機会を与える。良い響きと捉える人が多いが、声の大きさはさほどでないものの、反対意見は、根強く残る。教育には、金がかかるとの話に、異論を唱える人はいない。では、ただほど高いものはない、という話についてはどうか。機会を与える為には、無料化が一番の方法に思える。
外国で、そのような仕組みがあるのだから、この国でも、可能な筈と考えるのは、安易に過ぎるようだ。これまでにも、こんなことは度々行われており、失敗も数多く記憶に残る。懲りもせず、と思えるのは、こういう話を持ち出す人の多くが、その国での実態を調べぬままに、制度を導入しようとすることで、社会制度自体が異なる場合や、国民性の違いを、悉く無視するからだ。無料とする前に、厳しい選抜が繰り返される環境と、殆ど野放しのように、手を上げれば実現するような、安直な世界とで、どんな違いが生じるかを、考える気がない。そのままでは、破綻するしかない状況でも、導入という手柄を得たい人々は、後先考えずに突進する。一方で、金で片付けたのだからと、大した障壁もなく、資格を与えることへの是非も、昔から話題にされながら、解決の糸口さえ見出せない。そこへ、機会を与える話が出てくるのは、貧乏な人々が、金持ちが金で片付け、努力なしに手に入れられる資格に、疑問を抱いただけなのかもしれない。だとしたら、その気楽さを、分け与えよという話に過ぎず、手を貸すのは、間違いに違いない。熱意があれば、違う機会も手に入る、と言われた時代も、遠い昔となったからか、熱意もなく、権利を得たい人間に、手を貸そうとする人間が出てくる始末、はてさてと思う。ただ緩めるだけの姿勢では、弛んだ人間を増やすだけで、良いことは何もない。今の世相は、優しさという名の下に、暴挙が罷り通る、野蛮な時代に戻りつつある。
いじめが社会問題として扱われ始めたのは、半世紀近く前のことではないか。これほど長い間、問題として取り上げられていながら、解決の兆しが見えない、とされるのは、何故なのだろう。原因の一つは、表面的なことに囚われ、問題の根っことなるものに、気付いていないことにある。
個々の事例を分析し、その原因を明らかにする。そんな動きがあることから、問題の核心を捉えることが、できるものと信じる人は多い。しかし、これ程多くの事件が、様々に取り上げられるのに、解決の糸口どころか、原因そのものさえも、見出せていないことに、多くの人が気付いていない。個々の事例の加害者と呼ばれる人々を、厳しく批判し、糾弾する動きは、毎度お馴染みの形で、進められるが、それが、解決の道筋を、隠すことになることも、同じように、気付かれないようだ。その後、いじめの舞台は、若年化の勢いが止まり、逆に向かい始めた。海の向こうからやってきた、ハラスメントという考えが、いじめの範疇を急速に広げ、更に、問題は深刻化してしまった。解釈の問題など、理解不能なままで、扱いに窮した人々は、腫れ物に触るが如く、原因に近づくより、距離を置くこととなった。被害者救済と称する、加害者いじめは、その勢いが強まり続け、加害者が被害者に、役替することが、度々起きるようになっている。何故、このような展開になるか、問題が正しく理解されていないからだ。被害者の勝手な解釈も、大きな問題を招いているが、実は、関係者の変化を、眺めてみると見えてくることがある。被害者が、時に、加害者となることが、その一つだ。自分が、いじめられている時には、その詳細を訴えるのに、逆の立場になると、殆ど見えていない、という現状に、驚かされることが多い。ここに、問題を生じる心理があり、主役は、いじめの被害を受ける人だとわかる。だとしたら、何をすべきか、少しはわかるのではないか。
予算の無駄遣いを減らそうと、見直しが断行されたが、手間の割りに、節約は出来なかった。収入が期待できない時代に、見直しに基づく節約は、唯一の手段のように扱われるが、何度やっても、巧くいかないことから、根本的な問題が、見えていないのではないか、と感じられる。
誰もが、財布の紐をきつく縛る中、更なる投資を促すことは、難しい問題となる。個人を対象とした、徴収率の増加は、強い反対を招くから、どの政権も、決断しようとしない。その一方で、組織に対するものにまで、同じ感覚が当てはめられ、こちらも、歓迎される動きばかりに、注目が集まる。全てが減る方に向かえば、減収は当然の結果である。考えるまでもない話に、誰も疑問を抱かないのは、自腹が痛まぬ状況だからだろう。だが、将来への投資も含め、今、注ぎ込まねばならないことに、元手がないからと、先送りすれば、何が起きるかも、火を見るよりも明らかなもの、ではないだろうか。では、どうしたらいいのか。減らせばいいという意見を、まずは無視する必要がある。増収の為には、どこかを増やさねばならない。だが、多くを相手にする、個人対象のものには、あまり手をつけたくないだろう。だとしても、一つだけあるとしたら、それは、率の増加ではなく、額の増加であろう。つまり、同じ税率でも、それに掛け合わされる、給与の数値を上げれば、額が増えるという話だ。それを、目論んだものが、企業への昇給の呼びかけだったが、何の働きかけもなく、声だけかけたとしても、何も起きる筈はない。では、給与を増やさせる為の方策には、何があるのか。企業に対する法人税を、増やしてやるのが、その一つだ。こちらは、率が上がれば、それに掛け合わされる、利益を減らすことが、納める額を増やさない為の、方法となる。だとしたら、従業員に、分け与える形での、昇給が実現できるのだ。この図式、何もおかしなところはない。
部下に仕事をさせない。これは、ハラスメントと認定される。一時期、窓際族などと呼ばれる人が、多くの企業に現れた時、こんな問題を、取り上げる人は、一人も居なかっただろう。年功序列で、給料だけが上がり、能力が伴わない人間の扱いは、この方法しかない、と言われていた。
変われば変わるもの、と表現するしかない、のかもしれない。能力の高さに応じて、与える仕事を選ぶことが、上司の責任の一つ、となった訳だ。だが、ノルマとは違うとはいえ、企業や組織にとっての、達成目標を、設定しなければならない状況には、何の変化もない。その中で、不十分な力しか示せぬ人々を、どう扱うかは、現場での最大関心事となる。正規雇用でない人々から、不平不満が噴出するのも、こんな状況がある。能力給であれば、簡単に解決する問題だが、力がないからと、下げれば下げたで、不当な扱いという切り札が、突きつけられる。矛盾に満ちた状況に、現場の混乱が、収まる気配は全く見えないが、それに輪をかけるような動きが、ハラスメントという形で、起きている訳だ。上から見れば、こんな状態なのだが、下から見ると、もっと悲惨な状況がある。ハラスメントを強調する上司ほど、自らの常軌を逸した行動に、気付かないということで、全体の均衡を考えず、場当たり的な措置を繰り返すことで、矛盾が積み重なり、現場は大混乱に陥る。気付かぬ人間は、更なる暴走を続けるから、混乱は、継続するばかりか、高まるばかりとなり、収拾は、遠ざかっていくばかりだ。不平不満が噴出すれば、まだ救いがある。こんな状況で、居座り続ける上司は、そのことさえ、許さぬ措置を下すから、爆発という、過激な事態が起きるまで、走り続けることとなる。こんな事態に、解決の方法は、あるのだろうか。現場の悲鳴が聞こえるようだが、一つだけある。件の上司を、免職することだ。
経験に、ものを言わす、という生き方を、実行している人は、どの位居るのだろう。未経験だから、と遠慮していた姿勢が、経験した途端に、大きく変化した、という「経験」を持つ人は多い。だが、少し考えてみると、その前後で、大した変化が起きた訳でなく、ただ、自信ができただけのようだ。
知識や考え方には、変化がないままでも、全く違う態度が、取れるようになる。そんなところに、経験は、最も大きな影響を及ぼす。だから、という訳でもないだろうが、何も新しいことを、取り入れることなく、ただ、経験をさせよう、とする動きが、巷に溢れている。劣悪な企画でも、現地に赴き、そこに居たことが、経験となる訳だから、それだけで、十分となる訳だ。更に、自信を深めるだけなら、何も目新しいことがなくとも、問題なしとなるから、こんな企画は、どんどん劣悪化しそうだ。そんなことを思うと、学校に入る前や、会社に入る前の、あの経験は、まさに、その一つと言えそうだ。ほんの短い時間とはいえ、そこに居たことが重要となれば、参加は、重要な役割を果たす。だが、経験したからといって、彼らに、何が分かったのか、という点に関しては、あまりの拙さに、無駄と受け取る人も多い。元々、本番前に、何かを分からせたい、という考えから、こんな試みが始まったのだが、今では、経験に飢えた人々が、群がる企画となっている。その結果、人は簡単に集まり、簡単に経験でき、どちらの側も、満足が得られる、ということとなる。だが、こんな茶番で、済ませられないことがあるからこそ、こんな試みが、始まったのではないか。だとしたら、全く違う方に向かっている、のではないか。まあ、所詮、絵空事に過ぎず、舞台で演じられる劇のようなもの、と思えば、それだけのことだが。
学ぶ為に、経験に勝るものはない、という文句が、画面から流れてくる。その正しさを、実感したことのある人が、多いからこその、謳い文句なのだろう。だが、反対の表現は、どう映るだろう。経験していないから、信用できないとか、意見を述べる資格がないとか。
この意見を、聞いたことのある人は、多いだろう。自分と違う意見を、排除する際に使う人が多く、実際に、経験したこともないくせに、知ったかぶりをする、といった表現が、付け加えられることが多い。経験こそが、学びの手段となる、という意見に、賛成したからといって、こちらの意見にも、という訳にはいかない。誰もが、限られた時間しか、手にできない中で、全てを経験に基づいて、としたら、議論の機会は、殆ど得られなくなる。未経験で、現場を知らずとも、それとは違う経験に基づいて、比較からの意見を出すことは、可能だからだ。それが、たとえ、的を射ていたとしても、経験者達は、異論を排除しようと、未経験という根拠を持ち出す。だが、意見が正論かどうかは、そんなところには、依らないのではないか。本質を見抜く力さえあれば、全てを経験せずとも、示された事例から、ある程度の推測が可能となる。そこに、論理性が加われば、確かな意見を、構築することは、それほど難しくない。正論であれば、反論の余地が見出せず、経験者達の意見は、未経験というものしか出てこない。的外れではないだけに、これに頼る人が多いが、対等な議論を、保証する為には、この展開を避けることが、最も重要となるのではないか。取りつく島がない、という形での、反対意見には、次の展開は期待できない。ピシャリと、窓を閉めてしまっては、肝心の話し合いは、成立しないこととなる。経験の有無も、重要な要素だが、それに拘らず、自由な意見交換を、促してこそ、なのではないか。
寄らば大樹の陰、とはよく言われるが、今、何が大樹なのだろう。力を持つ者、という考えには、何の間違いもないのだが、権力の座に、居座り続けることは、困難を伴うと思われる。となると、権力者にすり寄ったとしても、効果を上げ続けることは、簡単ではないとなる。
年功序列が当然の時代には、跡を継ぐ者も、自然に決まっていたから、すり寄ることに、難しさはなかった。だが、下克上だけでなく、様々な要因から、力関係が、激しく変動する時代には、誰に与するかで、その後の展開が一変するだけでなく、成功か失敗かの、二つに一つの選択のように、なることが増えた。本来であれば、権力ではなく、実力に与すればいいのだが、それを見極めることが、難しいことから、見かけに惑わされることとなる。権力は、当然、地位に反映するのだから、より高い地位にある人の、流れに乗っておけば、安心という訳だ。それに対して、実力の方は、そんな簡単な見分け方がある訳でもなく、細々と分析した上で、判断を下さねばならない。能力さえあれば、苦もなくできることだが、多くの人は、それを鍛える機会も得ず、ただ漫然と暮らすだけだから、無理をしようにも、手がかりさえ掴めぬこととなる。だからこそ、大樹を探し、組織だけでなく、人の後を追うこととなる。では、今、世界で一番の力を握っているのは、誰なのか。そんな存在は、ある筈もないのだが、仮想的に、そういう存在を据えて、色々な動きが進められている。事を単純化した結果に過ぎないが、鵜呑みにする人々は、信じ込んでいるようだ。一方で、世論を動かすとまで言われた、報道に携わる人々も、質の劣化に従い、その力を失いつつある。調査による分析は、その典型例だろうが、何が変わったというのだろう。この疑問が解けぬまま、数字に頼ることを止めるらしいが、では、何を根拠としようするのか。