パンチの独り言

(1月9日〜1月15日)
(疑念、論理欠如、俺様、失格の烙印、勝手な論理、暴言の主、数の論理)



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1月15日(日)−数の論理

 介護事業に関して、様々な不足が、取り上げられている。特に、人口減少の問題から、社会を支える世代への、強い圧迫が、喫緊の課題として、注目されているようだ。だが、この話自体、何やら、筋書き通りの劇のように、展開を思い浮かべられると、思うのは、大きな間違いではないか。
 団塊の世代と呼ばれる人々が、高齢者の域に達することで、増加の速度は、急激に高まったと伝えられる。だから、不足を補う政策が必要であり、その整備が急がれている、とも伝える訳だが、不足は確かだとしても、それを補ったとして、その後に控える減少には、どう対応しようというのだろう。年代ごとの人口は、団塊の世代が過ぎると、急速に減少へと転じる。今足らないからといって、増やせばいいと考えるのは、その後の過剰を招くだけで、解決どころか、別の問題を生じかねない。一見、正当な理由に基づく、対策の整備のように映るが、実際には、現場では整備が進まず、歪みを増やすだけの対策で、数だけを整えることに終始していることから、次に起きる問題は、更に深刻なものになると、簡単に考えられる。にも拘らず、付け焼き刃的な政策ばかりで、根本解決を考えない風潮は、一部の人々が、利益を得るだけのものを、次々と用意するだけだ。その結果が出るのを待つ必要はなく、既に、様々な歪みが、現場で現れているのを見れば、課題は、見えてきそうに思える。しかし、ここでも、深く考えることもなく、数字を操ることだけで、解決を目指そうとする。このままでは、また、別の破綻が起きるだけだが、数字を操る人々が、自らの利益を追求するだけだから、問題が表出するまでが、稼ぎ期とばかり、儲け話を追い求めている。数は早晩減り始めるとしたら、それだけを見た対策は、無意味と考えるべきだろう。質の向上とは、何を目指すことなのか、しっかり考えるべきではないか。

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1月14日(土)−暴言の主

 弱者にとって、強力な武器となった、と言われている。自分の意見を、述べる機会も与えられず、ただ、他人に従うことを、強いられている、と感じている人が、弱い立場にある人の中には、沢山居ると言われる。画面に現れたり、紙面を賑わす人々と違い、彼らの意見が、取り上げられることは、殆ど無い。
 友人の間でさえ、意見を出すより、同意を示すことが、当然とされた人々が、ある道具を手に入れた途端に、多弁となったと言われる。だが、意見を述べることに、慣れていない人の話は、支離滅裂なことも多く、時に、身勝手なものが目立ってきた。その中で、人気を得る為の手法として、過激な意見を、好んで持ち出す人々が、世の中に溢れてくると、彼らの間での競争が、激化する場合も起こった。その結果、理路整然としたものより、論理の欠片もなく、感情を逆撫でするようなものばかりが、目立つようになった。冷静に読めば、馬鹿げたものに過ぎないものでも、被害者と思い込む人々にとっては、傷つけられるものにしか、映らない。そんなところから、批判の声が起きたけれど、非常識な人々の、愚かな叫びを、閉じ込めることは、この仕組みの中ではできない。法的措置も、雨後の筍の如く、次々に登場する暴言者や、姿を変え続ける常習者達には、全く効果がなく、歯止めがかからぬ事態を、変えることはできていない。そこに登場したのは、どういう事情かは、依然として不明なまま、力を得ることで、次期の権力者に指名された人物の、暴言の連続である。それまでの弱者だけの世界では、蓋をすることも、さほど難しくなかったが、今回は、元々、取り上げられる機会を、簡単に手に入れられる人物の、暴言の連続なのである。新種の武器のように、力を増した仕組みは、次に、どんな混乱を招くのか。やはり、受け手が、吟味力を備えるしか、方法はないのだろう。

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1月13日(金)−勝手な論理

 一部の人達にとっては、唯一の救いとなる言葉かもしれない。だが、多くの人々にとっては、混乱を招くだけの、危険な言葉となっているのではないか。カタカナで表される言葉の多くは、本来の意味が伝わらず、勝手な解釈が横行する。ただ、この言葉の場合、立場による違いが、大きい。
 ここまで読んできて、思い当たる言葉は、おそらく数多あるだろう。外来語の多くは、真の意味を吟味せず、一面を捉えただけのものとなり、誤解を招く場合が殆どだ。受け手の解釈の問題、とされるのは、そこでの結論だけで、他への影響が少ない場合であり、社会問題となる場合には、安易に片付けることは、より大きな悪影響を及ぼす結果を招き、混乱が広がることとなる。だが、被害者の感覚に基づく、解釈が全てとする考えは、この言葉の根本であり、大した被害を受けずとも、それを過大申告しようとする人々には、好都合な状況を産み出す。その結果、他に害を及ぼす、被害者を装う人々が、隠れた加害者となる訳だ。それに加担する人は、正義を装うばかりで、根本の理解もないから、解決へと結びつくことは、全くないことになる。支援とは、名ばかりのことであり、被害を広げる手助けを、目的としているに過ぎない。こんな状況が、社会全体に広がっているのに、依然として、放置状態となっているのは、誰もが、攻撃の的となりたくない、という心理が働くからだ。厳しい指摘が、いじめと捉えられ、害を受けたとの訴えに、厳しい罰を科すとなると、混乱は、拡大するしかなくなる。ハラスメント、という言葉が、使い始められた時に、多くの常識を備えた人々は、その論理性の欠如に、懸念を表明していた。ここでも、何度も取り上げたが、非常識な人間ほど、冷遇される社会では、その立場にある人々が、力を得る結果となり、どうにもならない状況となった。これが度を増すだけなのか、そろそろ、歯止めが出てこないと、社会制度自体が、崩壊することになる。

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1月12日(木)−失格の烙印

 いじめや体罰が発覚する度に、責任者が、謝罪を繰り返す。だが、何度も起きることを見れば、根本の解決が、得られていないことは明らかだ。ただ、加害者とされた人々だけでなく、被害者やその家族、更には、組織の人間、それぞれに、異なる問題があるように思える。
 自殺や後遺症など、被害者自身や周囲にとって、大きな傷を残したものについて、厳しい批判が集中するのは、当然のことのように思える。だが、結果だけに目を向け、そこまでの過程を、全て無視して考えるのは、どうかと思う。特に、加害者とされた人間や、組織にとっては、批判が集中するだけでなく、彼らを被害者としてしまう、暴力的な行為が、頻繁に起きるのを知ると、社会自体が、より大きな問題を抱えているのではないか、と思えてくる。誠意を見せろと、声を荒げるのは、被害の大きさを表すもの、という見方もあるが、何を誠意とするのか、また、謝罪とは何か、様々な疑問があり、容易には片付けられない問題が、あるようだ。その一方で、謝罪の仕方を、助言するのを、商売の一つとする企業が、現れているとの話を聞くと、既に、病状は、回復不能の状況にあるようにも見える。ただ、このことは、加害者が属する組織が、形だけの謝罪で、安易に片付けようとする雰囲気を、漂わせていることを、如実に示しており、反省そのものへの考えが、明らかに不足していることを示す。ある組織の長が、パワハラの話題を取り上げる際に、笑いを誘う話をしたり、笑いながら話すのを見ると、そんな人間では、解決には程遠い、としか感じられない。自虐的な発言さえ、不真面目としか受け取られず、失格の烙印を押されるのも、止むを得ない、ということだろう。確かに、被害者の横暴も、目に余るのだが、こんな態度しか取れない、責任者の存在こそ、社会の荒廃を反映したものと、言えるのではないか。

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1月11日(水)−俺様

 初めて聞いた時には、驚いた人も多かったろうと思う。お客様は神様です、という言葉を、ある歌手が口にした時、えっと思った人が多かった。だが、その後は、別のことで、驚くことになるとは、誰も予想しなかったのではないか。客に様をつけるのは、当時でも、当たり前だったのだが。
 敬称である、様という言葉を、対象に付け加えることで、相手を上に据えることは、顧客を相手にする場合に、重要な要素と考えられたようだ。だが、これを当然と捉えた人々が、様がつかねば、失礼にあたるとでも考えたのか、その後、何にでもくっつけ始めた時、違和感を覚えた人も多いだろう。例えば、病院で、患者様、と呼ばれて、どう思うのか。病気を治して欲しいから、病院へ行く訳だが、それが、客と同じように扱われると、どうしてなのかと思う。医者が偉そうに振る舞うことに、不快感を抱く人も多いが、診察して貰う為に、必要なことと諦め、頭を下げてきた人からすると、様を突然つけられても、おかしな感覚しか起きない。専門家に対して、して貰おうと思う気持ちに、敬称で呼ばれても、おかしな話だからだ。さすがに、面と向かって呼ばれることは、病院ではないのだが、事件の際に、病院関係者が発する言葉には、必ずと言っていい程、様が付いてくる。怪しさばかりが目立つと思うのは、あまりに穿った見方だろうか。同じように、専門家として、教え育む立場にある人々が、教えを乞う人に対して、様を付けたとしたら、変な感じがする。だが、今や、学生達を、お客様と同じと見做す人が、出てきたと聞く。相手の望むものを用意し、満足を得て貰う、というつもりかもしれないが、あまりの不見識に、呆れを通り越している。こんな人間が、現場で力を振るうとしたら、教育の場は、荒廃するしかないと思える。というのも、お客様という感覚が、商売の場でも、乱暴で非常識な振る舞いに、結びついているからだ。これと同じことが、学校で起きるとしたら、世も末としか言えない。

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1月10日(火)−論理欠如

 疑うことは、文句をつけることとは、明らかに異なる。が、これに気付かぬ人が、世の中には溢れていて、筋の通らない批判に、対応を強いられる側は、終わりが見えぬ展開に、疲労を隠せない。疑いは、元々、そこにあるべき論理に、どんな問題があるかを、指摘することから始まる。
 こんなところから、何度も取り上げてきた材料として、疑いと共に、論理性の問題がある訳だ。こちらも、筋が通らない話を、押し付けてくる人と、接する度に、強く感じられる。非論理的な話を、押し通すための手段は、感情に走ることが、一番のようだが、これと付き合うのは、とんでもない労力を必要とする。何を返しても、主張を変えない人の多くは、自らの意見に、筋が通っていないことに、気付かぬ傾向が強い。論理が、何故重要となるかについても、この手の人々は、理解できていない。相互理解には、互いに共通する要素が、不可欠となる。その際に、必要とされるのが、所謂、論理と呼ばれる筋道なのだ。これ無くしては、互いの理解は不可能となり、納得を得ることはできない。だが、現代社会で、激しく同意するなどといった、表現が度々聞かれるのは、何故なのか。こちらは、論理ではなく、感情に働きかける要素によって、得られる共感である。それでもいいと思う人が、多くなったことが、今の状況を招いた訳だが、これでは、感情の起伏に左右されるだけでなく、気が変わることによって、正反対の反応が出てしまう。味方が敵に豹変することが、屡々起きているのは、こんな事情によるところだろう。なぜ、こんな状況に陥ってしまったのか。理由の一つは、教育にあるだろう。できないことを、始めから諦めさせ、できることを繰り返し行わせる。失敗を恐れる風潮から、こんな手法が台頭し、人々の能力を、狭めてしまった。可能性を論じる一方で、こんな愚行を繰り返してきたことに、件の人々は、気付いていない。

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1月9日(月)−疑念

 疑ってかかることが大切と、何度も書いてきた。では、それが習慣となった人が、齢を重ねた時、猜疑心の塊となるのだろうか。誰も、そんなことは、調べていないだろう。元々、認知症となった人の中に、そんな言動が目立つ人が居たとしても、その原因がどこにあるのか、誰も気にしていない。
 特に、強調されている事例が、気配りとの関わりに注目しているから、逆の事例は、殆ど興味を引かないだろう。疑い深く、批判的な意見を出す人が、ボケてきて、怒りをぶちまけていたとしても、以前と大した変わりはない、と受け取られるのではないか。だが、覆いが外れることが、猜疑心の現れと、関係があるとしたら、認知症のように、様々な機能が失われることと、結びつく部分があるかもしれない。こんなことを書いても、誰かが調べてくれるわけでもなく、また、人間の脳が、複雑な機能の集まりであることを、考えに入れれば、単純な解釈など、通用するものではないだろう。だが、老化現象として知られるものに対して、何らかの対策を講じるのであれば、この辺りの変遷を調べておくことは、実は、大切なことになりそうだ。極端な変化は、確かに、見出し易いものだろうが、それだけに囚われていては、本質を見失うことになる。これは、疑いの元となる思考と、よく似たものであり、そんな形で、色々の事象を捉えてみることが、大切だということだろう。疑いを抱くように、考え方を改めた場合、重要となるのは、それが晴れた時の反応だろう。また、疑いを深めるだけでなく、晴らすための努力も、必要なのではないか。こういう思考回路を鍛えておけば、実は、ボケることも少なくなり、認知症と呼ばれる症状にも、襲われることはなくなるだろう。普段からの鍛錬が、様々に影響を及ぼすことに、気付くべきなのだと思う。

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