パンチの独り言

(2月20日〜2月26日)
(言いたい放題、火消し、他者理解、反撃、不明、過保護、優しさ)



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2月26日(日)−優しさ

 優しさが、好まれる時代なのだろう。不適切な場面や相手に向かってまで、この言葉を使う、不届き者が、巷に溢れ、好かれていると、勝手な思い込みに浸っている。非常識も、こんな所まで及ぶのか、と思うのは、人に道理を教え込む、学びの場までもが、この病に冒されているからだ。
 誰も、叱られたいと思っている訳ではない。だが、間違いを繰り返し、成長が妨げられる中で、それを、指摘し、正す働きかけでは、叱るという行為が、一つの手法として用いられる。怒りに任せて、というのは、なるべく避けた上で、冷静に、間違いを指摘するのだが、多くの人は、単に、怒られているとか、叱られているとか、そんな表面的なことだけを、記憶にとどめるようだ。だが、厳しく叱責されれば、二度と、そんなことはされたくない、と思うのは、ごく普通のことだろう。この手法が、効果を表すのは、たとえ、表面的なことでも、叱られたくない、と思わせることで、何かしらの努力を、促すからだろう。ところが、表面に止まる理解が、別の反応を招いた結果が、始めに取り上げた話題へと、結びつく。優しさが第一とされれば、確かに、心の平安が訪れるかもしれない。だが、努力が、その中でも芽生える人間であれば、話は別となるが、多くは、外圧に応じて、ある意味、仕方なく、努力をしようと、重い腰をあげるのである。そんな中では、圧力をかけねば、まさに、何も起きないこととなり、誰もが、怠惰に浸るのみとなる。弛れた様子を見ても、何の働きかけもしなければ、放置された人間は、そのままでいいと考える。その結果、努力を知らぬ人が、世に溢れるだけでなく、それこそが、重要と考える人が、上に立つこととなる。あまりの事態に、未来はないと考える人もいるだろうが、今の風潮では、正反対の状況へと向かうしかない。怠けることを気付きながら、放置することが、優しさと思う人には、判る筈もないのだろうが。

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2月25日(土)−過保護

 貧しいことが、進学の妨げにならぬように、と社会では、支援の輪が広がっている、と言われている。貧困が、あらゆる面で、影響を及ぼすと言われるが、この考えに、異論を唱えることは、難しいようだ。外的要因を、殊更に取り上げ、自らの努力は、二の次となるらしい。
 確かに、先立つものがなければ、何事も、困難を伴うものだ。しかし、それを乗り越え、様々な努力の末に、成功を収めた偉人は、数多く伝記の中で取り上げられていた。それとこれは、どこが違うのか。また、そのことについて、疑問を掲げては、何故いけないのか。実際には、いけないことではないのだが、現代社会の、問題の捉え方に、ある特殊性があり、たとえ正しいことでも、憚られるようだ。世論が、一方的に偏り、それが、絶対に正しいことかの如く、極端な扱いが、横行している。この問題も、金が無いから、何もできないとか、借金をしてまで、進学することで、人生を決めることに、躊躇いを覚えるとか、そんなことが並ぶ中、当人の意欲の減退という、更なる問題が重ねられる。そこに横たわる、大きな矛盾に関して、運動を先導する人々は、まるで気付かないふりを続ける。先立つものがないので、意欲が減退するのであり、大元の問題が解決すれば、意欲を取り戻すことは、可能であるとの主張だが、多くは、全く違った展開となる。一度失われた意欲が、取り戻されることなどなく、用意された道として、ただ漫然と、進学を続ける。その結果、貧富の差とは無関係に、何もしない、やる気のない人が、学歴を手に入れるだけなのだ。無理矢理、壁を設けろとは言わないが、乗り越えることで、手に入れられるものを、取り上げていることに、運動家達は、全く気付いていない。この馬鹿げた騒動に関して、手を貸す人々には、何か思惑があるに違いなく、それに乗せられることで、社会が誤った方に向かうことには、毅然として、反対の意見を出すべきではないか。

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2月24日(金)−不明

 手引書、何事も、ここから始める人が居る。昔は、単なる解説であり、知識が殆ど無い中で、理解を進める端緒となるものだった。だが、今は、全く違った中身のようだ。何かを始める時に、必要な手順を載せ、その通りに進めれば、知識を得るのも、実行するのも、思いのままとなる。
 そんなものが登場すると、人は、どんな行動に出るのか。周囲を見渡して、すぐに見えるのは、飛びつく人々の群れだろう。難しそうに見えることが、それを参考にすれば、いとも簡単になる。魔法にかけられたように、感じる人さえ居るようだが、もしそうなら、皆が、一夜にして、専門家となるのではないか。となれば、何の差も生まれず、普通のことになるから、その能力を持っていても、自慢できなくなる。そんな事態となれば、乗り遅れぬ為だけに、手引書を手に取る人が、世に溢れることになるのではないか。だが、現実は、こんな展開では、進まなかったようだ。誰もが、習得できる技術は、その多くが、ごく当たり前のものに過ぎず、その為の秘訣にも、特別なことは、何もないのだ。そんな教則本に頼らずとも、自力で獲得できるものを、何かに頼る傾向が、現代社会では、一層強まっているのだろう。そう考えれば、偉そうに教えている人々が、特別に伝授すると掲げる、秘法も、普通のことに過ぎない、と思えてくる。そんな目で眺めれば、目から鱗どころか、何の不思議も感じられない。それを、大事そうに、伝授する姿には、哀れさえ感じられる。だが、それより哀れなのは、こういう技術に関して、驚きとともに、感激さえする人々で、知らないことの恐ろしさより、目の前で展開することへの、反応の問題がある。物事を、様々に捉える力があれば、驚く筈のないことに、強い反応を示すのは、やはり、情けないものだろう。

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2月23日(木)−反撃

 批判の重要性に関しては、何度も取り上げてきた。批判的に捉えることで、様々な意見の欠点を、見いだすことができるのが、一番の効用だろう。ただ、ここでも、無能な人々の、誤解に基づく言動が、障害を招いている。批判と称して、自分の考えを当てはめ、推測に基づいて、反対を表明する。
 彼らの意見の特徴は、危険性を指摘し、反対を押し通すことだが、その根拠となるのが、他人の意見には、一切関係のない事柄であり、論理の飛躍に、反論の意欲が、削がれる程なのだ。想像の産物、と言ってしまえば、まさにそれまでだが、彼らの想像力には、感心より、呆れることばかりだ。ただ、そこには、一定の法則があるように思える。それは、その想像が、自分の考えによるもので、そこにある論理は、彼らが、押し通そうとするものなのだ。つまり、他人の考えに、自分のものを加え、元の意見には、一片もなかった話を、作り上げた上で、批判の対象とする訳だ。最後の部分だけを、受け止めれば、妥当なものと受け取ることができる。だが、途中から、捏造を繰り返し、原案になかったものを、可能性として、付け加えることで、その意見の問題点を指摘するのだから、提案した人間にとっては、まさに、寝耳に水となる。その上、批判の最中には、冷水をかけるように、一方的な攻撃に出るのだから、手に負えないものとなる。下に居るうちは、無視すればいいが、こんな輩が、上に居ると、悩みは尽きない。居なくなるまで待つか、自分が外れるか、馬鹿げた決断を、迫られる事態には、陥りたくはない。理不尽な攻撃に、問題点を厳しく突けば、権威失墜は必至だが、それを面倒と思う人も多い。ただ、組織の為だけでなく、自分の為にも、引っ込む訳にはいかない。

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2月22日(水)−他者理解

 皆がどう見るかを、気にする人は多い。主観に縛られず、客観を意識することで、幅広い考え方を、身に付けるだけでなく、他人の考えを、理解できるようになる、と信じているようだ。だが、生き物にとって、自より他を、優先させることは、言う程簡単ではない。
 意識しなければ、できないという点から、簡単にわかる筈だが、客観を重視する風潮から、何とか、そちらに自分を向けようと、努力し続ける。だが、自分の中での論理が、いつでも他に適用できる筈もなく、更に、他人との意見交換を、優先させたとしても、全てが、受け容れられる訳でもない。こんな状況で、無理にでも、他を受け容れようとすると、無理が生じて、時に、精神不安定に襲われる。これでは、元も子もなく、大いなる目標の達成は、ほど遠いものとなる。では、他人のことなど気にせず、自分本位で、全てに取り組めばいいのか。それでも、問題を生じないような、資質の持ち主であれば、何事も、順調に進められるが、そんな人の数は、著しく少ないのが、現状だろう。多くは、自分本位に振る舞えば、自分のことしか考えられず、他の人も全て、自分と同じ行動規範を持つと、勝手に思い込んでしまう。そこに、疑心暗鬼が加われば、自分が犯しかねない過ちを、他人に押し付け、そんなことをされる前に、切り捨てようとまで、疑い深くなるようだ。これらは、自分の中だけで起きているから、相手にとっては、寝耳に水の状況であり、冤罪とも言えるような不条理を、平気で押し付けることになる。だが、当人は、全く別のことを信じているから、自らの過ちに、気付く気配もない。その上、周囲から指摘を受けても、正当化に走るばかりで、改めることなど、考える筈もない。権力者が、この状況に陥ると、組織は、崩壊することになる。大事に至らぬ前の、適切な処置が、必要なのだ。

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2月21日(火)−火消し

 勝手な発言を繰り返す人間に、反発が激しさを増しているとされる。その中で、側近達の火消しも、同時進行で行われ、大事に至らぬようにしているとされる。このドタバタに、大衆は何を思うのだろうか。同程度の知能しか、持ち合わせていない輩は、俺達も、と思っているだろう。
 根も葉もない話を掲げたり、注目を浴びる為の嘘は、少し位なら構わないとか、そんな態度が、下層世界に蔓延する中で、本来なら、そんなことに、血道を上げる筈のない、上流社会に属する筈の人間が、暴言、妄言を繰り返せば、我が意を得たりと、更なる暴挙が繰り返されるのも、致し方なし、と片付けるべきかもしれない。だが、それを放置すれば、法治国家の秩序を保つことが、非常に難しくなる。その中で、秩序の為かもしれないが、アホなトップの為か、あるいは、国そのものの為か、側近の火消しは、増すばかりとなっている。この件に関しても、情報の捏造と、批判の呟きを、繰り返すだけだろうが、自らの暴言に関しては、忘れたり、誤解との言い訳を、繰り返すだけなのだろう。そんな無責任さに、そろそろ、嫌気がさす人も増えているが、実際には、一度選んでしまえば、戻ることはできない。その責任は、誰にあるというのだろう。今更のように、反対運動に、力を入れる人々が、増えているのだろうが、これは、捏造していると呟きで批判された、情報源によるもので、民主主義で最重要とされる、多数派がどこに居るのかが、わからない。混乱が極まるとなれば、何らかの働きかけが必要だが、火消しより多くの暴言が、噴出する中で、さて、どんな手立てがあるのか。発信源を断つしか、鎮める手立ては、無いように見える。

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2月20日(月)−言いたい放題

 目に余る、と何度思わされてきたことか。自由な発言が、保証される世界と時代とは言え、明らかな誤りでも、声高に訴えれば、通用するとする、無知蒙昧に、届く言葉は無いようだ。付け上がるとしか思えない、暴言、暴挙の連鎖に、堪忍袋の緒が切れた、とも言える。
 隣国に、様々な被害を与えたのは、事実に違いないが、彼らの主張の正当性は、それとは違う所にある。公の場で、事実無根の話が、実しやかに流されるのを、あちら側は、勝利と感じ、こちら側は、不快と感じる。だが、間違いを指摘する声は、自粛させられたり、不当に抑えられていた。金で解決することは、必ずしも、正しいとは言い切れないが、その決断をしたからには、それに見合う言動も、期待された筈だ。だが、与えられるものは受け取るが、主張は曲げないという、非論理的な言動しかできない、隣国の無知蒙昧に、何の措置も起こせない、弱腰の政府に対して、ついに、決断が下された、とされる。これを評価する声が、高まっているとも伝えられるが、一方的な措置では、相変わらず、何の解決も得られない。特に、弱腰だけでなく、中枢の腐敗が、在任中から取り沙汰される最中だけに、あの政府が、何らかの解決策を、講じるとは思えないのだ。その中で、こちらが、強硬な姿勢を続けても、おそらく、何も起こらず、却って、無知な輩の活動を、活性化するだけとなりかねない。外交の問題と、見る向きもあろうが、これは、明らかに、内政問題である。そこに、外圧が、どれ程の効果を示すのか、期待は薄い、と言わざるを得ない。同じ問題は、別の隣国に対しても、何度も取り上げられており、こちらも、目に余る言動が、個人だけでなく、政府からさえ、届けられる。被害者が、最強となる時代に、この偏りを、正す為の方策を、是非とも考えねばならない。

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