パンチの独り言

(2月6日〜2月12日)
(不平等、捩じ曲げる、動かぬ、人材登用、緩慢、意外な展開、任命責任)



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2月12日(日)−任命責任

 本人が、意識的にやっているとは、とても思えない。様々な組織で、話題となる、上司による差別的な行為、所謂、パワハラ、と呼ばれるものだ。もし、これが、意識的なものだとしたら、犯罪という問題だけでなく、下劣な人間の行為であり、精神を病んでいるのかもしれない。
 それほどに、執拗な圧力は、直接間接に、標的に浴びせられる。力と言っても、実力と呼べるものでなく、単に、地位の違いから来るもので、逆の見方をすれば、実力が劣るからこその、悪足掻きとも呼べるものだろう。力の劣る者を、吊るすが如くの、残虐な行為も、厳しく罰するべきものだが、地位を笠に着て、下から上がってくる人間を、突き落とそうとする行為も、同罪と呼ぶべきだろう。特に、こういった行為に走る人々の、精神状態は、とてもまともとは呼べないもので、狂っているとさえ、一部の人には見える。肝心の説明も、自らの論理に基づくもので、同意が得られる筈もなく、常軌を逸している、との声も聞こえる。何故、このようなことが、許されるのか。当事者以外が、気付かないから、という場合もあるだろうが、多くは、皆が知った上での暴挙、となっている。となれば、組織としての責任を、問う声が出たとしても、不思議はない。そんな批判が飛び交い、組織の統制がとれなくなると、件の人物の上に立つ人間は、決断を迫られる。単に、切り捨てるだけのことだが、本当に、それで、責任が果たせるのだろうか。国の政では、任命責任なる言葉が、度々飛び交っているが、ここでも、同じことが当てはまるだろう。それは、上に立つ人間によるものだけでなく、その人物を選んだ、全員にかかるものとなる。

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2月11日(土)−意外な展開

 大学に進学する目的は、と高校生達に尋ねたら、どんな答えが返ってくるだろう。割合で言えば、おそらく、就職の為と、答える若者が、一番多いのではないか。それなら、今すぐに、社会に出たらどうか、と尋ねるのは、余りに、意地悪が過ぎるのかもしれない。
 昔と違って、同じ世代の過半が、大学という、最高学府に進むようになった。だから、と言う訳でもないが、特別な思いは、誰も抱かず、ただ漫然と、他人と同じ道を進む、ということかもしれない。でも、それは、あの時代でも、同じだったのではないか。確かに、一部の進学校と呼ばれる存在だけが、そんな子供達の集まる所だったが、その中では、行くのが当たり前の存在に、過ぎなかったのだ。では、当時と、何も変わっていないのか、と問えば、その頃、大学に進んだ経験を持つ世代から、否、という答えが戻ってくる。今と違い、何ができるのか、という情報は、皆無と言える位に、流されておらず、皆、希望と不安が入り混じった心境で、入学の瞬間を迎えたものだ。今は、あらゆることが、情報として流され、始まりから終わりまで、更には、将来の姿まで、全てを知り尽くした上で、その瞬間を迎える。思い通りの展開となる人も居るだろうが、一方で、落胆の毎日を過ごす人も居る。流れていた情報にはない展開に、話が違うとばかり、裏切られた気持ちばかりが、膨らみ続ける。これも、安定が続く時代には、当然の反応として、扱われているが、おかしなことだと思う。筋書き通りの人生を、唯一の喜びとする人は別として、多くは、予想外の展開に、戸惑いと不安が膨らむ一方で、苦難を打開することで、全く別の喜びを手に入れる。大学での予想外は、まさにその一つではないか。新たな課題を見つけ、それに取り組むことで、成長を実感する。こんな簡単なことさえ、無用の長物として、片付けるのは、大きな間違いに思える。

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2月10日(金)−緩慢

 ゆとり世代が、社会に放り出されてから、かなりの時間が経過した。どんな影響が出ているのか、今一つはっきりしないが、バブル世代の影響が、あまりにも大きいことから、その陰に隠れているのかもしれない。だが、教育の問題だけに、こちらの方が、遥かに深刻なのではないか。
 ゆとり教育の導入は、役人達の自己満足の反面、現場では、様々に悲鳴が上がったと聞く。教える内容が減り、平易化したことから、楽になったとの評価がある一方、理解の確認や脱落者の減少など、新たな問題が、生じたこともあるが、それより、切迫感のあったものは、上の学校からの悲鳴だった。以前なら、当然の知識と扱えたものに、一切触れていない生徒達に、どこから教えるかが、緊急の課題となったからだ。それでも、上は上で、ゆとりを採り入れたのだから、簡単に片付くと、役人は思ったのだろう。この矛盾に気付かなかったからこそ、あれ程の暴挙が、実行に移された。それが露呈したのは、社会の要請が、改めて示された時だろう。こちらはこちらで、即戦力を欲し、確実な知識の獲得を、人材に求めてきた。だが、現場は、ゆとりと称する、緩みの連鎖により、知識不足が露となり、社会への出口に当たる大学は、板挟みの状態に置かれ、ここでも悲鳴が上がった。しかし、教育者の責任感、という意味では、最も低いと言われる組織では、足らない知識を、致し方なしと片付け、不足を見過ごす形で、社会に放り出すことが、当然のように行われた。無理強いしても、ゆとりで緩められた精神に、耐える力がないとの言い訳は、まさに、無責任を描いたようなものだ。現状は、失敗への反省から、突然、詰め込み教育が、復活したように見える。だが、精神の緩みは、そのままのようで、無理強いは禁物と言われる。そんな状態で、成長を目指すことは、難しいように思えるが、さて、どうなるのだろうか。

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2月9日(木)−人材登用

 人材の枯渇、この問題を取り上げる時、多くは、新たに参入する世代、つまり、新卒者のことを、中心に据えている。新人類の登場とか、夢追い人の動向とか、話題は、事欠かないものの、未熟な世代に有り勝ちな、よくある話となる。それで、皆が納得するだけで、実害はそれ程でもない。
 だが、企業にとっては、もっと深刻な、人材枯渇がある。中堅から上層部に渡る、要するに、組織を牽引する世代に、明らかな不足が見えており、特に、業績不振に苦しむ企業は、解決策を見出せないばかりか、それを立案する為に、必要となる人材が、見つからないと悩む。他企業で、成功を収めた人を、迎える動きも、一時は急であったが、偶々の成功が、二度起こることは少なく、結局、本来の姿を失い、更なる窮地に陥った所も、少なくない。内部から登用しようにも、順当に昇進した人々は、上からの命令を守るだけで、新たな提案や、これまでを否定するような、過激な考えを、導き出す能力は、皆無と見られる。窮地を打開する、という目的では、こんな人材は、役立たずとしかならず、現状維持どころか、更なる低迷へと進みかねない。では、本当に、人材は、存在しないのか。おそらく、殆どの企業において、過激な手当てを目指せば、それを担う人間は、簡単に見つかるだろう。ただ、その多くは、昇進の過程で、冷遇されてきて、たとえ、成功体験をしていても、周囲から認められてこなかった。その為、突然の登用に対し、巧く適応できるかどうかが、最大の問題となる。それくらいなら、外から求めた方が、という安易な考えは、上に書いたように、成功する確率は低い。それより、思い切った登用で、それを支援する体制を築いた方が、良い結果を産むのではないか。本来、昇進は、名誉の為ではなく、実績の為にある。何もできない上司ほど、見るに堪えぬものはない。

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2月8日(水)−動かぬ

 右肩上がりの成長期に、翳りが見え始めた頃、企業の中で、話題になり始めたことがある。上司の能力に、疑問を持つ意見が、囁かれ始めたのだ。成長を続けた時期には、新たなことを始めようが、従前通りを貫こうが、伸びの勢いに変化を及ぼすことは、殆どなかった。
 ところが、肝心の成長が止まり、下り坂に入ると、それを食い止めようとしたり、少しでも勢いを緩めようと、打開策を講じる必要が生じた。当然、上層部が、新たな計画を策定すると、部下達は期待したが、何も出てこないことが多く、時には、耳を疑うような指令が、下ることさえあった。あれほどの成長を支えた人々が、何故だろうか、という疑問を抱いた人が多く、現場は、業績不振の兆候による混乱だけでなく、将来への不安からの混乱が加わり、諦めにも似た嘆息が、漏れ聞こえてくることとなった。この現象は、今では、十分に分析されており、成長期に、無難な昇進を目指す為には、他人と違ったことをしないこと、もっと極端に言えば、何もしないことが、重要となる、という風潮があったことが、明らかにされている。これは、何も、成長期に限ったことではなく、減点主義が蔓延る世相では、目立たぬことが、第一とされ、新機軸を展開する人間より、無難な人間が好まれる傾向が、強くなるようだ。その中で、他人より評価を上げる要素は、多くの人が関わったもので、誰が中心だったのかが不明確なものに、自分の業績であると主張することで、他人との違いを表明することらしい。競争社会で、様々な意見が出る環境では、こんなことをしても、厳しい反論が浴びせられ、巧くいかないことが多いが、大した意見も出ない環境では、こんな形で、実は無能な連中が、地位を奪うこととなる。その結果、何も起きず、打開策もなく、他人を突き落とすことに、腐心する人間が、居座ることになる。組織の荒廃が進み、腐敗へと繋がるに至って、解任の決断が下されるが、回復への道は、見えてこない。

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2月7日(火)−捩じ曲げる

 誤解され易い、と言われたことは、ないだろうか。自分が思っていることが、相手に伝わらず、全く違う解釈をされて、厳しく叱責される。目上を相手にすれば、こんなことが起き、身に覚えのない話に、何故、と首を傾げることとなる。思い当たる節もないだけに、何が悪いのか、と思う。
 誤解であれば、悪い所は何もない、となる。ただ、同じことが繰り返されると、何がその端緒となるのか、考える必要を感じる。とはいえ、考えを表明し、説明をする点では、他の人と、何も変わりはない。では、何故、誤解される人と、されない人の違いが出てくるのか。多くは、本人達の責任、と受け取るようだが、実際には、そうではないことの方が、多いようだ。理由の一つは、皆が同じ反応を示すのではなく、一部の人間が、違う受け取り方をする、と見えるからだ。穿った見方をするのではなく、言葉尻を捉え、拡大や歪曲を施して、発言者の真意とは、全く異なる結論へと導く。発言者に責任があるとすれば、そんな解釈を施せる、隙を与えていることだろう。だが、断定的な表現であれば、大多数の人々が、同じ結論を思い浮かべるが、現実には、妥当な解釈から、妥当な結論へと至るから、誤った道へ進むのは、やはり、受け手の問題、とすべきと思える。偶々、こういう人間を上司に持つと、下に居る人間は、悲惨な目に遭わされる。その上、誤解の原因さえも、本人の問題とされるのでは、立つ瀬はなくなる。そういう機会を与えぬように、注意すればいいとの指摘も、時に、功を奏さない。一度、誤解を始めた人間は、その後は、烙印を押したように、相手を扱うようになるからで、先入観を持って、主張を受け止めれば、曲解が当たり前となり、まともな受け取り方は、して貰えなくなる。こんな悲劇が、巷では、あらゆる所で、日常的に起きているのだ。

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2月6日(月)−不平等

 表面的なことしか、捉えることができない連中は、やはり、信頼を失うのも当然、と切り捨てるべきかもしれない。勝手な発言を繰り返す人間も、嘘ばかり吐くと書いているが、彼と同じ観点に立たずとも、無能な連中の行状は、はっきりと見えてくるものだ、今回の遣り取りに関しても。
 政府の組織が、厳正な審査に基づき、決定を下したからこそ、彼らは権利を得た。そこに、政府の一番上に立つ人間が、権利を、一時的とは言え、剥奪する決定を下したことに対して、当事者だけでなく、多くの人々が、批判を繰り返している。件の人物の、それに対する反論には、論理も何もなく、読む価値さえ見出せないが、それを何度も繰り返し報道する人々は、何を伝えようとするのか。また、移民から成る国だから、移民を拒絶することは、明らかな間違いとの指摘も、好んで流しているが、この問題に関して、当てはまるとは思えない。人々の自由を奪う行為、との指摘も、考え方の一つとして、紹介するのならば、理解できない訳ではないが、これが、今回の問題に関わるとは、的外れも、甚だしいとしか思えぬ。では、何が問題の核心か。最も大きなものは、手続きにおける問題である。審査を行い、その上で、許可を与えたとあるのに対し、それを、一様に認めぬ決定には、自らの政府が行った、審査そのものに対する信頼を、完全に失わせる、効果があるのだ。たとえ、上が変わり、審査の基準が変えられたとしても、それ以前の事例には、適用されないことは、皆の了解事項の一つだろう。もし、これが覆されたとしたら、全てに混乱が生じ、入国前どころか、既に国内で生活を営んでいる人にさえ、新たな規則を押し付けることになる。そうするのであれば、どんな混乱が起きようとも、法治国家として、正当化できる話だろうが、今回のものは、その一部に、新たなものを、後付けで適用するものであり、平等の原理にも、権利の法則にも、反するものとなる。これに気付かぬままに、批判の声を集めるだけでは、やはり、無能の烙印は、剥がせそうにもない。

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