パンチの独り言

(1月30日〜2月5日)
(発言の自由、恥晒し、見極め、毛嫌い、泰然自若、恵方、排他主義)



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2月5日(日)−排他主義

 根本的な解決を、放棄したのだろうか。子育てに、様々な支援が必要と、毎日のように、新たな対策が報じられるが、解決への道は、遠いものと感じられる。容易でない課題だからこそ、次々に新案が飛び出し、歓迎の声が上がるが、早晩、忘れ去られることとなる。
 ただの思い付きではなかろうが、それにしても、現れては消える状況に、根本解決は、不可能と思えてくる。子育てに加わる人々が、新たな対策に期待するだけで、自らが乗り出す姿勢が見えぬことに、一部から不満の声が上がるが、社会の中での弱者のように、扱う風潮の下では、理不尽な批判と扱われる。これまでの長い歴史の中で、何の問題もなかったとは思えぬものに、これほどの注目が集まる背景には、高齢化や少子化などが、重大な社会問題として、扱われていることがあるだろう。進行が早まることが、問題を更に深刻にし、喫緊の課題として取り上げられる一方、大衆の個人主義は、極端と思えるほどにまで高まり、自己中心的な考えを、社会を対象にしてまで、貫こうとする。その結果、「お互い様」という考えは、すっかり忘れ去られてしまい、自分の利益を優先した結果、自分さえ良ければ、という風潮へと繋がる。実際には、弱者優先の考えと個人主義が、組み合わさることによって、問題が深刻化している訳で、これらの扱いに関して、考え方を改めない限り、解決するなどできない、と思われる。ところが、社会は、そんなことに気付く気配はなく、ただ、目の前の問題の解決に、躍起となる。公園に保育所を設置する案が、馬鹿げたものだと言うつもりはない。だが、一時的な応急手当で、子育ての環境が整うと思うのは、余りに安易な考えではないか。子供を歓迎せぬ社会に、将来などあり得ないと、個人の利益を、二の次にしなければ、将来など見通せる筈はない。税金の使い方も、同じことだ。

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2月4日(土)−恵方

 ある地方を発端として、全国に広がってきたものだが、習慣と呼ぶには、まだ熟していない気がする。健康を願う気持ちは、誰もが持つだけに、その為に役立つこと、などという謳い文句は、魅力的に映るのだろう。昔から、豆をまき、鰯を食い、柊を掲げてきたのだが。
 古い習慣の一部は、すっかり忘れ去られたのに、そこに、新たなものが加えられる。菓子を配る習慣と同様に、関係者の目論見が、前面に掲げられているが、商売第一とのご時世からか、拡大の速度の増し方は、尋常でないと思える程だ。だが、注目を浴びる前、一部の地域で行われていた頃でさえ、意味不明な内容に、首を傾げていたのを思い出すと、何故、このようなものが、風習として広がるのか、と思えてくる。こんなことは、毎年、次々に起こされているが、生き残るものは少ない。その中で、太巻きが、人々の関心を呼んだのは、何が要因なのだろうか。それも、普段、助六という形で、稲荷寿司と共に供されるものとは、随分違ったものが、主体となっているようだ。大衆食として、助六は、昔から好まれてきた。その名の所縁は、歌舞伎の演目なのだそうだが、興味のある人は、検索してみればいい。語呂合わせのような話や、姿形からくる話など、諸説あるようだ。何れにしても、大衆食では儲けが薄いとばかり、ご利益には、高級感を加えることも必要と、保存食の姿に見合わぬような、鮮魚を取り入れたものが、作られている。この辺が、儲け話の一端を感じさせるが、流行の先端という意味では、更なる話題性も必要なのだろう。豆や鰯に、金に絡む話があるとは思えないが、現代は、謂れより、商売が優先されるから、こんな展開が起きているのだろう。

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2月3日(金)−泰然自若

 悪ガキが、一つの国の頂点に立つ。こんなことが、現実に起きるとは、本人も含め、誰も予想しなかった。などと、今更のように、溜息交じりの愚痴をこぼしても、何にもならない。それより、傲慢で、独善的な人間と、どう向かい合うかが、肝心なのではないか。
 大人気ない、などと窘めても、どこ吹く風と、独り善がりの発言を続ける。真意を探ろうと、躍起になる人々が居る一方、間違いを指摘して、黙らせようとする人が居る。だが、発言自体に、責任が問われない状況で、罵り合いが激化する以外に、何が起きるというのか。自由な発言が、暴言や放言となる度に、倫理観や道徳観の欠如が、問題とされてきたが、現実には、武器を与えておいて、その使用を禁じたとしても、成り立つ筈のない制限と、なるだけなのだろう。たとえ、頂点に立ったとしても、その人間の本質が、変貌する筈もなく、生来の独善性が、より高まったにすぎない。揚げ足を取るやり方も、罵倒の連鎖を導くだけで、下賤な顔つきが、更に品を下げることになるだけで、不快感が増すだけでなく、それを端緒として、不安が募り始めかねない。新しい武器の普及に、どう対処すべきかは、少しずつ議論されてきた所だが、未だに、解決法は見出せていない。一つだけあるとしたら、おそらく、正論を流し続ける、あるいは、正しい情報を流し続ける、という方法だろう。間違いを指摘しても、無知な連中に、それが理解できる筈もなく、特に、権力を手に入れた人間には、自らの地位を危うくする、批判にしか映らない。この遣り取りが、更に熱を増すと、おそらく、力の行使へと、状況が変わるのではないか。そうなってしまうと、独裁者の誕生となり、諌めることも、不可能となる。相手を大人と見做す必要はないが、こちらが大人であることは、明示しなければならない。

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2月2日(木)−毛嫌い

 マスコミは信用できないから、呟きを続ける、ということらしい。根拠のない放言も、以前なら、呟くことくらいしか、できなかったのに、今や、大々的に取り上げられ、批判の矢を放たれる。時に、非常識や不見識、更には、無知との指摘があれば、嘘吐きと断じたくなるのだろう。
 不特定多数の呟きが、現場に混乱を招いた時、それを抑え込むことの、難しさが指摘されていた。仕組み自体が、自由を保証するものだけに、問題が起きたからと、規制をかけることは、不可能だからだ。そこで、全く異なる見方から出されたのが、信用できる呟きを、提示しようとするものだった。かなりの効果を期待する向きもあったが、実際には、注目を浴びることなく、信用の保証の為に、慎重さを気にすると、速報性が損なわれ、結果的に、偽情報の洪水を食い止めることが、できないものとなった。同時進行としてのものを、優先すれば、不確かなものとなるが、それでも、速さを競う必要があるとの見方から、最近は、現場中継の如く、多くの情報を、流す方針をとっているらしい。垂れ流しと揶揄される場合も、あるようだが、それでも、無言を続けるよりは、ずっとマシということだろう。一方で、始めに書いた人物は、相変わらず、不確かなことを、断定的に書き続けている。これも、公式のものとなり、無視できないものとなれば、騒ぎは大きくなるばかりである。問題点を、一々取り上げれば、信用できないと、更に呟くだけで、会話は成立していない。呟きの仕組みが、信頼を勝ち得たからといって、正しい情報が、手に入る訳ではない。発言者本人が、無知であれば当然、思惑に満ちていても、同じような結果を招く。下品さを増すばかりの人間に、国が振り回される事態に、果たして、どんな対応が適しているのか。一つ一つ、地道に応じるしかないのだろう。

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2月1日(水)−見極め

 昨日の話について、どんな感想を抱いただろうか。実は、ああいった非常識が、数字に騙される、きっかけとなることに、多くの人々は、気付いていない。だからこそ、何度も騙される訳で、騙す側は、彼らの欠点を突く、戦略を立ててくる。防ぐ手立ては、常識を身に付けるしかない。
 数字の大小で、筋書きを作るのは、騙す側の得意技となる。大小関係では計れないものを、そういった指標を当てはめることで、恰も、明確な違いがあるかの如く、扱う訳だ。それにより、大きいものが、小さいものより、より良いもののように、見せかける。例えば、心理的な要因は、数値化したとしても、その差が歴然とすることは、殆どない。にも拘らず、敢えて、そこに差があるかのように、示すことで、自らの主張を、正当化しようとする。その目論見を砕くのに、大した手間は、かからない。単純に、その指標の当てはめ方が、間違っていると指摘すれば、良いだけのことだ。ところが、多くの人は、その問題に気づくことなく、そこから導かれた結論を、鵜呑みにする。事実によるものではなく、関係者の創作によるものを、数値が加わることで、事実と受け取ることに、疑いを挟むことなく、進めてしまうことは、大きな害を被ることに、なるかもしれないのに、だ。数字の大小についても、その差を見極めてこそ、意味を正確に理解できるのに、その能力のない人は、誤解をしたり、鵜呑みにしたりと、被害を受けることになる。だが、これらの多くは、実は、自らの能力を高める努力を、怠ったことによるものであり、別の言い方をすれば、自業自得ということになる。被害者となることで、救いを求めたとしても、何度も繰り返されるようだと、キリのないこととなる。数字に対する感覚を、正しく身につけてこそ、身を守ることができることを、もっと正しく伝えるべきではないか。

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1月31日(火)−恥晒し

 次の言葉を聞いて、どう思うか答えて欲しい。「今日の気温は、昨日に比べて半分の温度になりそうです。」変だと思わない人も、居るに違いない。井戸端会議での話なら、仕方ないと諦めるが、これが国家資格の一つ、気象予報士のものとなると、態度を一変させる必要がある。
 温度は数値で表されるから、数字の大小を考えれば、二倍とか半分といった表現が、当てはまるものと考える人も、居るだろう。だが、数字は値を表す為に使われるのであって、大小関係は、その結果として出てくるだけなのだ。温度は、ある基準を設けて、そこに刻みをつけ、数字を当てはめる。摂氏で言えば、水が凍る温度を0とおき、沸騰する温度を100とおいて、その間を等間隔に刻む。この刻みは上にも下にも伸ばすことができ、0よりしたには-の記号をつけ、下がるほどに大きな数字で表す。これ以外にも欧米の一部で使われる、華氏温度がある。ここまで読んできて、どんな感想を抱くだろう。依然として、何もおかしな所はない、と思う人も居るだろうが、そろそろ気付く人も、居るのではないだろうか。つまり、数字は便宜的に当てはめられた、大小関係を表すだけで、絶対的な大きさを表すものではない、ということだ。重さや大きさであれば、数字は、二倍なのか、半分なのか、を表すこととなるが、そうでないものには、この考えは当てはめられない。にも拘らず、この予報士は、うっかり、誤った表現を用いた訳だ。せっかく取得した資格が、これだけで失われるとは思えないが、こんな非常識が許されるとは、とても思えないのではないか。

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1月30日(月)−発言の自由

 政治家という人種は、元々、根拠のない話を、平気で吹聴するものだった。それでも、人前で発言すれば、皆が傾聴するだけとは限らず、意見が戻ってくることもあり、その場での修正を、余儀なくされることがあった。だが、一方的な発言の仕組みを、彼らが利用した結果、妄言の洪水が起きた。
 人の目を気にすれば、極端な発言は、自ずと抑えられる。だが、そんなことを気にかけぬ、独裁的な経営者は、持論を展開し、収益を上げれば、どんな発言も意見も、通用するものと考える。こんな資質を持つ人種が、掛け合わされたような存在にとって、今、世界が混乱に巻き込まれている状況は、想定内のものなのかもしれない。たとえ、それまでの嘘がバレて、馬脚を現したとしても、立場は、経営に当たっていた時と同様に、確固たるものである。弾劾に至ることは、ほぼないものと見做され、暗殺でもされない限り、手に入れた地位を、失うことはあり得ない。その上、検証を行おうと、躍起になっているマスコミも、これまでの行状から、世論の支持が得られる訳でもなく、綱引きは、膠着状態に陥りそうな気配だ。互いの勝手な発言に、振り回されるのは、自業自得だろうが、周囲が巻き込まれるのは、迷惑千万だろう。こんな状況が、長く続く筈もないのだが、混乱は、各所に広がり始めており、無理難題が、突きつけられている場合も多い。新たな政策が、どれほどに無理筋のものかは、暫く様子見すれば、見えてくるものだが、その余裕が続くかどうかが、そろそろ、重要なものとなりつつある。だからと言って、今更、あの人物の暴走を、止めることは不可能で、少なくとも、四年の間は、見守るしかない。それでも、議会が頑張れば、との意見もあるが、妄言を止めることは、不可能だろう。自由を制限しようとする人間が、一方で、自由を謳歌するという、不均衡に関して、社会はどんな反応を示すのか。

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