パンチの独り言

(1月16日〜1月22日)
(授けること、施し、投げ捨て、投げ捨て、後始末、不動、鎖国、転落への道)



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1月22日(日)−転落への道

 理由は判らない。けれど、画面に大写しにされた顔は、何故か、下賤なものに見える。金儲けを企み、私利私欲を追ってきた人間の、その表情には、信頼できぬ何かが、含まれているように映る。依然として、多くの人々の困惑が、漂う社会は、混乱への道を突き進むように思える。
 奇を衒った発言や、対抗馬を罵倒する、下品な言葉の連続、そんな特徴を持つ人間に、何故、あれ程の人々が、惹きつけられたのか、理由は定かとなっていない。二極化を好む言葉は、味方には、心強く響くようだが、豹変を得意とすることから、いつ何時、敵に回るかは、見えてこない。敵に回せば、徹底的に叩かれるだけに、皆が、戦々恐々とする気持ちも、解らなくもない。だが、最強の権力者となった今、彼は、何処へと向かうのか。未だに、明らかとなっておらず、将来への期待は、不安へと変わりつつある。それが、社会の混乱となって、嘗て無い程に、荒れた日々が続くが、自信を失いたく無い、件の人は、見て見ぬ振りを続けるか、あるいは、馬鹿にした呟きを続けるか、のどちらかになるだろう。それにしても、世界を取り巻く、この混乱について、人々は、どんな感覚を抱いているのだろう。心配性の人は、恐らく、大戦へと突き進む、悲劇の台本を、眺める気分となっている。その一方で、楽観主義の人々は、これを機会に、一儲けを企んでいるだろう。これ以下が無い程に、貶められている、と感じている人々には、明るい未来しか、見えていないのかもしれないが、極端な言動から垣間見える、極端な政策が、実行に移された時、取り返しのつかない、破滅への道を、歩み始めるのではないか、と思える。心配無用と思う人もいるだろうが、歴史が語るように、誤った指導者に導かれた国は、あっという間に、破滅の穴へと落ちていく。民主主義は、その危険性を避ける為の、唯一の手段だが、こんな状況で、期待通りの結果を出せるか、定かには思えない。

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1月21日(土)−鎖国

 独り言を書き始めた頃、先進国が抱える問題を、取り上げたことがある。安定した平和が、長く続いたことから、若い世代に広がった、ある病に関する話だ。無気力とか、脆弱性とか、そんな言葉が並び、次代を担う筈の人々が、その任に堪えられない、ように見えたのだ。
 年寄りが、若者達の心配をするのは、いつの時代も同じことで、自らの当時の姿を、思い出すことなく、ただ、批判的な目を向ける。これに対して、若者は、反発を繰り返してきたものだが、その反応が、鈍くなってきたと、溜息を漏らす人が、増えてきたのだ。従順と言えば、確かに、その通りかもしれない。だが、そこに見えるのは、ただ従うばかりで、自ら、問題解決に乗り出さない、無気力な姿だった。その上に、力強さが失われ、少しの圧力で、壊れてしまう人格に、周囲は、戸惑うこととなった。こんな問題に襲われたのは、先進国の殆どだったが、当時、例外となっていたのは、今度、新しい大統領が就任した、と伝えられる国だ。移民政策を持ち続け、夢を実現できる国として、貧しい人々の意欲が、満ち溢れていたことから、無気力とは無縁とまで、言われていた。その後、欧州の多くの国が、移民の受け入れを始め、一見、活性を取り戻したように思えたが、現実には、別の問題が起き、制限を導入しようとする動きが、高まっている。こうなると、活性化は頓挫するだろうし、以前の問題に、逆戻りすることになる。では、件の国はどうなるか。選挙の最中から、諄いくらいに、同じ言葉を繰り返してきた人物は、就任の席でも、同じ言葉を繰り返し、強い国を取り戻すと強調する。だが、これまでに築いてきた優位は、正反対の政策によるものであり、元々、先住民を除けば、全てが移民という国である。それを、閉鎖的な政策へと転換したら、どんなことが起きるのか。すぐに見えてきそうだ。

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1月20日(金)−不動

 新しい環境に適応する。当たり前と思う世代と、そうでない世代が、明確に区別されると言われる。そうでないと言っても、必ずしも、何の変化もしない、という意味ではなく、それに困難を感じ、強いられることに対して、過剰な反応を示す、というもののようだ。
 この現象がはっきりと表れているのは、おそらく、職場環境だろう。入社当時、厳しい変化に対し、対応仕切れない、と感じた人は多いだろう。だが、そんな中で、新環境に対して、自分を合わせよう、と努力した人の方が、遥かに多かった。ところが、最近の傾向は、全く異なる方を向いている。適応を、必須のものとは考えず、自分のやり方を、残そうとするものだ。貫く程には、強い気持ちがある訳ではなく、変化を嫌い、そこから逃避しよう、とする動きが、この心理を働かせている。その為、その場に止まり、新しい場所へと動くことはない。となれば、組織の中では、様々な不都合が生じる。そこから、上司達は、指導という名の下に、働きかけを施すが、これが、最近は、禁止行為とされる場合が多い。できないことを、できるように、というやり方は、人の精神を蝕むもので、これにより、破壊されたものは、二度と回復できない、とされる訳だ。上の世代の人間からは、何を大層な、という意見が出るが、当事者が、被害を受けたと訴えれば、それが通る時代だからこそ、こんな気楽な考えは、排除される運命にある。それにしても、何故、こんな事態に陥っているのか。最大の要因は、平和が続き、安定が当然となっているから、という点にある。こんな中では、成功を手に入れることより、失敗をしないことの方が、遥かに大きな利点となるらしい。新しいことを始めるより、何もしないことの方が、評価が高い筈もないのだが、渦中の人々は、そんな考えに囚われる。その一方で、閉塞感が高まっており、打開策が待たれている。この矛盾、何とも不可思議なものだが、現実なのだ。

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1月19日(木)−後始末

 大震災の後、どんな変化が起きたか、いつ頃、総括がなされるのだろう。津波に関する話は、その中でも、比較的早く、結論が出されつつあるものだが、それでも、その結論が正しかったかどうかは、おそらく、ヒトの寿命を上回る期間が、必要となると予想される。
 様々な対策が講じられ、実際に動き始めた所もあるが、その効果の検証には、同程度のことが、起きなければならない。災害を待つ、という表現は、忌み嫌われるものだが、検証とは、まさにそのことであり、それが出るまでは、準備段階でしかない。同様に、地震が起きる可能性に関する、見解の変化についても、専門家と呼ばれる人々の、方針変更によるものだが、確率が適切なものだったかどうかは、事が起きて、初めて分かるものだし、確率で論じるなら、一度や二度の事象で、結論付けられるものではない。たとえ、三十年などといった期間を、設定した上での確率でも、時間の経過と共に、数値は変化を続ける訳だから、確定することは、有り得ないとなる。では、何を根拠とすればいいのか。実は、何もないと答えるしかないようだ。一方、津波の影響から起きた、事故により、機能停止に陥った発電所に関しては、目の間に、問題自体が横たわるだけに、解決への道筋は、明確に示される必要があるとの、意見が多い。だが、これとて、不確定なものが多く、安易な批判が、次々に出されるのに比べ、解決策そのものについては、確実と思えるものは、余りにも少ない。批判したり、制度自体に反対したりと、無責任な人々の、責任を感じたかのような、言動は、数えられない程に増え続け、仲間の存在を、心強く思う人々は、過激な発言を繰り返す。先日読んだ本の中には、そういった動きより、ずっと重要な事柄が、数々紹介されていたが、その手の人々は、こんな情報でさえ、我が意を得たり、とばかりに、引用するのだろう。的外れなものとも気付かずに。

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1月18日(水)−投げ捨て

 誰もが、自身の意見を述べる機会が、得られる時代と言われる。ところが、その一方で、自由な意見交換が、妨げられる時代、との見解が示される。右と左の違いなど、最近は、興味が持たれないようだが、そこでも、圧力がかかっているのが、原因であるとの指摘もある。
 どれもこれも、勝手な見解に過ぎないのだが、そんなものが、簡単に流布される一方で、確かな意見は、日の目を見ない状況が、生まれているようだ。如何に耳目を集めるかは、意見の真偽によるもの、とされたのは、遠い昔のことだろう。今や、注目を集める為に、嘘は必要であるとの解釈さえ、実しやかに述べられる程、人間の信条は、劣悪化してしまった。何の根拠もなく、ある主張を貫くことは、厳しい批判に曝されることから、憚られた時代もあったが、今は、根拠の必要性が、議論されることなく、思ったことが、すぐに口に出せる時代と言われる。主張の根拠に、「そう思ったから」とか、「こんな風に考えた」とか、脆弱というより、皆無と思えるようなものが、振り回されるのである。感情に基づく意見に対して、反論も、同じ土俵に降りることとなり、無意味な議論が続けられる。他人の思いを否定しても、それを無くすことはできない。根拠が、客観性を持つのなら、反撃も可能だろうが、これでは、取りつく島もない。そんな時代に、細々としたことを指摘し、論理性を重んじる姿勢で、意見を述べる人々が、人の関心を呼ぶことはない。見世物にも似た、猿芝居を演じさせる、下劣な番組が流れる中で、そんな人材は、無用のものと捨てられるのも、当然のことだろう。では、彼らが生き延びる道は、あるのだろうか。おそらく、このままでは、死語ならぬ、死人に口無し、といった事態となり、正当な意見交換の機会は、社会から奪われ、勝手で、一方的な、意見発信のみとなり兼ねない。それでいいと思う人が、大多数を占めてしまえば、そうなるのだ。

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1月17日(火)−施し

 機会を失わせない、という趣旨なのだろうが、どうも、解せないことが多い。性別による違いを、職業の上では、打ち消すような方策に、歓迎の声が、一時は高まったものの、平等という観点から、不十分という声は、無くなることがない。歴然とある違いに対して、どうしたいのだろう。
 本来は、機会を失わせない、という趣旨だったのだが、いつの間にか、それが、平等という観点と、すり替えられる。同じことと思う人もいるだろうが、実は、全く違った見方なのではないか。機会を得るまでの段階では、確かに、違いを生じないようにするのだから、平等と見ることもできる。だが、その後の展開にまで、全てが同じとしようとすると、歪みが出てきてしまうのだ。では、貧富の差にも、同じことが当てはまるだろうか。こちらは、かなり事情が異なるように思える。進学の機会に対して、この差が反映されないように、との配慮が、社会で整備されつつある。新たな奨学制度の導入や、授業料の減免など、様々に、整備が進んでいるけれど、肝心の機会に対して、現場では、大きな温度差が、現れ始めているようだ。家庭の事情として、以前なら、安易に片付けられていて、それを乗り越える為には、かなりの努力が必要とされたが、今は、その壁の高さは、徐々に下げられつつある。意欲を示す人々にとって、歓迎すべき変化となるが、流れに乗って、別の意識を持つ人々にまで、恩恵は降り注ぐこととなる。それを機会に、新たな意欲が、芽生える可能性は否定できない。だが、大部分は、無駄な努力を招き、挫折へと結びつく。結果として、無駄な金と時間が、費やされることとなるが、そのことに関して、機会均等を目指す動きは、目を向けることなく、分析も行われない。ある程度の無駄は、仕方のないものとの見方から、こんなやり方が横行する訳だが、余裕のない時代には、破綻を来しかねない。

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1月16日(月)−授けること

 教育の迷走ぶりには、呆れるのを通り越していると、思えることが多い。力を信じることは、何かを成す為には、重要なことには違いないが、成果が上がらぬままに、いつまでも、呪文のように唱えるのを見ると、自信ではなく、過信としか思えない。何ができると信じているのやら。
 教育に関する記事が、週の始めの特集となっている。その中に、「大学で教えるべきこと」として、ある私立大学の学長が、寄稿していた。無難な内容だからこそ、目新しい所は無い。こんなものは、何の役にも立たない、との批判が起きるだろうが、この当たり前を、実施しないままに、下らないことばかりを、教えている所がある点にこそ、大きな問題がある。その記事の下に、「目先の即戦力」を、問題視する意見が載っているのも、付け焼き刃を実施し、すぐ役に立つ知識を、伝授することを自慢する、一部の大学を、批判する姿勢が出ている。企業という現場において、常識を備えぬ人材は、昔から有り余る程居た。それでも、少し刺激を与えれば、それらしく変貌したものだった。だが、今や、即戦力を前面に押し出す人材が、鳴り物入りでやってくるが、鍍金が早晩剥がれるだけでなく、地金がボロボロだからか、鍛えることができない。こんな欠陥品を、市場に送り出すとは、という批判が、企業から大学に突きつけられるが、学生をお客様などと思い込む、劣悪大学には、別の付け焼き刃を持ち出すだけで、根本的な問題解決を、行うだけの力はない。そこに、当然の意見を掲げることが、どんな影響を及ぼすのか。実は、期待薄なのだと思う。同じことを目指し、日々努力を重ねる人々が、教壇に立つ所でさえ、受ける側には、向上心など見えず、資格を欲しがるのみである。こんな連中を、目の当たりにして、肝心なものが何かを示し、それに関しては譲る所はないと、毅然と臨むことこそ、本来は重要だが、大学の幹部達が、彼らを重用しないようでは、末世が続くとしか思えない。

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