パンチの独り言

(2016年12月26日〜2017年1月1日)
(不信感、理路整然、上塗り、狂気の果て、無力感、大人の対応、不正義)



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2017年1月1日(日)−不正義

 ここ数年、あるいは、それ以上に長い間、人の格を論じる書物が、世に出されてきた。形の無いものを、どう表現するかは、書き手により異なるが、多くは、失われたものを、何とかして、取り戻そうと、目の前の問題を、提示するものだった。その結果は、実は、芳しくない。
 あるべき姿を、様々に書き表しており、多くの共感が得られたのに、何故、芳しい結果が得られないのか。企画者も、著者も、そこに疑問を抱いているが、解決への手立ては、見えていないようだ。社会全体に、歪みが増し続ける中で、あらゆる階層の人々が、目の前に現れる、問題を撒き散らす人に対して、どんな対応ができるのか、悩み続けてきた。書物に記されたことからすれば、人間の格が正しくあれば、何の問題も起きず、誰もが、自由な言動を続けられるとなるが、現実は、正反対のことが起き続けている。弾圧などという言葉は、一般社会に似合わぬものだが、それに似た圧力が、様々な形で、上から押し付けられるのを、眺めていると、権力を握る人間が、非常識を押し通すような状況では、理解不能な事態が起こる。不平不満が、底辺で溜まり続けていた時代と違い、体制側に、常識は存在しない。その中で、不平や不満は、露わになることなく、ただ、圧力を受ける形となる。品格を備えぬ人々が、上に君臨する場合に、世の常として、下からの圧力を、過剰に意識する人が出てきて、弾圧という形で、その芽を摘もうとする動きが、強まることとなる。これが組織を破壊するきっかけになると、上に常識がないだけに、それを押さえ込む力は、表に出てこず、壊れるに任せるしかない。正義を無理強いする人々は、組織にとっての敵でしかない。

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2016年12月31日(土)−大人の対応

 目には目を、とばかりに、報復合戦が行われる。国と国の間の、紛争において、こんなことは、日常茶飯事だろう。だが、平和な時代が続くに従い、少し違う考え方が、台頭し始めてきた。戦いや争いという状況を、作り出すことよりも、それに至らぬ努力を、積み重ねようとするものだ。
 やられたらやり返す、というやり方は、自らの地位を守る為にも、必要となる。そんな考えからの決定が、なされたのだろうが、国の指導者となる前に、法に関わる職業に就いていた人間が、報復とも思しきものを、持ち出したことには、違和感を覚えた人も居るだろう。だが、その一方で、卑劣な行為に対しては、相当の罰を下すべき、との考えもある。だが、罰を下すことを、一度始めてしまうと、取り返しのつかない事態を招きかねない。冷戦時代には、そんなことが、日常であったのだろうが、それを常道とした国の指導者は、まるで相手をしなかったと伝えられた。大人の対応、などと見る向きもあろうが、そんなに単純なら、これほどに、国の間がこじれることなど、あり得ない。目論見があってこその決定だろうが、それがどんなものかは、追々明らかにされるだろう。伝えられることから想像すれば、優位性を保とうという意図が、現れたものと思える。だが、所詮、こちらの力が、あちらの国に働くことはなく、ただ、世界からの目が、どう変化するか、ということだけだ。総合的に見て、どちらが優位にあるかは、明らかな中で、今回の決定は、それを覆す程の効果を、示せるかどうかは、怪しいものと思える。衛星放送で、時々流される、彼の国の報道番組は、中立とは思えぬ程、政府の意向に沿った内容を、流し続けている。そんなものが、世界に流れる中で、報復をしない決定は、何か別の意図を窺わせる。これも徐々に明らかとなるだろうが、次の席に着く、経営者であった人物が、どんな反応を示し、どんな対応を行うかは、狸と狐の化かし合いのように、先が読めない。でも、それぞれの国は、その選択をし、彼らに対する期待は、大きいのだろう。

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12月30日(金)−無力感

 体制を批判する連中が、どんな変貌を遂げるのか、ある時代に、眺めていたことがある。批判の仕方の異常さも、強く印象に残っているが、それよりも、遥かに強い印象が、批判者の変貌ぶりに残されている。主張や批判を、表現する手段として、言論では足りず、暴力へと走ったのに。
 それをすっかり忘れ去った人々は、体制側に与するどころか、その頂点を極めるに至り、同じ手法を、下から上ではなく、上から下へ用いることとなる。所謂弾圧と呼ばれる、横暴さの表れだが、どちらの側に回ろうが、自己中心的な言動は変わらず、自己批判、総括という言葉の意味さえ忘れ、責任転嫁と権力の行使に、全力を尽くす。混乱の時代を産み出した世代は、究極的には、時代の責任を持ち出し、それを操ろうとした企みも、時代の流れの為と、下らない言い訳を繰り返す。冷静になれば、簡単に見極められるように、彼らは、単に、自己満足を得る為の、狂気に満ちた感情を、押し付けてきただけに過ぎない。その狂気に振り回された、すぐ下の世代と異なり、少し離れた世代は、ある意味、冷静に分析した上で、対応を講じてきた。だが、所詮、狂気への対応など、無駄以外の何物でもない。そんな経験が生きることは、殆どないことが、徐々に明らかとなり、彼らが残した負の遺産に、いつまでも悩まされることとなる。その上、狂気に基づく権力の魅力に、魅入られる人々が、同世代から出てくるようになっては、悩みは、いつまでも継続してしまう。狂った時代と、後になって振り返るのだろうが、それでも、より良いものへと、変える努力は怠れない。無駄な努力と知りつつも、狂気の排除に力を注ぎ、改善に努めるのだが、次々に現れる、新手の狂気には、努力の積み重ねも、徒労と終わりそうだ。根本からの改革とて、人間の性が、狂気と権力の組み合わせでは、何の力も示せないようだ。

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12月29日(木)−狂気の果て

 狂気に悩まされた経験の持ち主は、そんなに居ないと思う。何故だか、理由はわからないが、数度悩まされた経験から、思うのは唯一つ、相手にならない、ということだ。これは、相手にしない、という積極的な意味ではなく、相手にできない、という消極的な意味である。
 論理の重要性を説いたように、相互理解において、論理性は、最も重要で、唯一の要素となる。だが、一方が、精神的に病んでいる場合も含め、非論理的な展開を仕掛けてくる時、そこには、理解が入り込む余地はなく、当然、批判などの反撃も、功を奏さない。こんなことには、悩んでいても、殆ど意味がない。おそらく、唯一の対抗策は、相手の土俵で戦うのではなく、強制的に、土俵から引き摺り下ろす、ことではないか。ただ、この手段を講じた場合、加害者を処罰することは、可能となったには違いないが、心が晴れる訳でもなく、嫌な気持ちが残るだけだ。たとえ、自分が直接に手を下さずとも、こういう常軌を逸した人間は、自然に消滅するだけのことで、わざわざ、心を痛める価値もない、ということだろう。それにしても、精神的な圧迫とは、受け手の感覚によって、こうも大きく変わるのか、と思う。世間では、ハラスメントという、魔法の言葉により、目障りな人間の始末を、成し遂げようとする人がいる一方で、それ以上に、碌でもない害を及ぼされても、価値がないとの一言で、何もことを起こさぬ人がいる。どちらが正しいのか、そんなことを論じるつもりはないが、社会として、どんな形が望ましいのかは、はっきりとしているのではないか。一番の問題は、ある程度の地位を手に入れた人間の中に、私利私欲に走り、他人を貶めることに、躍起になる人がいる、ということだろう。

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12月28日(水)−上塗り

 ある時を境に、多くの人々が、負の連鎖を実感するようになった。成長を続けていた時代には、少々の間違いがあったとしても、大きな影響が残らないとして、大目に見られていた。だが、成長が止まり、安定期を過ぎて、下降へと移り始めると、間違いは厳しく糾弾され、皆が窮屈を感じている。
 間違いは、どんな場合にも、許すべきものではないだろう。だが、それを犯すのを恐れる余り、何の手立ても講じないのは、もっと悪い結果を導く。一方、問題が生じる度に、様々に対策を講じても、何の変化も起きないばかりか、逆効果となることが、多くなっているように思える。応急措置が、常に問題を招くわけではないが、その多くが、表面に現れたものだけに着目し、根本解決を目指していないことに、大きな問題があるのではないか。常に、対処を続けている、という言葉も、単なる言い訳にしか思えず、結果として、失敗が続いたとしても、現場では全力を尽くしている、と解釈される。しかし、このやり方が、これほどまでの負債を生じるとなると、このまま放置しておいていいものか、真剣に考える必要がある。確かに、化粧直しに似たやり方では、表向きは、修復が済まされたように見えるが、その実、問題となった事柄を招いた原因は、単純に蓋をされただけであり、その除去も解明も進まない。蓋をすれば、見えなくなるのは当然で、それで済ませば、見えない問題を、気にする必要もない。現代社会には、こんなことが、頻繁に起きており、解決への道を遠ざけている。にも拘らず、これでよしとする考えが、社会を満たしている中では、根本解決を目指す動きは、消し去られることとなる。見えないから、それでいい、というのでは、そのうち、課題の山が崩れ始めて、初めて、気づく人が出てくるのではないか。それでは遅い、という警告は、悉く無視されるようでは、どうなるのだろう。

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12月27日(火)−理路整然

 何事も、論理的に考えれば、自ずと正しい答えは見つかる。当然のことなのに、何故できないのか、不思議に思える話が、現代社会には満ち溢れている。客観性も、至る所で重視されるのに、最後の瞬間に、放棄してしまうことが多い。ここでも、何故という呟きが、聞こえてくる。
 誰もが、自分を第一に考えることに、異論を唱えるつもりはない。全ては自分の為である、という戒めは、昔から、事ある毎に、使われてきた。だが、最近の、自分が第一という考えには、その戒めとは、全く違ったものがあるようだ。他人を貶めても、自分が生き残ればいい、という考えに、囚われた人間に、周囲は大きな迷惑を被る。被害は、物理的なものになるだけでなく、精神的なものにまで及び、心の傷が癒えないと、訴える人の数は、増え続けている。だが、この状況自体も、自分可愛さの余り、といった考えからのもので、他人との関係を、正しく築けない人々の、問題を表しているように思える。感情に訴えることに、躍起になるばかりでは、結局、他人との関係は築けない。自分を中心に考えることが、他人を排除することに繋がるのは、単に利己的な考えによるものだが、それを抑え込む為には、論理に頼ることが、重要となるのではないか。冷静な判断、という言葉とは裏腹に、あの人は冷たい、と言われる人の多くは、努めて論理的思考を行っている。他人と共有できるのが、論理の特徴である筈が、肝心の他人が、感情に頼るばかりの状況では、通用し難い状況が生じる。そこで、寄り添う為の手段として、精神的な理解に努めるが、こちらには、共有できるものが少なく、誤解を生じ、罵声を浴びせられることさえ起こる。感情とは、一時のものであり、深く考えた末ではなく、思いつきによるものが多い。その為、互いの理解には、程遠い状況が生まれ、怒りを招くことさえある。嫌な思いをする位なら、まずは、論理に頼ってみてはどうか。冷たいと言われるのも、一時的であり、そのうち信頼に足る人との認識が広がる筈だ。

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12月26日(月)−不信感

 皆の情報源は、何だろうか。新聞や公共電波などの媒体は、既に、古臭いものと見做され、自分の発言も含め、様々に情報交換できる媒体に、知識の源を定めている人が、急速に増えていると言われる。だが、そこには、種々の危うさが横たわり、偽情報に振り回され、害を被る人も多い。
 不確かな根拠の上に、築き上げた知識は、所詮、何の役にも立たない。何度、煮え湯を飲まされても、これに気付かぬ人々は、依然として、危険極まりない情報源に、しがみ付いているように見える。では、旧来の媒体の状況は、どんなものだろうか。裏を取るという、肝心な手続きを飛ばし、一つの情報源に依存する体質が、馴れ合いの中から生まれ、情報操作の片棒を担ぐ、巨大マスコミの姿が、何度も暴露されてきた。にも拘らず、こちらも、依存性の強い人々から、唯一の情報源と見做され、不確かなものに、何度も振り回されている。これら、大きく分けて二つの勢力に関して、共通点があるとしたら、何になるのだろうか。おそらく、情報を送り出す側の問題を、誰もが浮かべるに違いないが、実は、そちらより、受け手の問題の方が、遥かに大きくなっているのではないか。吟味力の減退が、最大の要因と言われる所以だが、当人達に、その評価を下せる程の能力はなく、結局、いい加減な情報を垂れ流す、多くの情報源にとって、何とも都合のいい状況が、産み出されている。基地の問題は、その最たるものであり、多面的な分析もなく、ただ、一方的な情報を流す人々は、それぞれの真偽に関して、自らの判断を総括することなく、大きな顔をし続けている。一方的に陥り易いのは、大衆の発信が可能となる仕組みで、この件に関する、そちらからの情報の殆どは、信頼に足るものとなっていない。では、マスコミと呼ばれる方は、どうだろうか。こちらも、まともな情報を流すことなく、世相を反映するようなものばかりに、力を入れる。これでは、偏りが強まるばかりで、正しい判断など、できる筈もない。

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