パンチの独り言

(12月5日〜12月11日)
(自己研鑽、芽生え、依存症、非常識、公平化、掬い損ない、まとめ)



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12月11日(日)−まとめ

 正しい情報、という言葉が、飛び交っていた。実態を理解している訳ではないが、「まとめサイト」と呼ばれる場所で、提供されていた情報に、多くの誤りが指摘され、雨後の筍の如く、増え続けていたものの多くが、閉鎖されたとの話がある。管理体制の不備を指摘する声もあり、状況は深刻らしい。
 検索による情報収集と言えば、ネット社会の確立に従い、Google、Yahoo、Gooなどの検索エンジンが、専ら利用されてきた。調べたい言葉を入力し、検索を実行すると、それに関連したウェブページが、列挙されるもので、百科事典を手にすることなく、また、最新の情報までも、手に入れることができる。その便利さから、多くの人々が利用しているが、数多のリストから、正しい情報をまとめることに、苦痛を感じた人がいたのだろう。また、百科事典とは異なり、全般的な網羅より、話題性や速報性を優先することが、断片的な知識の羅列に陥ることとなり、手間を掛けないと、総合的な知識を得ることができない。そんな状況から、ただ単に、検索を確かなものにするだけでなく、数々の記事をまとめて、ある言葉の意味や背景を、理解させようとする動きが出てきた。これを企業活動と捉えると、記事の内容の興味深さや信頼度などから、そこを訪れる人が増えれば、広告収入が増すことへと繋がり、収益の確保ができる。おそらく、そのような背景から、多くの企業が乗り出し、数え切れない程の場が、提供されたのだろう。検索エンジンを使えば、無数にある中から、人気の場を見つけることも難しくない。そんな繋がりから、急成長を遂げた業界も、正しい情報に拘る姿勢より、収益を追求する姿勢が、目立ち始めた頃から、怪しげな情報の流布が、広がったようだ。責任の所在を、論じる声が、報道関係から出ていたが、同じ穴の狢が、何を惚けて、と思った人も多いだろう。ここでも、実は、情報の真偽を見極める力が、重要となる。「まとめ」だからと、一つだけを信じては、いけないということだ。

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12月10日(土)−掬い損ない

 毎年、この日は、ある授賞式が開かれ、最近は、この国でも受賞者が出ることから、何とも言えない喜びに包まれた、雰囲気が漂う。その一方で、浮かれてはいけないとばかり、厳しい意見が出るのも、この時期の風物詩のようなものだ。批判的なことを並べる評論家にとって、注目を浴びる機会なのだ。
 たった一人の受賞者を、殊更に持ち上げ、我が事のように喜ぶのは、確かに、滑稽とも映るけれど、だからと言って、浮かれた気分を吹き飛ばすかの如く、冷水のような批判をぶつけるのは、如何なものだろうか。当人の意見として、まだ成功を手にする前の人々への、弛まぬ支援の必要性が、様々に紹介され、成果主義や競争原理に、心を奪われている人々は、独自の解釈を施そうと、機会を狙っている。論理のすり替えは、彼らの得意とする所で、特に、国の財布を預かる人々の、勝手な解釈に、元々の意見は、疑問を投げかけている。だが、財布の紐は、緩む気配さえ見えない。これとは別に、根本的な問題として、次代を担う人材の育成に、問題があると指摘する人々が居る。教育制度の改革は、その多くが、改悪として槍玉に挙げられ、崩壊しかけた現状に、疑問を投げかける。受賞者達が教育を受けた、半世紀程前の状態と、制度自体に、どの程度の変化があるかは、諸説紛々として、確かな所は見えないが、批判は、明らかな違いがあると、断じている。確かに、若者達の様子には、大きな違いがあるのかもしれない。だが、特異な例としての受賞者達も、その時代に、異端と見られていたことから、単に、現代の若者の大部分が、確実性を好み、無難に留まるからといって、問題がある時代と、断言することはできない。問題は、成果主義や競争原理が、異端を排除する危険性にあり、それによって、将来性のある人材を、見す見す除外し、逃していることにある。だとしたら、こちらの批判も、的を外し、肝心なことに、気付いていないことになる。

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12月9日(金)−公平化

 詭弁と思えることで、世の中は溢れ返っている。心地よく聞こえる言葉で、真意を隠そうとするのは、指導者の得意とする所で、朝三暮四の猿達の如くの、愚かな人々を、苦もなく操っている。出すものを減らし、入るものを増やせば、まことに都合よく見えるが、溜まる歪みには見て見ぬ振りか。
 枚挙の遑が無い程に、事例を挙げれば、きりが無い。これ程に、問題が山積する中で、改革は次々と先送りされ、嫌な話を聞かさぬように、余計な気遣いまで行う。だが、国の借金の話は、その多寡については、不確かな部分があるものの、増え続けていることに、変わりはない。明日、来週、来月、来年と、先送りし続ければ、破綻を来し兼ねないことも、愚かな人々へのご褒美とばかり、無責任な決定が繰り返される。そこで何度も耳に入るのは、不公平感なる言葉で、その基準はなく、ただ感覚に頼るものだけに、何とでもなるとも言える。たとえ、そんな状況にあったとしても、公平性を保つ為には、少なくとも、二つの正反対の措置が考えられる。軽いと見える方を、重くすることと、重いと見える方を、軽くすることである。何方がより効果的かは、すぐには決められないように、思えるかもしれないが、その判断は、明らかな誤りだろう。先に書いたように、不足を埋めることが必要なら、減らすことは、論外のことなのだ。となれば、公平感を求めるにしても、増やすことしか、選択肢は残っていない。にも拘らず、この所の雰囲気は、例の如くの、減税措置に走っている。財布の中身を気にせずに、浪費を続ければ、何が起こるか、家計であれば、これ程に明白なことはないが、国という見えない存在では、どうでもいいというのだろうか。トットちゃんの人気で、高額納税に名を連ねた人が、文句を並べたことに始まったと言われる、法外な税率の引き下げは、さすがに無理があったからだろうが、今や、税率の引き上げは、急務と見るべきだろう。欲しがるだけで、出さない人は、国としては、要らないのではないか。

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12月8日(木)−非常識

 大衆迎合主義が、世界各地で広がっていると言われる。受けのいい公約を掲げて、選挙戦に挑むのは、以前から、効果的な戦略として、好んで用いられてきた。それとどこが違うのか、という点に関して、余り議論されていないようだが、程度の違い、の一言で片付けられるのではないか。
 外来語を用いようが、結局は、票を握る人々に、好まれるような提案を、示すことが第一とされるが、選ばれた途端に、実現可能性が、一気に落ち込んでしまうことに、支援者達は、臍をかむ思いを抱く。この状況が極まったものが、今巷に溢れる、大衆受けのする政治方式なのではないか。だが、冷静に判断すれば、魅力の多くは、絵に描いた餅に過ぎず、実現の可能性が殆ど無いだけでなく、正反対の結果を招きかねないことに、気付かないことにこそ、問題があるように思う。こんな時代だからこそ、正しい判断基準を身に付けることが、何よりも大切に思えるが、教育の現状は、その為に必要となる手段を、社会というより、世界全体が、失いつつあることに、危惧を感じさせる。大衆という括りを考えれば、その多くは、高等教育を受ける機会より、社会に出ることを選んだ人々であり、大学での教育の充実が、この問題の解決策のように扱うことは、余りにも的外れなことであると、言わざるを得ない。では、義務教育やそれに続く高校での教育は、一体全体、どのような状況にあるのだろうか。大学と異なり、監督官庁の管理が、厳しく行われている筈だが、その方針は、これまでも、何度も大きく変更されており、迷走とまで呼ばれたこともある。社会人として、最低限の常識を身に付けさせる為の、要素を授ける筈のものが、高得点を目指した、技術の向上の如く、本質的なことを外し、訓練ばかりを続ける現状では、愚民を生産するとの揶揄も、止むを得ないものに見える。例えば、確率に基づく考えは、大衆の多くが戸惑いを覚えると言われるが、今は、高校課程で最低限の教育が行われる。にも拘らず、それを経たとしても、確率に騙される人の数は増え続けている。何故、このようなことが起きるのか、現場でもっと考える必要がある。

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12月7日(水)−依存症

 賭け事は、昔から、人々の生活に、大きな影響を及ぼすものとして、負の面が強調されてきた。にも拘らず、富籤のようなものは、神社などから、公の組織により、いつの時代にも、行われている。悪いものなら、こんなことが続く筈もなく、根絶やしにされるべきだが、何故なのだろう。
 人間の欲を弄ぶものとして、賭け事が捉えられることは多い。賭博と呼ばれる賭け事は、特に、負の面が強調されるが、それは、胴元となる組織が示す、社会的問題との関係から来るようだ。昔も今も、その辺りの事情は変わらず、闇の組織が蔓延る原因として、こちらのものは、根絶への努力が続けられている。しかし、人の欲が、絶えることがない為、一攫千金を目論む人々は、相手のことなど御構い無しに、すっからかんになるまで、やり続け、一族郎党にまで、害が広がることになる。古今東西、この事情が変わらぬところを見ると、欲の共通性を表すものと思える。依存症の問題を持ち出し、立法措置を阻止しようとの動きが、最近の報道では、喧しく伝えられるが、そんな症状に陥る人は、既に、山のように存在しているに違いない。公営ギャンブルと呼ばれるものからは、多くの人が去ったとも伝えられるが、依然として、街中にはパチンコ屋が溢れ、多くの車や人が吸い込まれていく。被災地での異常事態が伝えられたこともあり、社会問題として捉えられているが、今の国会議論での内容は、こちらの話にも十分通じるものとも思える。規制の中では、金銭的なものは、排除されているが、抜け道は、すぐそこに存在し、射幸心を煽ると伝えられたことからも、同じ依存症に陥っている人は、数多居るのだ。こんな事情には目を向けず、新たな問題のみを、議論する姿勢は、結局、本質的な問題を、直視することなく、表面的なことばかりに、目が向く、無能な政治家達の実態を示している。

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12月6日(火)−芽生え

 競争と聞いた時に、ある業界では、すぐに思いつくものがあるという。競争的資金、と呼ばれる支援であり、多くは、国から降りてくるものとされる。ばら撒きと批判された予算制度に、数々の施策を講じてきた国は、何の成果を得ずとも、使い続けられる資金を、減らし続けてきた。
 その導入の際に、引き合いに出されたのは、競争に基づく、資金配分の制度であり、何もしない人間には、それに見合った配分しかせず、競争に参加する人々に、より多くの配分をするものだ。市場原理と同じように、何らかの基準に基づく判断は、正当なものとして、評価する人が多いようだ。だが、この制度に、反対する声も、実は少なくない。結果がすぐに出るものなら、陸上の100メートル走のように、実力の差を見極めることも、難しくはない。それでも、状況の変化から、ある程度の違いが結果に出るので、ある程度の配慮が必要となるが、それはそれとして、妥当な選考ができると言えなくもない。批判の対象は、そこにあるのではなく、評価の対象が、ある程度、長い期間を経て、結果に結びつくようなものの場合、それを、一時の選考で見出せるか、という点にある。佳境に入ったものについては、日々、新たな結果が得られ、競争原理は、正当に働いているように見えるが、それとて、そこに至るまでの過程では、日の目を見るかどうかさえ、不確かなものとして、注目されることが少なかった。ある程度の成果が積み重ねられ、それを頼りに選び出せば、苦もなく選び出せるが、そこに至る過程を支援しようとすると、殆ど手立てがない状況となる。市場原理で言えば、新開発の製品が、市場に出てすぐの状況では、買い手が少ない為に、その後の売り上げを見通すことは難しい。一度人気を得て、市場が広がれば、拡大の歩みを予測することも容易いのだ。要するに、成長の初期に、どれ程の支援をするかが、成長株を見出す為に、最も重要な手立てとなる。それを無視して、競争ばかりに目を奪われれば、先細りしか起こり得ない。

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12月5日(月)−自己研鑽

 競い合うものの中では、好敵手とも呼ばれる、競争相手の存在が重要と言われる。だが、世の中には、競い合いではなく、それぞれに、高みを目指すものの方が、遥かに多く存在する。にも拘らず、あらゆるものに、ライバルの存在を持ち込むのは、所謂、評論家達の勝手に過ぎない、とあった。
 この意見は、ある落語家の話の中に出てくる。競い合いを、あらゆるところに持ち込み、それを力に、頑張りを見せる、という人が居る一方で、他人のことより、自分のことが第一であり、高みを目指す為にも、精進こそが大切、という人も居る。件の落語家は、後者の一人に当たるが、評論家は、彼の好敵手を誰にするか、喧しい程であったという。彼の目で見れば、評論家の存在は、単に無駄なだけで、解釈を押し付けられ、それを気にせよと強いられることは、我慢のならないものとなる。だから、全ての評論を無視し、自分なりの精進を続けてきた。それ自体に、誇りを抱くものではないものの、結果として、国宝と呼ばれることとなったのは、その独自の姿勢が、異端とされず、正統の一つと見做されたからだろう。では、このような考え方は、あの世界に限ったものだろうか。多くの人は、競争が無くなると、怠けると考えるようだが、この間違いを、上の考え方は、表しているのだ。高みに登る人だけが、そんな考えを持つのだとしても、今の世の中に溢れる、競争原理の話は、大切なものを失わせているように思う。競い合わさなければ、サボるのだから、競争を採り入れることで、水準を保ったり、向上を目指したり、するのだそうな。だが、それによって、目先のことだけを対象とし、長期的な視点を無くした人が増え、馬鹿げた競争だけに、注目する世相ができた。下層の人間達を、何としてでも動かしたいからと、こんな提案ができたことで、先端を走る人々の意欲を減退させ、無駄な時間を押し付ける。こんなやり方が、如何に間違っているかは、成功者を見れば、すぐにわかる。その殆どは、競わされずとも、研鑽を続けてきたのだ。

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