米粉という言葉が、画面から流れてくる。パンやケーキの材料として、注目されているのは、アレルギーとの関係がある。でも、米粉を、耳慣れない言葉として、受け取る人が、多いのではないか。では、上新粉、もち粉、白玉粉、については、どうだろう。こちらも、初めてだろうか。
最近は、極端な健康志向がある一方で、原材料に、全く興味を抱かず、そこに添えられた、謳い文句だけを、鵜呑みにする人が多い。伝統的な和菓子の多くは、先ほど取り上げた、米粉を材料とし、独特の粘り気や、さっぱりとした味を、引き出してきた。だが、舶来趣味の国民性でもあるまいが、西洋から取り入れられたものを、ありがたがる人々は、所謂、洋菓子を好み、この国に根付いていた菓子には、見向きもしない。当然、材料の需給も、崩れ始め、ご飯の消費だけでなく、ここでも米離れが起きていた。ところが、全く別の方から、風が吹き始めたのは、米粉をパンの材料として、取り入れ始めた時ではなく、その後、多くの人々が悩み、時には、死に至る病とされた、アレルギーによる、ショック症状が、取り上げられた頃からだ。この国では、そば粉に対するものが、特に、何度も取り上げられたから、よく知られているが、それと同じかそれ以上に、深刻な問題を産んでいるのが、小麦粉に対するアレルギーだ。原因の多くは、含まれるグルテンと呼ばれるタンパク質で、それがショック症状とは違う、消化不良を招く病に罹った人が、画面で紹介されていた。彼らが、頼りにするのが、米粉のみから作られた、パンやケーキ、パイなどで、彼らの喜ぶ姿が、映し出されていた。従来の米粉では、実現しなかったことを、達成した人々の努力を、評価せねばならない。その一方で、こんな症状で、皆が悩まされるのは、何故なのか。増えた原因を、医学は未だに明らかにしていない。
自分達の思いが、達成できるとの期待から、その指導者は選ばれたのだろう。旧来の人々と、何かが違うと思い、期待を抱いた結果、どんなことが起きつつあるのか。大衆迎合主義とも呼ばれる、民衆に寄り添った政治手法は、世界各地で様々な変革を、起こしつつある。
だが、手綱を握った途端に、様子が変わり始める。公約を果たす為と称して、手立てを講じるが、言葉で語っていたものと、似て非なるものに、大衆の戸惑いが、起きてくる。既に、裏切られたと表明する人もいるが、多くは、膨らませた期待を、依然として、大事そうに抱えている。だが、施策として出てくるものだけでなく、指導者としての資質さえ、疑わせるような言動の連続に、攻撃された人だけでなく、その様子を窺う人にまで、悪影響が及んでいる。独裁的な手法に、一部の人は期待したのだろうが、今はおそらく、見込み違いを悔やんでいるのだろう。大衆の望むものが、唯一無二の答えであるかの如く、この手法を好む人々は、目標として掲げるが、所詮、社会の歪みを高めるだけで、別の問題が、噴出するだけとなる。各国で、そんな騒動が起きていたのに、大国までが、その罠に嵌ってしまったのは、何故だろうか。民主主義が抱える、最大の問題として、今後暫くの間は、話題となり続けるだろうが、誰もが、一つの決定権を握り、それを行使することが、主義主張の表れとする、考え方自体に、問題が起き始めたのだろう。大衆が、自らの要求が、社会に受け容れられると信じ、あくまでも、それを押し続ければ、確かに、達成できることが証明された。だが、それは、問題を解決することには結びつかず、却って、混乱が高まり、不安定さが増すばかりではないか。私利私欲に走る、企業家達への批判が、自分に戻ってくるとは、微塵も思わなかったのだろうが、力を得た途端に、この始末だ。
考えることは大切、という意見に、異論はないと思う。だが、その大切なことを、どう行うかについては、諸説ありそうだ。中でも、それに費やす時間について、様々な意見がある。じっくり考えろ、という意見がある一方で、すぐに意見を出せ、という意見もあるからだ。
どちらが優れているか、その時間で測るものではない。表明された考えの、質次第で、決まる筈のものだ。だが、たとえ質の良い考えでも、それが出てくるまでに、とてつもない時間がかかったとしたら、駄目出しが行われる。何事にも締め切りがあり、それを守ることが、最優先となる。であれば、ただ漫然と待ち続けることは、誰もできないこととなる。また、最良の答えが、いつも出てくるのであれば、問題は起きないだろうが、時間をかけて、それなりの答えが出てきたとしても、締め切りが迫れば、それをより良いものにする、時間がなくなる。ここでも、質という要素だけでなく、時間の要素が、重要となるのだ。では、大した考えもなく、思いつきを口にすることには、どんな評価が下されるのか。評価は、思いつきかどうかではなく、やはり、質に対して下される。だとすれば、考えを纏めるきっかけとして、思いつきから始めるのは、悪いことではない。軽口を批判する人の多くは、思いつきを忌み嫌う傾向があるが、実際には、頭の回転さえ追いつけば、思いつきを口にするのも、悪いことではない。ただ、これを推奨すると、誤解が広がるのも事実だろう。何でも口にする、ということばかりに、目が集まると、間違いさえも、口にするようになる。これでは、きっかけにはならず、ただのゴミを、ぶちまけるだけとなるだけだ。考えを纏めた経験のある人には、この違いは、明確なものだが、未経験の人々は、出鱈目に走るだけで、何も学ぶことがない。では、何が肝心か。失敗は成功のもと、なのだろう。
上に立つ人間の停滞は、あらゆる方向に、悪影響を及ぼす。そんな観点から、厳しく批判される訳だが、最近の組織が抱える問題は、それだけでは、済まないようだ。動きが取れないのは、上だけでなく、下も同じであり、不慣れを言い訳に使えるだけ、問題は、深刻のようだ。
何も考えず、データをそのまま、持ってくる部下に対して、上司は、始めはやんわりと、徐々に、厳しさを増しつつ、叱責を繰り返す。何も考えなかったことに、反省を覚えることはなく、考える為のきっかけを、与えてくれない上司を、恨めしく思う。その中から、訴える人が出てくるのだろうが、自分のことを棚に上げて、よくもまあ、という反応は、遠い昔のものとなり、今では、同情の声に包まれるらしい。しかし、こんな人間を、放置していても、企業は、閉塞感を打開できない。排除することは、難しいとしても、何らかの手立てを、講じる必要は、確かにある。だが、何をすればいいのか。その疑問に対する答えは、どこにもないようだ。考えない人を、考えさせようとすると、閉じた扉が、いつまで待っても開かれず、外から見ると、まるで思考停止のような、状況が続く。本人は、考え中と主張するが、それを、時系列で並べさせると、結局、何も始まっていないことだけが、明らかとなる。始められない理由は、一言で言えば、考えたことがない、からであり、話にならない、とでも言いたくなる。社会から見れば、学校で、何をやってきたのか、と文句の一つも言いたいのだろうが、現状は、言われた通りのことを、繰り返すだけの学習で、積極的な働きかけ、と言われる手法でさえ、指示書通りの展開を、繰り返すだけとなる。無難な水準を保つ為に、こんな事態に陥ったのだろうが、このままでは、何も考えない人間が、大半を占めることに、なりかねないのではないか。もう、面倒だから、という声が、現場から、聞こえてきそうな気配だが。
拙速という言葉は、殆どの場合、悪い意味に使われる。ただ、辞書にある説明からすると、そうでもないのでは、と思える部分がある。出来栄えなど、質の悪さがあるものの、仕上がりが速い、と考えれば、早く仕上げて、その後に、質の向上を目指せばいい、とも言えるからだ。
実は、この部分に、能力の有無を測る指標が、あるように見える。最近、特に目立つ無能な人々は、到達できる質の問題より、仕事の遅さが目立つのだ。それも、受け取った仕事を、溜め込むことにより、全体が滞り、結果的に、何も出て来ない、という点が、この手の人を抱えた組織が、今、悩み抜いている問題となっている。どんな立場にあろうとも、こういう行状は、周囲へのしわ寄せを起こす。最下層にあれば、どこにも投げられないのは、確実なことで、もし、出来ないことなら、上に相談するしかない。だが、それさえもできず、抱え込んだまま、放置された仕事は、何も産み出さないことになる。では、上に立つ人間の場合、どんなことが起きるのか。こちらも、下へも投げず、上にも投げ返さず、ただ、そこに滞ることになり、溜まった仕事の多さを、時に、自慢するという愚かささえ、見出される。こんな人間を、管理職として、上に仰ぐ組織は、悲惨な状態に陥る。流れ込んだ仕事は、分配されることなく、構成員には、何が届いたのかさえ、知らされず、何が起きているのか、分からない状況にある。組織全体の責任が、問われることが多いのだが、元凶は、上に立つ人間なのであり、下の者には、何の責任もない。拙速さえ、起こせぬ事態に、周囲から、様々に圧力がかかるが、所詮、無能な人間に、できることはない。本人が、自覚を持ち、勇気を示して、辞任すればいいが、その能力さえないのなら、解任するしかないのだろう。
警戒することは必要だが、それが、悲観的な見方となったり、不安に苛まれることとなると、別の問題が生じる。悲観は、何事にも、積極的に取り組むことがなくなり、不安は、決断を避ける傾向を高める。重い腰を上げねばならない時に、悲観や不安は、大きな妨げとなる。
飛び立つ前は、様々な憶測が飛び交い、対策を講じる必要が、強く論じられた。それが、向こうへ着いてみたら、諸手を挙げての歓迎ぶりに、戸惑いを覚えるほどとなった。どんな強硬姿勢を示されるのかと、心配の声が強かったのに、柔和な笑顔で出迎えられると、厳しい言葉は後ほど、という意味かと、別の心配が起きただろう。だが、結局、そんなことは一つも起きず、互いの信頼を深めた、という形で、全てが終わった。警戒とは違い、他人のことに口を出す、批判的な人々が、こんな状況に、大人しくする筈はない。早速、おべっかを使ったとか、嫌われる意見は控えたとか、揶揄する論評が強まり、過ちを犯した時に、戒めることができなくなる、などと、起きてもいないことまで、心配を始める。警戒を怠ってはいけないが、現状を、まずは素直に受け入れてはどうか。舞い上がる程に、喜びを表す必要はないが、良好な関係により、どんな利益が期待できるか、そんな方向に、論評を進めることも、彼らに必要な姿勢と思える。不安が解消された途端に、別の心配を引っ張り出すのは、結局、信頼の置けない存在と、見做されることになる。それが役目だと思うのなら、それを貫けばいいが、信頼を無くして、情報提供ができるとは、とても思えない。収拾も、不信感の下では、制限がかかるだろうし、それを歪曲しているのでは、と疑いを持たれては、情報源として、使われなくなる。何を焦っているのか、さっぱりわからないが、そんなことをしていては、誰も得をしない。
最も、という言葉を、付け加える。あるいは、とても、という意味かもしれない。画面から流れてくる、例の人の発言は、教養が高くない人でも、簡単に理解できる、そんな単語が並んでいる。だからか、veryを二度繰り返す表現が、印象付けようと、反復されていた。
下品、とまで揶揄された人物も、利害を考慮に入れると、商売人としての、本性が表に出た為か、にこやかな表情を見せ、親密な関係を、感じさせる雰囲気を漂わせていた。一部には、商売人にとっての利害は、急変することが多々あり、今、過度の信用を感じるのは、後々に、しっぺ返しを食らうかも、等と、心配する声もあるようだ。現時点で、真意を推し量ることは、ほぼ不可能だけに、こんな意見は、したい放題であろうし、それ自体に、信頼が置ける筈もない。一方、最先端とか、最適化とか、最も、という文字を加えることで、他との差を、際立たせようとする意図は、この人物だけでなく、今の時代の典型となっている。これは、特に、政策に関する場面で、多用されており、過剰な表現と、受け取られることもある。確かに、次へ向けての対策において、そういった目標を設定することは、重要なのかもしれないが、不適切な使い方が目立つのも、こういった場面のようだ。足りない部分を補う為でも、そこに、最先端を取り入れることで、耳目を集め易くなる、との思いからか、底上げを目的とするものにまで、先端を強調しようとする。だが、対象が異なれば、その為に必要な手立ても、大きく異なってくることが多い。目標を明確にすることは、確かに重要であり、それが、興味を引くようなものであれば、施策としても、評価が高まると思うのだろうが、始めから、的を外しているようでは、何の意味も成さないことになる。中身のないものが目立つのは、こんなご時世だから、なのだろうか。