パンチの独り言

(12月12日〜12月18日)
(鏡映、老害、減点主義、自己崩壊、追放、罰当たり、反則)



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12月18日(日)−反則

 保護されるべき対象の一つに、障害者がある。こんな書き方をすれば、まるで物を扱うようだと、批判されかねないが、現場では、そんな扱いを当然とする風潮がある。そこにこそ、本当の問題がある筈なのに、なぜか、厳しく指摘されない。どんな事情があるというのか。
 機会均等を掲げる場合、その為の制限を設けるのが、手っ取り早い方法と見做される。例えば、障害者に雇用の機会を与える為に、どんな方法が取られているのか、経営者以外には、殆ど気にする人も居ないようだが、全体に対してある割合を保て、とする法律があるのだそうだ。こうすることで、雇われる障害者の数は、「自然に」増えることとなる。と言われるが、本当に、そうなのだろうか。確かに、数自体は増えることになるが、そこには、様々な抜け道があるとされる。例えば、仕事に対する障害者の能力を、見極めることなく雇用すれば、その人物に課した負担は、達成されないことになる。当然、企業全体として、ある程度の停滞を覚悟すれば、問題なく事が済むとの見方もあるが、効率を追求する一方で、こんなことを放置すれば、組織全体に、歪みが広がる。その結果、障害者の雇用は、不安定なものとなるが、数字は、ある一定値を保てる。これも経営戦略の一つ、と見ることもできるが、本来の保護の考えは、満たされないものに終わる。こんな問題が、顕在化する中で、新たな戦略にも、注目が集まる。障害者という概念は、以前から、身体的なものに限定されていたが、最近は、精神的なものにまで、拡張されている。その中で、対象となる人の数は、急増しており、表面的には、何の問題も見えない人まで、それを証明する手帳を、保有することとなる。社員の中から、その気配の見える人を選び、診断を下してもらえば、仕事の質を落とすことなく、数字の達成が可能となる。何とも、魅力的な状況と言われるが、新たな雇用を目指す考えからすれば、反則技に見えなくもない。

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12月17日(土)−罰当たり

 正義の味方、とでも思っているのだろう。弱者保護を前面に押し出し、様々な横暴が繰り返される。確かに、一部の弱い者は、彼らによって、救われたと思うだろう。だが、それが、社会全体から見れば、一部の歪みを強め、一人を救う為に、その他大勢が、害を被ることとなる。
 ふざけた話、と嘗てなら、一笑に付されたことも、最近は、大真面目に扱われる。力の強弱も、表面に現れるものと、実態が、大きく乖離しており、理解に苦しむ例が、次々に飛び出す。だが、風潮は、そんな問題を、物ともせずに、突き進んでいるように思える。誰かが、歯止めをかけねば、自らの首を絞めるようなことが、巷に溢れてしまい、早晩、溺れ死ぬことになり兼ねない。だが、力を得た、自称弱者達の暴走は、簡単には、止められそうもない。特に、法律との結びつきが、誤った解釈も加わり、非論理的なものまでもが、認められつつあるのは、憂慮すべき状況だろう。常識が通用しない事態に、一部の良識のある人間達は、強い行動に出始めているようだが、これとて、一部からは、差別呼ばわりされて、恰も、加害者の如くに扱われる。このような状況を、更に深刻にしているのは、一度貼り付けられた、加害者との札が、そのままほぼ永久に流布されることであり、正義を掲げる、狂気の人々が、物理的ではなく、精神的な暴行を繰り返している。良識そのものが、標的にされることも多く、あらゆる発言が、弾圧される事態となっては、まるで、恐怖政治の世界に、逆戻りしているかのようだ。こんな状況に、我が天下と振る舞う人々は、あらゆる機会を狙って、敵と定めた人々を、追い落とすことに精を出す。正義を掲げれば、無理も通るとばかりに、勝手なことを繰り返すが、このような状況では、お天道様に、期待するしかないのかもしれない。

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12月16日(金)−追放

 不当な扱いを受けた経験を、持たない人は居ないだろう。ただ、個人の感覚としての不当と、万人が認める不当には、かなりの違いがあるのではないか。前者の例として、不適切と言われるかもしれないが、判決後に掲げられる主張が、挙げられそうだ。では、後者には、どんなものがあるのか。
 適切な例を挙げるまでもなく、これまでに眺めてきたものには、そんな事例は数多あるだろう。だが、印象に残るかと言えば、それほどでもない。その理由は簡単で、皆が認めるものは、当たり前すぎて、なるほどと思うこともなく、熟慮の末ともならないからだ。だが、こんなことが通用しないことが、組織内で起きている。権力を握る人間が、正当な手順を経た上と称して、自分の考えを押し通す。こんなことは、どこにでもある話であり、その抑圧に曝される人々は、窮屈な活動を強いられ、効率的な仕事ができない状況に、追い込まれる。圧力をかける権力者は、全体を対象とすることなく、味方となるべき人々を選び出し、その力を得て、不当な活動を続ける。本来ならば、様々な形で、横暴が続かないように、抑制がかけられるのだが、どこでも、このような状態が、かなりの期間続くところを見ると、そういう仕組みは、正しく働いていないようだ。結局、被害者が増えた結果、悲鳴にも似た声が上がり、暴挙が暴かれることとなるが、そこに至るまでに、組織の荒廃が続くことは、あらゆる意味で、大きな損失を生じさせる。歯止めをかける為に、工夫が施されたとしても、所詮、人間が作り上げたものには、良識や良心に基づいた考えが、根底にあるだけに、それを失った人の暴挙は、防ぎ切れないこととなる。悲惨なのは結末であり、散々横暴を働いた人間は、その存在を全面的に否定され、あらゆる面で、糾弾される。権力を握っていた時代に、勝手気儘に振る舞えたのが、今や、幽閉されるが如くの状況に、追い込まれる。これもまた、自業自得に違いないが、組織としての責任も、免れないのではないか。

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12月15日(木)−自己崩壊

 物事の順序は、互いの理解や信頼にとって、重要な要素となる。だが、自分のことしか考えられない人々は、相互理解など、頭に浮かぶ筈もなく、やりたい放題を続ける。気配りと言われる言動も、彼らにとっては、思いもよらぬものであり、自己中を絵に描いたかのような、ことを続ける。
 こんな人間が、部下に居ると、上司達は、彼らを制御するのに、一つか二つ、余分な手順を増やさねばならない。それでも、事が上手く運ぶ限り、問題は表面化せず、全体として、平穏が保たれる。管理する側にとって、その結果だけでも、歓迎すべきものとなるが、その為に、幾つも余計なことを、しなければならないとしたら、全体の効率の低下は、否めないものとなり、その積み重ねが、組織全体を蝕むことになり兼ねない。今、巷に溢れる問題の多くは、こんな事情から産み出されている。それでも、破綻を来さぬ限り、問題が表面化することはない。結局、内部の人間達が、様々に工夫を凝らし、破壊を防ぐことになる訳だ。だが、この問題が、管理者側から出てきたら、どうなるのか。実は、大きな問題となっている組織の多くは、管理側に、大きな問題が生じている。権力を笠に、横暴な振る舞いをし続ける上司達に、部下は振り回され続け、意欲を失い続ける。その多くが、今では、パワハラとして、取り上げられているが、これだけ話題になっても、消えない状況は、それぞれの組織が抱える、非論理的な言動を続け、横暴な振る舞いを続ける管理者にこそ、真の問題があると言うべきだろう。誰がこの手の輩を登用したのか、そこに、大きな問題があるが、徐々に歪みが極まりつつある、そんな組織には、この問題を解決する力は、残念ながら、残っていないようだ。だとしたら、どういう結果が生じるのか。自壊へと結びつく、一連の反応が、続くだけのことだろう。これもまた、自業自得ということか。

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12月14日(水)−減点主義

 世知辛い世の中、と言えば、多くの賛同が得られそうだ。だが、その中で、世知辛い人間が、闊歩している、と言ったら、どんな反応が返ってくるか。始めの表現は、馴染み深いと思われるが、後の方は、どうか。けちとか、抜目がないとか、そんな意味合いなのだそうだ。
 同じ言葉でも、正反対とも思える意味が、込められる。言葉の使い方に、注意を要するのも、こんな事情や背景があるに違いない。発言者の意図と、それを聞いた人々の感想に、大きな違いが現れることは、最近では、ごく当たり前の事象となっている。意味の曖昧さ、とするのは、この国で使われる言語に対する、解釈の一つだが、この傾向に関して言えば、曖昧さの問題というより、一人ひとりの考えの違い、から来るものの方が、遥かに大きいように思う。論理的な話が通じないのも、同じ事情によるものであり、感情的な反応に、驚かされた経験は、多くの人が持つ。優先順位を決め、それに従って、それぞれに見合った配慮を施す。そんな手順で進められていたものが、全く通用しない事態に陥る。誰もが、自分を最優先と考え、他人への配慮は、無用と主張する。社会の中で、この考えが広がれば、結束が崩れ、秩序は乱れ始める。その兆しが見え始めた頃、社会全体に、弱者保護の考えが強まり、自分中心の考えと相俟って、歪みが強まることとなった。多数の成果より、一つの失敗が、殊更に強調され、それが強弱の問題へと繋がれば、より一層過激な措置が下される。確率は無視され、期待値など見向きもされない。ただ単に、減点要素ばかりに、目が向けられた結果、何が起こったのか。世の中は、無難と呼ばれる無能者達が、何もしないまま、上席に居座り、組織の荒廃が強まる。弱者の保護を訴える人ほど、実は、その存在を忌み嫌い、避けようと躍起になる。触らぬ神に祟りなし、という減点主義では、何も起きないことに、大衆は気付くべき時が、来ているのだ。

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12月13日(火)−老害

 加齢現象は、人それぞれに、様々な形で起こる。個人差は、年齢が増す程に、広がり続ける。だが、生き物である以上、死を迎えるという運命に、抗うことはできないものだ。広がり続けていた差が、ある時を境として、一気に縮まり、運命を受け入れる時が、近づいてくる。
 老人の振る舞いも、人それぞれで、一様に捉えることはできない。しかし、対応する側から見れば、ある程度、範囲を限定してくれれば、と思うことが多い。本人は、自分のできることを、行っているに過ぎないが、周囲は、時と場合によって、振り回されることとなる。時に、それが極端になると、「老害」などと揶揄される現象が、表に出てくる。個人の範囲内で収まり、外に対して、大きな影響を及ぼさなければ、害が及ぶこともないが、こんな表現が出てくる時には、様々な害が広がっている場合が多い。ただ、これについても、周囲の寛容性が、全く違った反応を表し、それによって、何の問題もない、という結果が導かれる。余裕のある時代には、相手の身勝手な行動も、大目に見ることがある。これは、時代の雰囲気であり、老人達が、それに期待することは、問題があるだろう。特に、最近の傾向のように、他人に対して、厳しい対応が当然となる時代には、老人だけでなく、子供のような、所謂弱者にとって、厳しい時となっているように映る。ぎくしゃくする中で、年寄りの冷や水、となれば、極端な反応もあり得るだろう。本人の制御が効いているうちは、まだ問題は少ないままだが、徐々に、その力が弱ってくると、端から見れば、暴走とも思える言動が、続くようになる。だが、自身での制御には、期待できない。となれば、周囲からの支援が、重要となる。一見厳しく見える対応でも、よく考えれば、老人の為となることも多い。単純に、やらせておく、という考えもいいだろうが、実は、逆の考えも、意味深いものがある。何れにしても、落ち着いて考える必要が、あるに違いない。

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12月12日(月)−鏡映

 殆ど何も考えずに、周囲を眺めることがある。その際に、偶々目が合ったと感じた人から、尋ねられることがある。こちらは、何も考えていないのだが、何かを感じるらしい。いえ、何も、と答えるが、疑いは晴れないようだ。視線に注意せよ、とは思うものの、無意識を抑えることは難しい。
 目で相手を圧するのは、格闘技での基本と言われる。気魄は、声などによる気合いや、素振りなどに現れる、と言われるが、最も大きな要素は、目であるらしい。そんな競技の世界だけでなく、普段の生活においても、そんなことを意識させられることは、多くある。最初に書いたことも、それを感じた人の反応で、何かを訴えたり、圧力を感じたり、そんな感覚があるようだ。だが、戦いとは異なり、勝ち負けを競うものではない。ただ、眺めているだけで、そんなことを聞かれるのは、ある意味、心外なのだ。ただ、多くの人々は、こんな状況の責任は、こちらにあると言う。それこそ心外なのだが、現代社会のように、被害者や弱者の保護を、殊更に強調する風潮では、何かを「感じさせた」方に、責任があるとなる。困った状況だが、上に書いたように、無意識だけに、始末に困るのである。同じようなことは、言動にも当てはめられる。何かの意見を発すると、その裏に、思惑があると決めつけられるのだ。素直に、意見を発しているのに対し、何か隠された目的がある、と主張される。これもまた、困った状況である。これらの、こちらにとっては迷惑なことには、実は、共通点があるように思う。それは、相手の心の中の考えが、鏡に映し出された結果、であるということだ。つまり、何かを感じるのは、そんな思いで、相手を見つめるからであり、発言する時に、何かしらの思惑を、抱きながらである、ということなのだ。言われた方が、意外に思う時には、こんなことが起きている。虐められたと訴える人の多くが、虐める側に回った時に、それを感じないのも、よく似た心情からのもの、なのかもしれない。

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