じさせない。

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11月14日(月)−想定外

 仕事の関係で、遠出をしている。今回は、ネット環境は整っているので、こういうことにも、不自由は感じないが、その他諸々のことに関しては、自由がきかない。何故、こんなに融通が利かないのか、と思ったりするが、こういうことを、当然のこととしてこなす人からしたら、できない人の事情は不明となる。
 それにしても、あらゆることが混乱を来している。それでも、おそらく、全体としては、無事に済んだとなるだろうから、不思議なものだ。予定は、4日間であったにも関わらず、実際には、2日間に短縮された。遠出だけに、旅程などを決めるにも、余裕が必要となるから、急な変更には、結局対応できない。つまり、外された日にちは、なかったことになるだけのことだ。それで、良しとするわけだから、どうにもならない、と考えるのは、こちらだけのことであり、主催者は、何も問題はない、との結論を導く。かなり厳密に計画された行事を、当然の如く行ってきた人間にとっては、このような事態は、まさに想定外となる。だが、そんなことは、相手には通じない。まあ、仕方がないと諦めるが、それが通用しない人間もおり、当然、書類の処理において、問題が起きれば、二進も三進も行かなくなる。どうしたものかと、途方にくれたとしても、相手は、そんなことには御構い無し、ただ、順調に行事が始まり、終わったことで、満足感に浸る訳だ。こうなると、そんなことを気にしても、仕方のないこととなり、諦めの境地となる。異文化の交流とは、まさにこのような状態であり、ここから、何が起きるのか、楽しみでもあり、不安でもあるものだ。

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