パンチの独り言

(11月28日〜12月4日)
(社会主義、不安定、アホな上司、理解不足、衆人環視、読み書き、機会剥奪)



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12月4日(日)−機会剥奪

 弱者保護の話は、何度も書いている。強い印象を抱くのは、社会全体に、それが行き渡っているというより、何処かが、歪曲された現状に、違和感を覚えているからだ。弱者が保護されるべきかは、議論の余地の無い所だが、現代社会では、それを装う人々の姿が、目についてしまう。
 強弱で表せば、ほぼ全ての人々は、弱者に属する。頂点に君臨するのは、ほんの一握りの人であり、極端に言えば、一人だけが、本当の頂点に立てるからだ。だが、社会が問題として扱う、弱者の問題は、そんな関係から生まれたものでは無い。何かしらの条件で、劣っていることを、その分類の基準とする。これは、始めに書いたこととは異なるものだ。客観的な基準であるように見えて、実は、主観的なものでも通用する。劣っている、という表現は、多くの人々が忌避するが、優劣で表すことが、分かり易さを強め、多用されるが、時に、乱用へと繋がる。今の世の中に溢れる、捻じ曲げられた現状は、そんな背景から生まれたものだろう。主観の恐ろしさは、他人の理解を必要とせず、独り善がりの考えでも、通用するということだ。本来、社会全体の秩序や道徳観から生まれた、法律などの規制に関しては、このやり方では成立しない筈だが、最近は、ごく当然の権利として、認められているように感じる。ただ、これらの考えは、やはり、弱者を対象としたものであり、強い立場にあると、認められる人々には、当てはまらない。この辺りの事情が、全体の状況を歪め、理解し難い状態へと変える。結果は、強い立場にある人間程、不当な扱いを受け、時に、制裁と呼ばれるものに、強く悩まされる。閉塞感が強まる背景には、こんな事情もあるのではないか。確かな仕事をし、組織を支えるべき人々が、排除される環境では、弱者ばかりが生き残り、力を衰えさせていく。良識は通用せず、権利主張が蔓延る中では、力を養う機会さえ、奪われているのだ。

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12月3日(土)−読み書き

 ものを書く作業は、何の為にあるのだろう。始めに来るのは、覚え書き、備忘録だろうか。自分の為、は何よりも大切なことであり、書くことで記録に留めようとする。だが、一部の人にとっては、それだけではない。他人に読んで貰い、何かを伝えるという目的を、持つ人々が居る。
 書く行為も大切なことだろうが、それ以上に大切なものは、読む行為ではないか。読むことで、新しい情報を手に入れ、それを活用して、何事かを成してきた人は、世の中に溢れる程居るに違いない。だが、その肝心の手立てを、手放してしまった人も、現代社会には溢れる程居るようだ。読むことを止め、書くこともせず、どんな情報交換があるかと言えば、おそらく、話すことと聞くことが残る。記録として考えれば、話すことや聞くことは、一時のものであり、録音という手段を使わぬ限り、残すことはできない。録音したとしても、再生する代わりに、文字の形で記録に残せば、長い期間にも対応できる。そんなことを考えると、音声での記録は、臨場感を味わえること以外には、情報収集においては、扱いにくいものとなる。このような事情からすれば、読み書きでは、文字という媒体を用いることで、様々な利点を手に入れることができる。ただ、それを面倒と思えば、やはり、一時のものと雖も、音声媒体に走る気持ちが起こる。時間の使い方は、人それぞれで、有効に使うことを、常に目指す人もいれば、そんなことを、全く気にかけない人も居る。空いた時間に、読み物を手に取る人がいれば、音声でないものの、スマホを手に取る人も居る。どちらが有用か、などと論じるつもりはないが、様々な手段を手にすることができる状況は、実は、非常に重要なものではないか。一つのことに拘り、他を捨てることは、かなりの損失を伴う。ただ、多くの人は、こんなことを考えもせず、手近な便利さに酔い痴れているようだ。

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12月2日(金)−衆人環視

 筋を通すことは、本来、何の問題も起こさず、粛々と行われるものだ。通っていさえすれば、誰もが論理を理解し、その流れに従うことで、事が成立するだけでなく、確かな結果が得られる。だが、世の中に、乱れが目立ち始め、混迷の時代とまで呼ばれると、事態は怪しくなり始める。
 横車を押す人が居れば、被害を受けた人だけでなく、周囲から厳しい意見が飛び、抑え込む仕組みが働いていた。だが、最近は、状況が大きく異なってきている。例えば、上に立つ人間が、過度の圧力で、下を押さえつけようとする動きは、非常識が罷り通ることを、表しており、それを止める為に、組織は役立たず、外部に救いを求めるのは、本来の組織の姿からすると、明らかに間違ったものとなっている。だから、告発などが頻発するのは、当然なのかもしれないが、告発の重要性を論じたり、その主の勇気を讃えるなど、本質を見ようとしていない。本来であれば、過ちを犯す人々に対して、それを指摘する声が、近くから起きるべきであり、それを、力で押さえつけようとする動きに対しても、強い反発が起きる筈なのだ。それがうまくできていない現状は、一部の人々の非常識が、最も大きな要因だが、それを放置する組織にも、同様の責任がある。寛容さが重視された時代には、気付きを期待する暗黙の了解が、組織の中に満ちていた。そんな雰囲気では、非常識を掲げる人々は、気まずさを抱かざるを得ず、手を引いたり、方針を変更するしかない状況に、追い込まれていた。だが、それが罷り通る時代には、力を持つ人に擦り寄る人の応援を得て、横車を押し続けられる。馬鹿の掛け算は、愚かさを一気に増す結果を招き、組織の腐敗が急速に強まる。誰かが声を上げねば、横暴な行為は、当然のように続けられ、被害者の数を増すだけだ。では、誰が、その任を引き受けるのか。

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12月1日(木)−理解不足

 遺伝子組換え、という言葉を聞いたことのない人は、居ないと思う。では、ゲノム編集、はどうだろう。どこかで聞いたことがある、という人が居るかもしれないが、珍しいのではないか。マスメディアで取り上げられることも少なく、その技術に対する賛否も、判断がつかない。
 先月の読んだ本で、紹介したのだが、二つの紹介本とも、「衝撃」という言葉が、多くの場所に鏤められていた。特に強調されていたのは、従来の遺伝子組換えとは、全く違う技術であり、結果も大きく異なる、という点だ。報道関係者や経済活動に関わる人々にとって、組換えによって作り出されたものへの、大衆の反応は、総じて芳しいものでなく、折角の新技術が、無駄になっているように感じられるのと共に、ここでも「不安」という合言葉が、煽りを強める役を果たしているように見える。だから、ということもあり、遺伝子組換えのような不確実さは、ゲノム編集には全くなく、心配は要らないのだと、結論付けようとする意図が、強く感じられる。だが、どれ程正確に行われようとも、遺伝子を操作することには変わりがなく、そのことへの「不安」を口にする人には、何の意味も成さない論理だろう。一方で、いかに優れた技術であるかを、二つの本とも、強く主張していたが、こちらについても、著した人々の理解不足が否めない。技術そのものに対する理解が足らない方に関しては、議論する価値も見出せないが、もう一方も、何をどうするのかを、それなりの水準で解説できているものの、それを使って何ができるのか、という点に関しては、関係者の主張を鵜呑みにするのみで、過大評価の連続となっていた。科学研究の内容を、分かり易く伝える人材が、強く求められる時代だが、これは、理解力だけで成立するものではない。技術を理解できても、それが応用されることへの理解が、足らないのであれば、結局は、全体が分かっている訳ではなく、誤解を招くだけのことだ。遺伝子組換えの二の舞となることは、殆ど必至と思える。

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11月30日(水)−アホな上司

 我武者羅に働く人を、見かけなくなった。でも、無理をせず、できる範囲で、との考えからではなく、決められた範囲、というものに、守られているようだ。残業に関する世相は、雇う側に、不利に働いており、組織の規則に縛られる人を、保護しようと働いているように見える。
 だが、この状況は、かなり大きな誤解に基づいているのではないか。残業を強いられる、と訴える人の多くは、ダラダラと作業をこなすだけで、締め切りさえ、守ることができない。何の思慮もなく、作業を繰り返せば、間違いや失敗が起こりかねないが、そのことに気付く気配もない。終わらない仕事に、残業を要求するが、それは、時間内に終えられない程の、仕事量を強いられているから、となる。実は、自らの無能を、組織の責任へと転嫁しているだけではないか。もっと、後先考えず、我武者羅に働いて欲しいと、下の人間に対して、思う人は多いだろう。だが、その一方で、上に居座る人々の状況はどうか。こちらは、片付かない部下達の仕事の、始末をつけようと、躍起になり、無理を承知で働く。だが、こちらが、我武者羅をしてしまっては、組織は混乱を来す。後先を考え、計画を練って、行動に移すことこそ、管理者に求められる、資質となるからだ。一部には、何かを決定することこそ、管理者の責務との意見があるが、この決定には、事前に十分に練られた計画が、あってこそと言われる。脇目も振らず、ただ、闇雲に走る指導者には、ついていけないと思うのも、当然の考えだが、そういう人が上に立った組織は、悲惨な展開しか起き得ない。多くの人が、こんな上司に、苦労した経験を持つだろう。上がアホやから、とは、昔のプロの投手の発言だが、こんな思いを抱く人は、おそらく、数え切れない程居るだろう。アホにも馬鹿にも、付ける薬はないから、居なくなるまで待つしかないのだが。

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11月29日(火)−不安定

 信頼を勝ち得る為に、何が必要なのだろう。怪しげな話を続ける評論家は、世論が望む筋道に、巧みに乗りさえすれば、引く手数多となる。だが、その話の真偽は、不確かなままであり、たとえ、期待通りだとしても、信頼とは程遠い状況に留まる。では、正しい話なら、勝ち得るとなるか。
 こちらに関しては、同じ筋書きで、眺めることができる。大衆の望む話をする専門家は、数的には信頼を勝ち得たように思えるが、その中身に関しては、嘘が鏤められており、仲間からは、厳しい批判を受ける。では、その批判の主達はと言えば、不確定な話は、そのままに説明を続けるから、大衆からは、分かり難いとか、嘘を吐いているとか、厳しい声を浴びせられる。どちらが正しいのかは、敢えて説明する必要もないのだが、大衆は、全く別の見方をする。期待という、危うげなものを頼りに、それに沿うものだけを、選び出そうとするのだ。その結果は、間違ったことを強く信じ、誤りを平気で口にする。その大本となるのは、感情的なものばかりで、そうとなれば、反論は難しくなるだけだ。人の感情は、常に制御不能であり、触らぬことが、重要とされる場合さえある。ところが、今の世論は、まさに、それが中心に据えられており、どちらに向くかは、予想できないものとなる。感情と欲望という、心が描く、身勝手な図柄に関しては、他人が入り込む余地はなく、個人的なものに過ぎない。にも拘らず、それが世論形成へと繋がるのでは、手の施しようがない。迎合するのが一番との見方もあるが、その対象が、不確かに、大きくぶれる中では、時に、運が向くこともあろうが、多くの場合は、振り回された挙句に、結果を得られぬままとなることとなる。安定な時代から、このような形の、不安定な時代に入ることで、混迷は、全く違った形で、表に現れ始めてきた。不確定とは違う、確定を望む不安定は、何とも御し難いもののようだ。

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11月28日(月)−社会主義

 共産とか、社会とか、国が拠り所にする、主義について、歴史が物語るのは、それらが抱える矛盾なのだろう。理想主義の如く扱われ、理想郷として、多くの人々が惹きつけられたものの、その後の変遷は、悲惨なものとして、印象付けられる。だが、主義自体の間違いなのだろうか。
 個人を中心とした考えで、国を成立させてきたことは、王や天皇を中心とした、国の形態を変える為に、重要な要因とされてきた。その中で、更に、極端な考え方が導入された国も多く、相互の助け合いや、社会全体の利益を、中心とするものも現れた。だが、それから一世紀を経ることなく、後者の仕組みは、崩壊を始めていた。だが、これは制度や主義の抱える問題、と言うよりも、それを操る人間の問題、とすべきことのようだ。独裁者は、常に、悪の典型のように扱われるが、全てが、それに当てはまるとは限らない。確かに、社会全体の均衡を保つ為に、一部に、歪みが生じることもあり、そこから眺めれば、弾圧的な政治の表れ、と見ることもできる。だが、歪みの主が、どんな行状をしているかを、無視したままに、独裁者の横暴と見做しては、判断を誤ることにもなる。革命が流行したのも、遥か昔のことだが、その最後の英雄とも言われる人物が、ついに、この世を去った。その年齢に驚いた人も居るだろうが、遥か昔なのに、ということは、どんな年齢での革命だったのか、ということだ。その後、国を去った人々からは、批判の声が飛んでいるが、国内からは、正反対の意見が出る。未だに圧政が続いている、と見ることもできるが、果たして、どちらが本当か。共産とか、社会とか、を考えると、実は、この国の成長期の状況は、まさに、それを貫くもののように、思い起こされる。では、そういう国だったのか、と問えば、そうではない。ただ、国民性として、互助や全体主義が、中心にあるだけのことだ。

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