パンチの独り言

(11月21日〜11月27日)
(詐欺師、感情論、若返り、覆面、危機一髪、放任主義、責任逃れ)



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11月27日(日)−責任逃れ

 意欲の無い者に、機会を与えた場合、どんな結果を招くのだろう。企業などの組織では、そんな事態に陥ることは少ないだろうが、教育現場では、深刻な事態を招いているようだ。進学率の向上は、豊かな時代の表れであり、それを国の格を表すものと見るのだが、様子は違う。
 教育制度が整えられ、皆に機会が与えられるようになることに、異論を唱える人は居ない。貧富の差なく、皆が、人生を豊かにする機会を、得られる環境は、社会の成熟を示すものの一つとなる。発展途上では、確かに、そのように見えていたが、成長が止まり、停滞や閉塞といった感覚が、社会全体を満たし始めると、様子が徐々に変わってくる。上を目指そうとする動きも、頭打ちとなり、現状維持を心掛けると、人は意欲を失い始める。外からの刺激に関係なく、意欲を示す資質を持つ人々にとっては、何の変化も無いことなのだが、人参を必要とする人達には、こんな時代は、精一杯の努力より、卑近な目標を達成できる程度の、適度の努力で十分と見える。そんな人々が、進学の機会を得て、上の段階に向かっても、それから先の意欲は、既に失せていることとなる。そんな人々を目の当たりにして、多くの教員は戸惑いを覚えているようだが、失いかけた意欲を、取り戻させようとするのは、容易ではない。だから、かもしれないが、多くの人々は、笛吹けども踊らず、の人を相手に、新たな負荷をかけようともせず、放置、放任を続ける。結果は、既に、社会全体に蔓延しているが、能力の無い人々が、増え続けて、停滞が下降へと変わり始めている。その責任は、確かに、次代を担う人々にあるが、彼らに気付かせることなく、現状維持を目指す、教える立場にある人々にもある。面倒だからと、放っておけば、どうなるかは明らかなのに、それを続ける人に、責任感は、全くないのだろう。

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11月26日(土)−放任主義

 若者の意欲減退が、深刻な問題となっている。だが、この問題に対して、どんな反応を示すかも、実は、より深刻な問題なのではないか。一部は、解消を目指し、対策を講じているが、多くは、現状を受け入れ、問題解決ではなく、無視するような対応を、続けているようだ。
 意欲減退を、問題視するような声が出ると、周知の事柄であり、新たな問題ではないという、否定的な意見が返ってくる。だが、その深刻さは、その存在にあるのではなく、割合の増加にあることに、否定派は、見て見ぬ振りを続けるだけで、本質を理解しようとする気もない。やる気のない若者は、いつの時代にも居たが、最近は、その割合が増えるだけでなく、いわゆる偏差値で括られる、上位層にまで、及ぶことになっているのだ。閉塞感との関連は、一概には言えないだろうが、平和で安定した時代の継続が、何らかの影響を及ぼしていることは、確かだろう。ある程度の努力があれば、ある到達点に達するから、それで十分とする考えは、多くの人の心に居座り、更なる努力を惜しむ傾向は、強まり続けている。勤勉とは、一時のものではなく、継続こそ力、というべきものであり、その気持ちを持ち続けることが、才能を活かすことへも繋がる。だが、卑近な目標に、満足感を得られる時代には、多くが、その気を失ってしまい、いとも簡単に、心が折れ、やる気を無くす、こととなる。だが、本来の能力を十分に活かすには、止まることなく、走り続けることが不可欠で、その継続から、生まれる力は、見方によっては、無限のものとなるようにも感じられる。その為には、意欲を持ち続けることは、最低限の要素となり、その中での、努力こそが力となる。現状は、程遠い状態にあり、当事者達は、安易な道を選び続ける。これを放置する人々には、何の意図も無いだろうが、放置することへの責任は、確かにあると思う。

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11月25日(金)−危機一髪

 突然、サイト閉鎖の知らせが届いた。禁止事項との理由が掲げてあり、はて、と考えたものの、すぐには思い付かなかった。だが、この無料サービスには、特殊な制限がかけられていた。管理サイトの記述には、各ウェブサイトでは、先頭ページを頻繁に更新することが、指示されている。
 それぞれのサービスにおいて、規則を決めるのは、設立者であったり、管理者であったりする。彼らの決めたことは、それを受け入れて、サービスの利用を決めた利用者は、厳守することが求められる。始め、このサイトの説明を読んだ時に、不思議な規則だな、と思ったのは、先頭ページの更新に関するもので、180日間、それが行われなければ、閉鎖するとあった。他の場所を、幾ら頻繁に更新していても、先頭が変わらなければ、規則違反となる訳だ。管理する側からは、監視する場所を定めることができ、無駄を減らすことができるから、こういうものを設定したのだろう。だが、利用する側は、つい、日々の更新に紛れて、忘れてしまうことがある。今回、まさにそのことが起きた訳で、一瞬の驚きの後、理由に思い当たり、早速、復旧の手続きを始めた。そこにある注意書きには、それそれの段階で、数日必要となるとあったが、結局、素早い対応がなされ、利用できなかったのは、ほんの数時間で済んだ。今回は、偶々、こちらが気づくのが早く、大事にならずに済んだが、今後は気を付けねばならない。無料とは、色々と便利なものだが、その分、制限がかけられることがある。これに対して、権利主張をする人も居るだろうが、それは、論外というものだろう。今回の失敗を反省し、今後は、注意していこうと思う。折角の機会なのだから、そのくらいのことは、当然なのだ。

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11月24日(木)−覆面

 独り言へのアクセスは、徐々に減り始め、最後の引越しを機会に、検索エンジンからも、消えてしまった。そうなれば、書く意味はなくなる、と言えなくもないが、依然として、書き続けているのには、理由がある。匿名性を狙う訳ではないが、公に通じる名前では、書けないことがあるからだ。
 だからと言って、嘘を書いたり、騙したりする、という意味ではない。正しいことを書くことに、何の問題もない、と言えない世の中だからだ。立場を考えて、発言するように、などとは、世間でよく言われることだが、にも拘らず、暴言が止まらぬ、無能な政治家は、居なくなりそうもない。だが、彼らを選んだのは、自分達であり、その責任を放棄して、勝手な批判を続けるのは、どうかと思う。誰もが、発信できるようになったことで、怪しげな話が急増し、デマが横行することとなった。だから、こういう仕組みを無くすべき、などと言うつもりは、毛頭ない。匿名だから、勝手な発言ができる、と思う人間は、所詮、その程度の器であり、塵に過ぎないのだ。そうならないように、自らを律することが、より大切になっていると思う。だが、巷を見渡せば、匿名でなくとも、注目された途端に、偉そうな発言を繰り返し、根拠の無いものまで、平気で喋るのはどうか。こちらとしては、公の立場では無いものの、正当な発言を、貫く姿勢を曲げるつもりは無い。もう少し注目してくれても、と思っても、検索エンジンには、感情が込められる筈もなく、期待は無い。一方で、仕事上のウェブサイトに関しては、このところ、不穏な動きがあるような、気がしている。組織内からのアクセスが、頻繁に見られるが、その動きが、如何にも怪しげなのだ。元々、足を引っ張るだけの人間や、貶めようと画策する人間が、どの組織にも居るものだ。ここでも、そんな輩が、うろついているらしい。

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11月23日(水)−若返り

 世の中では、閉塞感に満ちた現状の打破に、若返りを望む声がある。旧態依然とする組織に、楔を入れる為には、それまでとは全く異なる考えを持つ人間を、登用する必要がある、というのが、その第一の理由のようだ。だが、折角の大転換も、殆ど失敗の連続となり、閉塞感が更に深まっている。
 大転換と見做されたが、現実には、手っ取り早いだけであり、安易な思い付きに過ぎなかった。その為、登用した若手が、独自の路線を編み出しても、組織はその変化に追いつけず、独り善がりに終わることが多い。この状況を、意外と思う人も多いだろうが、実際には、予想通りと見る方が正しいようだ。旧態依然からの脱却に、違う年代を頼りとしたことに、間違いがある訳ではないが、若ければいい、という考えが、安易だったのだろう。年代に無関係に、別の考えを持つ人間が居て、それらの人々を登用すれば、打開の可能性は高まる。若返りに拘らず、従来の路線から外れた人を、選び出せば、少しは違った様相が期待できる。但し、ここでも同じことが言えて、路線を外す、異分子を担ぎ出せばいい、という訳ではない。結局、どの路線に乗り換えるか、ある程度の見込みが立たないと、何も始まらないのだ。ここに、新たな路線を歩む為の、重要な要素があるようだ。ただ、多くの組織は、そのことに気付かず、手っ取り早さだけで、目先を誤魔化してしまう。それで、何が解決するのか、何も解決はしない。何れにしても、何をどうするのか、考えもなく、変革というものに、囚われているだけでは、何も起きない。目的をはっきりと示し、それに見合う人間を、選び出すことに、もっと力を入れない限り、現状の打破は、実現できそうにない。年功序列という形で、年代に縛られてきたことへの反発から、若返りに魅力を感じるようでは、結局、何も得られないのだ。

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11月22日(火)−感情論

 論理が通用しない時代に、何故、人々は喜びを表すのだろう。一つには、自分の意見に賛同して貰える、という喜びがあり、もう一つには、感情に訴えれば、解って貰えるという喜びがある。当然のことと、受け取る向きが多いことも、納得できる理由となっているが、どこかがおかしい。
 何が変なのか。ごく単純なことだが、喜びに浸る人々には、気付けないものらしい。非論理的な意見でも、感情に訴えれば、通用するものとなる、という状況は、喜びの源泉となるが、その一方で、論理に欠けるだけに、受け入れられるかどうかは、時の運とも言える。だから、以前は賛同者が居たのに、逆風が吹き始めると、皆が去って行き、疎外感を強くする。確実な道を歩む為に、論理を磨くことが第一と習った時代と違い、今は、まず、どんなことをしてでも、賛同者を集めることが第一となる。相互理解も、意見の中身ではなく、そこに漂う感情に対するものとなり、起伏の激しい個人の感情が、反映される不安定なものとなる。手の平を返したり、豹変したり、忙しくなるのも当然で、不安定が強まれば、心の不安も激しくなる。その中で、感情を揺さぶることが、重要な手法の一つとなり、それに振り回される人の数は、驚くほど増えている。大衆主義の根幹は、こんな環境を築くことにあり、論理より感情を優先させることで、身近な存在と見せることが、肝心となるようだ。退位問題が、有識者の意見を集める形で、論じられる中、ある政治家が、世論と著しく異なる意見、と決めつけていたが、今の世論の殆どが、感情中心に動くことを考えれば、愚かな意見と見るべきではないか。政治家が、大衆に擦り寄るご時世には、まともな政策が出る筈もないのは、火を見るより明らかであり、それに気付かぬ人間が、居座っている現状は、やはり世も末と見るべきと思う。ここでも、正論は、通用しないものと片付けられる。

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11月21日(月)−詐欺師

 何故、人は好き嫌いを、口にするのだろう。良い悪いではなく、好き嫌いで判断することは、如何にも単純なことに思える。だが、その結果が、どのように展開するかについて、思いを馳せてみると、単純な決断が、複雑な結果を招くことに、気付ける。決断した後では、まさに、遅すぎるのだが。
 好悪を基準としないと、あれ程注意を受け続けてきたのに、何故、人間は、そちらへと流れてしまうのか。冷静な判断は、何事にも、確実な道を保証するように、思えるけれども、その一方で、好き嫌いで動く人々から、疎外されることとなる。いじめが問題視される時代にも、冷静な判断を下す人々は、他人より強く映るから、極端な疎外を受けても、誰も、いじめとは見てくれない。差別と言えば、それまでのことだが、強い心の持ち主は、そんなに酷い扱いを受けても、自分の考えを曲げない。ごく簡単なことだが、正しい主張をする限り、答えを変える必要はない。だが、最近の風潮は、好悪が優先され、それに基づく判断が、尊重されることになり、正誤は、問われないことになる。その上、判断は一時のことであり、その後の展開は、期待とは全く異なるものと、なることの方が多いようだ。となれば、好かれるような言動を繰り返し、選ばれて仕舞えば、別の選択を下す。裏切りと批判されても、権力を握れば、こちらのもの、という訳だ。しかし、倫理も道徳もないではないか。始めの、良い悪いで判断する人にとっては、正当な振る舞いが重要であり、裏切りなど、以ての外なのである。それが、何でもありの人に、勝つことは、今の時代は難しい。餌をばら撒き、甘い話を流す。こんな手立てを講じる人々に、真面目な取り組みが、勝てる筈もないのだ。何故なら、愚かな大衆は、騙されることを承知していようが、いまいが、誘惑されるものだから、だ。

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