ご飯を食べさせてくれない、誰かが金を盗んだ、そんなことばかり、言い続ける高齢者に、周囲は、迷惑千万という顔を見せる。世話をする人間にとって、相手に信用されないと、困ったことばかりが起きる。感謝の言葉の代わりに、毒舌や叱責ばかりをぶつけられると、意欲も萎える。
痴呆症や認知症が、人々に受け入れられた理由の一つは、身近に起きた、高齢者の問題があるのではないか。本人が、そういうことを、本心で言うのではなく、病気のせいで、そんな暴言や、時には、暴力さえも、振るってくる、となれば、周囲も、仕方ないと納得する。でも、と思うのは、前日の話と同じだが、なぜ、一部の人達だけに、このような症状が現れるのか。特に、気配りや気遣いが、行き届く言動を、症状が出る前には、示していた人程、こんな急変に、周囲は戸惑うこととなる。だが、病気そのものが、猜疑心を芽生えさせたのか、という問いには、肝心の医者達も、答えを返すことができない。それより、健康な時には、覆い隠していた本性が、その役を負っていたものが、外れた途端に、現れたと考える方が、筋が通りそうに思える。ただ、そうだとしても、全ての人が、色々な形で、装っていた筈なのに、皆に同じ症状が、現れないことには、まだ納得がいかない。病気と受け入れることで、何かしらの理解は、ある程度進むとしても、それが全てとは、中々に思えないことには、殆ど変わりがない。では、何が、そんな言動の引き金になったのか。脳の機能自体への理解が、依然として、不十分な状況では、答えなど、見つかるはずもない。科学の進歩で、様々なことが理解でき、人間の脳を真似したとされる、仕組みが発明されているが、それとて、一面を捉えたものに過ぎず、未知のことの方が、まだまだ、ずっと多いとしか言えない。こんな状況から、納得がいかなくても、受け入れるという姿勢が、実は大切なのではないか。
加齢現象としての、忘れっぽさに関して、近年は、異なる考え方が台頭している。年齢を重ねるに従い、様々な能力が衰えるが、それは、自然のことではなく、ある病気を原因とするもの、という考え方だ。個人差が、更に広がる状況に、診断を下したのだろうが、どうにも理解に苦しむ。
確かに、多くの人々が、物忘れが酷くなることを、経験する。しかし、それが度を越した時、周囲には、様々な戸惑いが広がる。人の名を思い出せない、前日に起きたことを思い出せない、そんなことだけでなく、ほんの少し前の、食事のことさえ思い出せなくなる。若い頃には、気配りがあり、記憶の確かさを、他人から評価されていた人でさえ、そんなことが起きることに、衝撃が起きるだけでなく、対応に戸惑いを覚える。身近な人々の困惑は、計り知れないものとして、多くの問題が指摘されてきた。そこに登場したのが、痴呆症と呼ばれるものや、認知症と呼ばれるものであり、単なる加齢現象ではなく、明らかな病気として、扱おうとの方針だった。定着しつつあるものだが、依然として、疑問が消えた訳ではない。表に現れた症状から、診断を下すものだが、病気には、それを起こした原因がある筈なのに、そちらへの言及は、殆ど行われない。そんな状況に、家族は戸惑いを覚え、主治医に尋ねるのだが、要領を得ないことが多いようだ。結局、表出したものだけに注目し、分類を繰り返す。同じようなことが、精神に異常を来した人々への、診断に関しても行われ、診療科の分類から、同じ部類の医者達が、行っていることを考えると、どうも、同じような考えが、根底にあるように思える。診断さえすれば、何かしらの保証ができる、かのように考えることが、こんな状況を招いているのだろう。でも、何故の気持ちは、消えない。
実力を見極める力、などと、世間では言われるけれど、こんなことが、取り沙汰されること自体、その力を備えぬ人々が、巷に溢れている、証左ではないか。以前から、何度も書いているように、本質を見極めず、見かけに騙される人が、社会に溢れており、彼らが、それなりの地位を占めている。
こんな中では、組織の中枢を支える人々の、選び方さえ、結局は、好き嫌いで決めることとなる。嫌いな奴らを、如何に貶めるかが、肝心な時代には、評価の高い仕事をこなす人間より、目立たないばかりか、おべっかを使うことさえ、厭わぬ人間こそが、登用の機会を得ることとなる。だが、自主性を持たぬ人間が、中枢を構成することとなると、その組織は、成長が止まり、衰退へと移っていくことは、これまでの事例から、明らかなのではないか。にも拘らず、依然として、好き嫌いを基にする選び方が、横行しているのは、何故なのか。結局、能力のない人間に、共通する要素として、好悪を基に、人を選別する性向がある、と思えてくる。だとしたら、如何に、そんな人間に、機会を与えないかが、組織にとって、不可欠な要素となるだろう。だが、次々に、担う人間が変わる中では、その方針を貫くのは、簡単なことではない。多くの創業者が、後継を選ぶ際に、悩み抜くのは、こんな事情によるからだろう。自分のことはよくわかっていても、他人が、どんな思いを抱きながら、自分を支援する立場を、とっているかが、わからないからだ。そこでも、実力を見極める力が、本来は、肝心となる訳だが、有能な経営者であっても、人間の実力を見極めることにかけて、困難を感じる人は多い。まして、そんな部類に属さぬ人間には、無理難題と映るのだろう。だとしても、継ぐ人間を選ばぬ訳にもいかない。さて、どうしたものか。
他人を陥れることは、それほど難しくはない。噂を流すのは、時間はかかるものの、発信源を知られぬ為に、有効な手段と言われる。一方で、もっと直接的に、相手を貶めたい時には、台本を用意して、芝居に参加する人を募る必要がある。確実で、短期に効果が得られるが、危うさがある。
主役は別に置いたとしても、脚本家は、件の人物か、その取り巻きとなる。また、芝居に参加する人々が、全て味方であれば、問題は起きないだろうが、いつ何時、寝返るかもしれない。特に、仲間に引き入れる際に、嘘や創作に満ちた言葉で、誘った場合には、それが発覚することで、信頼が失われる。そんな危険を冒してまで、突き落とさねばならない人が、居る人間とは、どんな感覚を持っているのだろうか。正義を貫く為には、少々の虚偽でも、必要悪の一つと見做せる、と思うのだとしたら、正義などという言葉に、何の意味もないこととなる。目的は、突き落とすことであり、正義ではないからだ。その根源が、好悪にあるのだとしたら、それほどの不幸はない。好き嫌いで、人を区別する人は、世に溢れているが、それを押し通せば、何が起こるかは、経験を積んだ人なら、簡単に分かることだ。だが、それが見えぬ人が、世に溢れているということは、情けないとしか言えない。ただ、この原因を考えると、論理性の軽視が、あるように思えてくる。好き嫌いが、論理で語れるのであれば、こんなことを書く必要はない。そんな感覚で、扱えないものだからこそ、こんな問題が、起きる訳だ。その上、渦中の人間に、この違いに気付く為の、肝心な能力は欠如している。だから、どんなに、相手が悩み、説得しようと努力したとしても、嫌悪の念が、強まるだけとなる。何しろ、理解できないことを、説明されるのは、まさに、馬鹿にされているとしか、受け取れないからだ。
横並びを好む、と言われた国民性は、消えつつあるのだろうか。個人主義の台頭が、警戒心を込めて、報じられており、皆と一緒という考えが、若い層から無くなりつつあることに、様々な懸念が伝えられる。だが、実際には、若者より、高齢者達に、その傾向の高まりが起きているのではないか。
若い世代は、まだ自信が持てないからか、横並びの習慣が、残っているように見える。それに対し、高齢者は、責任に縛られていた時と異なり、無責任な振る舞いも、許される年代に入り、隣の事も気にせぬ言動を、始めたようだ。伝統を破る行動は、若者の特権のように扱われるが、現実には、守ってきたものを、打ち棄てるような行動を、年寄り達が始めている。折角、守ってきたものを、と考えるのは、信念を持った行動を、貫いてきた人だけであり、横並びの習慣から、守りに参加していた人々は、全く違った考えを持つのだろう。その結果として、好き勝手な振る舞いが、年寄りの中から、始められているのではないか。年長者からの、厳しい視線の中で、伝統を守り抜いてきた人々が、それを捨てることを始めると、次代を担う人々は、そんな視線を感じる必要もなく、当然のこととして、勝手なことができるようになる。これを歓迎する声は、おそらく、強まり続けるだろうが、ある程度の時間を経過した後で、後悔の念が、起き始めるのではないか。もし、そんなことをするのなら、横並びも、一つの選択として、決断する必要があるように思う。ただ、勝手な方向に進むことが、横並びの要素となるとしたら、これもまた、難しい状況に陥りそうだ。信念を貫くのは、いつの時代にも、苦しみや痛みを伴うものだろう。その決断をする為に、何が必要なのかを考える時、人は、自身の成長を、意識することとなる。それが、自信の芽生えとなることに、気付くのは、暫く後のことだろうが。
以前から気になっていたことの一つに、道端に掲げられた、子供達の言葉がある。交通安全などを始めとして、子供の言葉で、大人である運転者に、訴えかけるものだが、なるほどと思えるものがある一方、おかしいと思えるものも多く、何故、こんなものを選んだのか、と思う。
交通安全の標語は、それでもまだ、異様と思わされることはない。実は、気になったものは、対象が全く異なるのだ。ある地方の町に掲げられたものは、覚醒剤の恐ろしさを、訴えるものだが、中学生の名前が、そこにあるのを見て、違和感を覚えないのか、と不思議に思う。確かに、社会問題として、交通事故や飲酒運転などと、同列に並べたくなったのかもしれない。だが、自動車の運転はできなくとも、家族がそれをする子供は、どこにでも居る。だから、ある意味、身近な問題として、事故の回避や飲酒の戒めなどに、触れることに、違和感を覚えることはない。では、覚醒剤を始めとした、麻薬に関しては、どうだろうか。確かに、ある時代を境にして、特殊な人々だけの問題ではなくなり、ごく普通の人でも、その機会を得ることができるようになった。というより、無知な人々を、新たな顧客として、開拓しようとする連中が、出てきたことこそが問題だろう。ヤクザと呼ばれた人々が、暴力団などと呼ばれるようになったのは、対象とする世界の変貌が、大きな要因とも言われる。このような状況から、確かに、一般人をも罠にかける、危険なものとして、覚醒剤を扱うことは、重要なことと思われたのかもしれない。でも、だからと言って、その話を中学生の標語として、掲げることには、異様さを感じる。一体全体、この町は、どこまで侵されてしまったのか。そんな思いを、余所者に抱かせることが、その目的なのだろうか。どうにも非常識な人々が、大人の顔をしている、そんな時代になってしまったのか。
元旦に、何を願うのか。最近は、各地からの日の出の風景より、富士山を交えたものを、紹介することが、多くなっている。神々しく見える、というのが、主な理由なのだろうが、何れにしても、一年の初めての日の出は、他とは違ったものに、感じられる。家から眺めるものでも、だろう。
その前に済ませる人も多いだろうが、この時期には、もう一つの大きな行事がある。神社仏閣に、詣でることである。新しく始まった一年に、様々なことを願う気持ちから、その願いを叶えようとする、気持ちの表れなのだろう。過ぎた一年を振り返り、反省に基づいて、新たな一年に、目指すべき何かを掲げる。願掛けとも言われるが、事ある毎の願いと違い、年始のものは、一年を相手にしたものとなる。日頃から、批判を繰り返し書いているから、神も仏もあるものか、と思われるだろうが、別に毛嫌いする必要はなく、皆と同じように、長い列に並び、頭を垂れることもする。反省は少ないが、願いはある。勝手なことだと言われそうだが、悪いことをやっている連中は、そんな意識を持つことなく、ただ、願いを並べるだけだろう。それに比べれば、勝手の程度も、大したことはないと思う。それにしても、国全体で、この行事に参加する人の数は、膨大である。毎年恒例の参拝者の数は、まるで競争のように、各地の有名な場所の名前が並び、その数を競う。百万単位の数に、大混雑を思い描くが、渦中の人々は、それを当然のこととして、長蛇の列が、遅々として進まぬ中を、願いを頭に浮かべながら、待ち続けるのだろう。効率の話をすれば、これ程の不効率はない。だが、そんな空気は、あの中では流れない。それ程の混雑でなくとも、近隣の神社には、それなりの列が出来上がる。大都会とか、有名な場所でなくとも、人々が集まることには、変わりがない。地域で一番集まる所との話が、後ろから聞こえてくるが、その数は、精々、万単位とのことだ。報道に係るものと違い、その程度の数かと、驚くけれど、神や仏のご加護などというものに、人の数は、何の関わりもない。お賽銭を入れ、頭を垂れながら、願いを浮かべるだけのことだ。