パンチの独り言

(12月19日〜12月25日)
(卑怯だぞ、勝手な論理、やる気、ガラクタ、無資格、街頭募金、分相応)



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12月25日(日)−分相応

 冷たい言い方になるが、要するに、無駄なのだと思う。様々に環境を整え、重い腰を上げさせたとしても、その後も、依存体質が改善される兆しが見えない。そんな若者達に、人材育成が、喫緊の課題だからと、無闇矢鱈に力を向けるのは、大いなる無駄以外の、何物でもないのだ。
 進学率が低かった時代には、恵まれた環境の若者だけが、機会を得ていると言われ、エリートなどと揶揄されることも、度々あった。選ばれし者達、という意味では、まさにその通りだが、その批判は、結局、卒業という資格を手に入れても、社会に貢献することなく、ぶらぶらし続ける連中に、向けられていた。これは、一世紀も昔の、漱石が小説を書いた時代にも、社会問題として捉えられていたのだから、随分と年季の入ったものと言える。だが、その後、伸び続けてきた進学率は、ついに、過半となり、別の問題が、露呈し始めた。卒業という節目を迎えることなく、ただ漫然と学生生活を送る人々が、社会に溢れてきて、人材の枯渇が、危機感を持って論じられ始めたのだ。この図式には、実は大きなカラクリがあり、教育という産業に携わる人々の、筋書きに従った展開と、言えなくもない事情がある。可能性を提示し、意欲を煽り、その挙句に、機会を与えた上で、更なる高みを目指そうとさせる。だが、本来、身についた能力には、実は、歴然とした限界があり、当人達は、ことある毎に、それを実感する。そこまで行かぬ人々も、煽られた意欲は、早晩、減退することとなり、やる気は、どこかへと失せてしまう。こんな連中に、支援の手を伸べる必要など、ある筈もない。それをいつまで、こんなお祭り騒ぎを続けるのだろう。そろそろ、勉学においても、分相応を考えた方がいいと思う。

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12月24日(土)−街頭募金

 機会さえ与えれば、という馬鹿げた考えに、社会全体が、囚われているようだ。豊かな時代には、施しも気楽となるが、だからと言って、欲望に駆られた権利主張者達を、これ程に優遇する必要は、明らかに無いのではないか。この傾向を、更に強めているのは、弱者保護の考えのようだ。
 恵まれない子供達に、という呼び掛けが、街頭で流れてくるのは、この季節の風物詩の一つだろうが、支援にあたる人々の解釈が、異常な程拡大したのは、実は、経済状況の悪化が、否定出来ない程に強まった頃だ。成長が続く中では、遅れをとった人々には、誰も目を向けなかったが、自分達の歩みが、鈍くなってきた途端に、後ろを振り返るようになった。不幸な境遇の仲間を、見つけたような気持ちからか、同情の風潮は、一気に強まっていた。だが、この見せかけの振る舞いに、誰も批判を示さず、同意を示したことから、状況は、大きく変わることとなる。何の理念もなく、感情的な行動が、評価の対象となることで、底なしの支援の輪が、急速に広がった。だが、所詮、中身のない活動には、何の成果も得られない。根本的に、支援の意味がないものに、施しを与えたとしても、溝に捨てるだけのことだが、本質的な理解ができない人々は、更なる支援こそ、解決への早道とばかり、無闇な行動へと乗り出す。結果は、更なる悪化へと向かうだけだが、当事者達は、支援を勝ち得たことに、意味を見出し、自己満足に浸る。いやはや、こんな無駄を、許す世相には、どんな問題が隠れているのか。機会を勝ち得る力を持った人だけが、進むことのできる道を、築いてやってこそ、本当の育成が可能となる。進学率が低かった時代には、そんなことを意識する必要もなかったが、無気力な人間にまで、飴を与えるかのように、機会を与えてやっても、何の意味も無いことは、そろそろ明らかになりつつある。

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12月23日(金)−無資格

 やる気を出させる為に、様々に工夫を凝らす。と言われた教育方式が、その姿を現し始めた。ママゴト、と呼んでしまうと、馬鹿にし過ぎと思えるけれど、どうにもそうとしか見えない。積極性を引き出す為には、参加型の方式が肝心と、多くの教育関係者が考えたようだが、はて。
 要するに、自分で考えるように仕向ければ、やる気が出てくる筈、と思っているらしい。だが、やっているフリと、本当の積極性との間に、どんな区別があるのだろう。初等中等教育では、参加型への移行がかなり進み、現場では、その成果を訴える声が、高まっていると聞く。その効果の程が、現れてくるまでには、もう暫く時間が必要だろうから、評価を下すのは時期尚早だが、早期の成果を主張する声に、疑いの目を向けるべき、との思いが頭をもたげる。即席の効果程、信用のおけないものはない、との判断は、これまで、何度も煮え湯を飲まされてきた人々には、当然あるものだろう。だが、渦中の人々は、まるでお祭り騒ぎに酔い痴れるかの如く、自らの努力を認めさせようと、焦りに満ちた表情を見せる。こんな様子を眺めるに、思い起こすのは、彼ら教育に携わる人々の、過信にも似た考えが導き出す、危険性の問題である。誰もが教育を受ける権利を持ち、それさえ施せば、何事も可能となる、という考えに、囚われた人々が、どんな愚行を繰り返してきたか、少し歴史を振り返れば、明白となることだ。だが、懲りない人々は、人材育成の危機との声に、再び、自らの活躍の場を見出したらしく、またぞろ、下らない付け焼き刃の新手法を編み出してきた。これさえあれば、頼りになる人間を育てられる、などと、恥ずかし気もなく言い切るのは、無知の塊としか言い様がない。積極性もやる気も、それぞれの人間の内から発せられるものであり、外から引っ張り出すものでは、決してない。これに気付かぬ、無知な教育者に、誰を教え育む資格があるというのか。

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12月22日(木)−ガラクタ

 連日、進学の機会均等について、書いている。だが、言いたいことは、そこにはない。機会を与えたからと言って、その甲斐がない、という話が、実は多いからだ。折角機会を得たのに、その際見せた意欲は、どこかに消え去り、怠惰な生活を続ける、そんな人が、巷に溢れているのだ。
 だが、これは、機会を与えられた人に、限られた話ではない。皆が行くからと、何の目的も持たずに、進学した人々には、更に酷い状況の連中が、数え切れない程居る。進学率の向上は、まるで社会の成熟度を表すかの如く、一部で扱われてきたが、そこには、著しい事実誤認がある。進んできた人の中に、不適格としか見えない人が、進学率の上昇に従い、増え続けていることを、成熟度に触れる人々は、見て見ぬ振りを続けているのか、あるいは、全く気付いていないようだ。意欲のない者、向上心に欠ける者、こんな連中が、構内に溢れている中で、教育に携わる人間も、変化を強いられてきた。それまでの教育姿勢では、やる気のない者達は、自らの怠慢を棚に上げ、要求ばかりを突きつけてくる。彼らの頭には、卒業の二文字しかなく、その為に必要なものにだけ、目が向くらしい。単位と呼ばれる商品を、如何にして手に入れるかが、最優先事項であるが、その一方で、遊びに耽ることだけは、忘れる筈もない。こんな連中を相手に、わかりやすい講義を求められた現場は、ある意味、大混乱状態に陥ったようだ。高校時代に、学んだ筈のものを、改めて教え、それでも理解できない無資格者に、手を差し伸べる。退学や留年の率を、殊更に取り上げると言われる、監督官庁の指導も、この傾向に拍車をかけ、荒廃が進む現場は、修復不能な状態に追い込まれる。その中で、改革を謳う人々が、高らかに訴えるのは、新方式と銘打った教育なのだが、これがまた、ガラクタとしか思えぬ代物、病状は深刻なのだ。

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12月21日(水)−やる気

 支援を求める一方で、それが得られた後は、約束を守れない。そんなことが横行する中、更なる支援の手を伸ばそうと、働き掛ける人々が居る。現行の支援で、成果が得られないのは、その対象が少な過ぎる為に、肝心の層に、その手が届かないから、という理由が添えられて。
 もっともっとと、求めればキリがない。余裕があれば、無駄と分かっていても、その対象を広げればいいが、社会には、経済的にも精神的にも、十分な余裕はない。その表れが、いじめと括られる、一連の言動にあり、自分の身を守る為に、他人を貶めることが、唯一の手段と信じる人が、社会に溢れている。その中では、被害者を装うことが、最善の道と見做され、多くが、権利を主張し、支援を要求する。だが、彼らの態度は、肝心なものを手に入れた途端に、豹変するのだ。それまで示していた筈の意欲は、一気に減退し、時に消え去ってしまうほどで、元々の意欲自体が、ハリボテのように、膨らませただけのもので、中身など、一つもなかっただけなのだ。そんな連中に、何度騙されても、どこかに、支援を必要する人間がいる筈、と信じるのは、彼らの勝手だが、こんなやり方では、何の解決も得られず、本来目指していた筈のものさえ、なくしてしまうことになる。教育の機会は、何かを手に入れる為に、不可欠なものとの解釈は、この手の議論が起こる度に、提出されることだが、結局、手に入れた筈の機会を、いともあっさりと手放す姿を見ると、その間に起きた遣り取りは、一体何の為だったのか、と考えさせられる。誰もが機会を得られる時代とは、実は、その資格を持たない人にまで、与えることになることに、気付く時が来ているのではないか。大いなる無駄に、余裕を示せる状況ではなく、人材育成が喫緊の課題となる中では、誰もが焦りを見せる。だからと言って、こんな無駄ばかり続けては、やはり、失うものばかりとなってしまう。

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12月20日(火)−勝手な論理

 困っている、という声に応えた、と伝えられる。誰もが機会を得られるように、経済的な支援が必要、という声は、いつの時代にもある。だが、という声が、現場から聞こえていることに、制度の始まりに、満足げな表情を見せる人々は、気付いているのだろうか。得た機会は、何の為か。
 貧困問題が深刻であると、多くの報道が伝える。それが進学の機会を奪うとも伝えられ、支援を必要とする人々の姿が、様々に映し出される。先行投資としての借金は、負の遺産として、後々まで重くのしかかり、奨学金でさえ、そのような仕組みで実施されていることから、破産を申告する人まで出ていると、伝えられる。これは、現状の一面に違いない。だが、一面に過ぎず、多面的な捉え方とは、とても言えない状況にあるのではないか。奨学金を得て、学ぶ機会を手に入れた人々が、どのような学生生活を送り、更なる機会を得る為に、どんな努力を重ねたかは、そこに示されることがない。大学は、入れば出られるものとは、この国の大学制度を、揶揄する言葉として、昔から使われてきた。貧困から抜け出す為として、大学を目標としてきた人々は、その多くが、入ることで満足を得、貧困からの脱却の為に、時にバイトに明け暮れる場合もある。将来の為に目指した筈のものが、いつの間にか、目の前の問題にすり替えられ、結局、日々の生活に追われてしまう。本来なら、その間に身に付けるべきものが、あった筈なのだが、それは棚に上げられ、目出度く卒業したとしても、貧困生活に終止符を打つことができず、借金の返済も滞ることとなる。どこで間違えたか、明白な原因も、他の学生との比較から、直視することがない。もし、こんな輩を支える為の制度だとしたら、無駄なだけであるに違いない。本当に必要な人々は、懸命な努力を重ね、自らの力で、貧困を抜け出すのだ。大学が、何をする為の場かも、そんな人々は、よくわかっている筈だろう。

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12月19日(月)−卑怯だぞ

 責任を取らない人が多い、と言われる。だから、という訳でもあるまいが、何でもかんでも、責任という言葉を振りかざし、押し付けてくる人が居る。どちらも困った存在で、特に、上に立つ人間であるだけに、そのやり方が、押し通されることとなり、組織の秩序は乱される。
 簡単に片付けて仕舞えば、非常識の塊に過ぎないのだが、その存在を、上に仰ぐ人々には、簡単な話では済まされない。特に、どちらの姿勢を貫くにしても、無責任な態度を保ったり、責任転嫁を続けたり、そんな行動をする人間は、そのままに居座るだけだから、何の解決も得られない。組織の責任だから、と言って仕舞えば、それまでなのだろう。だが、社会への影響が大きい場合、そのままに放置するのは、どうかと思う。渦中の組織では、上下関係の確保を理由に、あらゆる働きかけが、阻止されることとなる。唯一の手段として、内部告発が行われることもあるが、組織を壊す以外に、ろくな結果が出ないだけに、それを勧めるのも如何かと思う。だが、現状は、こんな状態にあり、解決の兆しは見えない。隣の国では、大統領さえ弾劾されるのに、ちっぽけな組織でさえ、上に立つ人間を絶対とし、その暴挙は見過ごされる。権力を笠に着たやり方は、早晩、糾弾される運命にあるのかもしれないが、最中に、何の手出しも出来ないのでは、結局、壊れていく秩序を守ることはできない。自主自立、という考えに基づけば、こんな結果を招いたのも、自業自得に過ぎないが、それを改める機会は、殆どの組織で得られぬ仕組みになっている。管理をし易くする為に、権力を集中することは、こんな危険性を孕むことに、何らかの措置を準備するのは、まさに、危機管理の一つなのではないか。暴挙の主が、何の責めも受けないことも、大きな問題であり、逃げたら勝ちでは、許されないと思う。

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