パンチの独り言

(2月27日〜3月5日)
(思考力、自主提供、排斥、改悪、誤解を招く、不退転、掠め取る)



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3月5日(日)−掠め取る

 いつの頃か、観光を目玉に、という掛け声が大きくなった。それ自体に、悪いことはなく、色々な面での売り込みが、大切と言われるが、さて、本当に、良いことばかりなのか、怪しいものだ。爆買い、という言葉で、歓迎された国の人々は、態度を急変させ、購買意欲は、減退している。
 的確な対応、ということで、様々な工夫が施されたが、多くは、相手を見失い、路頭に迷っている。折角準備したのに、殆どが無駄となったことに、多くの人が、戸惑っているように見える。これはこれで、随分に大きな問題に見えるが、意外に、気付かれていない点が、観光産業にあると言われる。例えば、爆買いの国からは、単に、観光客がやってくるだけでなく、それが、儲けに繋がると、わかった途端に、投資の波が押し寄せる。それも、根こそぎといった感さえあり、宿泊施設だけでなく、観光に関わる、多くの産業に、手が及び始めている。観光地の宿泊施設が、海外資本に渡ったことに、この国の人々の殆どが、気付いていない。特に、海外からの観光客を目当てとするところは、その国出身の人々を雇用し、対応を整えつつある。海外に出たという意識さえ持たず、気軽に過ごせるのは、ある人々には、歓迎すべきものとなるらしいが、それを旅行と考えること自体、矛盾に満ちている。また、持ち帰る土産を、買い込む施設さえ、外国資本に渡っていると、その利益は、結果的に、観光地に落とされるのではなく、ぐるりと巡って、あちらに戻るだけのことだ。こんなことに、補助金を使ったり、更なる支援を考えるなど、なんと馬鹿げたことかと思うが、中心に立つ人々は、数の増加を誇るばかりで、自らの思慮のなさに、思いが至る気配もない。また、愚かなことが、起きつつあるかと思うが、政府を挙げて、振興を図る現状では、金の流れに、目が向く人は、居ないようだ。

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3月4日(土)−不退転

 意外な結果となり、交代の時期が近づくに従い、様々な憶測が飛び交うと共に、期待が高まることで、経済指標は、改善を続けてきた。しかし、実態は、依然として明らかとならず、議会に迎えられても、具体的な政策が、明らかとなることはなかった。停滞感が、出てくるのだろうか。
 厳しい状況へと、移りつつある中、更なる醜聞が、聞こえてきたが、さて、どんな展開となるのか。企業の頂点に立つ人間にとって、様々な障害が出てくることは、予想されたことに違いない。だが、金や生活の為とはいえ、一種の忠誠を、誓っている人から、構成される組織とは違い、異なる考えを持ち、新たな方策へも、反対を掲げる人が、多く見られる中では、今後の展開も、危ういものに思えてくる。指標は、確かに、上昇を続けているが、実体経済との乖離は、どんな具合になっているのか。様々な予想が、異なる立場から、出されているが、本当に、どうなるのか、さっぱりわからない。その上、醜聞に関しては、偽情報を流すと、部屋から追い出した人々だけでなく、味方と判断した人からも、批判の矢が飛び始めている。この程度のことでは、へこたれることもないだろうが、こう次々と、新たな問題が噴き出すようでは、火消しも、容易ではなくなるだろう。これから始まるだけに、昔の責任を問われる人に比べ、厳しさは、かなりのものになるに違いない。だが、大口を叩く人にとって、こんな状況も、大したことに、思えないのかもしれない。何れにしても、始めたからには、進むしかない状況に、変わりはない。何が起きても、戻ることは、できないのだから。

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3月3日(金)−誤解を招く

 誤解を招きやすい、という人が居る。何を話しても、真意が汲み取られず、時には、勝手な解釈をされた挙句、悪者にされてしまうのだ。原因が、全く無い訳では、ないだろう。だが、誤解をする人の多くは、表面的なことばかりに、気を奪われてしまい、話の内容に、耳を傾けることが少ない。
 こんな人の多くは、簡単にわかる話を、聞きたがるものらしい。都合のいい話も、その一つであり、肯定否定の、はっきりした話を、歓迎する。だが、そういう人間に限って、賛成か反対かを、表明することは、殆ど無い。その代わり、誰が、賛成だとか、誰が、反対だとか、そんな話を伝えることに、精を出すようだ。自分の意見は、全くと言っていいほどない代わりに、他人の意見の伝達に、力を入れている。ただ、引き合いに出される人間にとっては、自分の意見が、きちんと反映されているのなら、問題はないが、いつの間にか、伝達者の都合に合わせて、別の意見を出したことにされる。影響のないこともあるだろうが、多くは、誤解を招くことになり、変な噂まで、立てられかねない。被害者が誰かは、はっきりとしているが、こんな偽情報を流す人々は、自分達ではなく、噂の対象とした人を、標的にする。罪の意識を持ちながら、こんなことをし続ければ、周囲からは、冷たい目で見つめられるが、多くは、そんな意識を持たずに、誹謗中傷を繰り返す。周囲が、十分な判断力を持てば、こんなことも、大事にならずに済むが、そう簡単には行かず、噂を、更に膨らませることになる。根も葉もないことだけに、すぐにわかりそうなものだが、人の口を経る度に、その信憑性は、強まるようだから、難しいものだ。何れにしても、毅然として、否定することが必要で、火元の人間に対しても、何らかの働きかけが、必要となるのだろう。

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3月2日(木)−改悪

 他人を蹴落としたり、足を引っ張ったりする人の、別の特徴に関しては、余り取り上げられない。能力の無さを、如何に隠すかが、彼らの意図として、取り上げられるが、実際には、その結果として、何を手に入れようとしているか、肝心なことに、目が向いていないようだ。
 表面に現れるのは、確かに、蹴落としたり、引っ張ったりなのだが、それによって、競争者を排除すれば、自分にお鉢が回ってくる。これこそが、不埒な連中の目的であり、その為に、手段を選ばぬことが、自分を主張するより、他人を排除する方に、力を入れることとなる。組織のことを考えれば、こんな連中は、役立たずであるばかりか、時間も力も、別の方に使うだけで、無駄の一言で、片付けるべきものだ。実は、彼らのえげつなさは、別の面にも現れており、自分に有利になるように、様々な手立てを講じることで、それが始めに取り上げたものだ。下に居る間は、大したこともできず、上に対して、おべっかを使ったり、自分の方を向いてもらおうと、様々に工夫を凝らす。そこで、人を見誤ると、組織は、お荷物を抱えることに、なりかねない。彼らを登用した人間には、何の目論見がなくとも、付け入った本人は、自分の思惑を、実現する機会を、やっと手に入れることになる。そこで、人員配置を、一新することなどが行われ、都合のいい人間で、周囲を固めることをする。だが、従順な人間だけでは、改革は起こせず、上に立った人間の、思うがままの状態になるだけだ。実際には、批判がある中でこそ、正当な改革が起きるのであり、それを排除した途端に、組織が腐り始める。その中で、権力をかざす人々は、より快適な環境を整えようと、制度改革に手を出すことさえある。独裁国家が、それを長続きさせようと、法律改正をすることは、よく知られた所だが、それとそっくりの状況が、ちっぽけな組織でさえ、作られることがあるのだ。

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3月1日(水)−排斥

 他人を貶める人の道理には、どうにも理解できないものがある。彼らの論理では、的となる相手は、諸悪の根源であり、貶めることで、表舞台から追い出すことこそ、正義となる。だが、その根拠の脆弱さに、当人どころか、周囲までが気付かぬことに、呆れるしかない。
 特に、根も葉もないことで、標的とされ、様々に妨害を受ける人にとって、こういう連中は、ただ邪魔になるだけでなく、周囲の信頼を、奪われるきっかけとなる。実しやかな言動で、事実無根の冤罪を、押し付けてくる人に、鵜呑みしかできない、従順な人々は、見事に騙され続ける。気付かぬ限り、幸せな気分が削がれることはなく、また、たとえ、騙されたとしても、そのこと自体に、責任を負わされることなく、平穏な日々が続く。そこには、何の問題もなく、扇動者の存在も、標的以外には、大した影響は及ばない。だが、組織全体で見ると、非常に大きな被害が、広がっていることに、気付かされる。他人を貶めることに、全力を尽くす人々が、肝心な業務に精を出すことは、殆どない。だから、その時代が続けば、その間は、ほぼ停滞が続くことになる。結果は、やるべきことが、放置され、進むべき道も、霞む程に遠去かる。大局観のない、底辺の人々にとっては、何の変化もなく、見えているものでも、実際には、進むことをやめることで、崩れ始めることになる。攻撃に精を出す人にとって、自分が立っている基盤が、徐々に崩れてきても、そんなことに目は向かず、依然として、嫌う人間の排除に、全力を尽くす。こんな人間が、上に立つ組織があるとしたら、悲惨な結果が、ほぼ確実となる。こうなれば、従順な人も、意を決して、彼らの誤りを、糾弾すべき時が来る。

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2月28日(火)−自主提供

 個人情報の管理に、注目が集まっている。情報の提供を、求められたとしても、多くの人々は、拒絶するだろう。強制力がある場合を除き、拒むことは、さほど難しいことではない。では、情報を手に入れたい人々は、どんな手立てを講じるのだろうか。工作は確実に進んでいるようだ。
 目立たぬように、仕掛けを設けることは、地下工作などと呼ばれ、よからぬ組織の企て、のように扱われる。だが、現代社会では、大っぴらに、こんなことが行われている。例えば、収入と支出の詳細を、求められたら、人はどんな反応を示すだろう。殆どは、とんでもない、と一蹴するのではないか。理由は、ごく簡単なもので、知られたくない、ということだろう。それで諦めていては、情報収集は、頓挫してしまう。そこで考え出されたのが、情報提供ではなく、分析依頼を受ける、という戦術だ。これもまた、単に、分析してあげますよ、という呼びかけでは、何の反応も返ってこない。その代わりに、「金が貯まらない」という問題を提示し、それを解決する為の、便利な道具の提供を、申し出るのだ。一見、利用者の便宜を図っているように見え、その際に、本人が入力した数値を、どこか別の所へ、移すだけのことだ。これで、情報収集は、苦もなく実現できる。それも、提供料を支払うことなく、利用料を手に入れることさえ、できる訳だ。この観点から眺めれば、何と頭のいい方法か、と思うかもしれないが、一言に乗せられる人には、全く別のことが、思い描かれている。これを利用し、お金を貯めて、好きなものを買おうとか、将来の生活設計に役立てようとか、そんな夢が、描かれているのだ。両者がどちらも満足するから、何が悪いのか、と思う人さえ居るだろう。だったら、始めに書いた論理で、この現象を眺めてみるといい。勝手な解釈で、失敗する人の多くは、こんな話に乗せられるのだ。

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2月27日(月)−思考力

 記憶に頼る試験では、実力を見極めることはできない。以前から言われてきたことだが、実現の可能性は、低いと思われていた。何故なのか。簡単には、二つありそうだ。一つは、設問の問題、もう一つは、採点の問題である。どちらも、受け入れ側の課題と、見做せるようだ。
 そんな空気の中、状況は一変しそうだ。人材の確保を重視すると、その育成は、避けられない問題となる。だが、一から育てるには、どの組織も、限られた時間しか持てず、それなりの資質を持つ人間を、選び出す必要に迫られる。となれば、記憶は、最低限の要素にしかならず、それを基に、如何に、考えを築き上げるかが、肝心な要素となる。だが、それを見極める為の指標は、これまでのやり方では、手に入れられない、と思われたのだ。そこで、今更のように、思考を必要とする、試験の導入が、叫ばれている訳だ。今回も、今まで同様に、と思った人も多かったろうが、切迫感は、それ以上のものだったようで、更に、現場の人々が、重い腰を上げたのが、強力な後押しとなった。その結果、考えさせ、それを表現させる、そんな設問を入れることが、課せられることになる。まだ、将来的な話であり、確定していない、と見る向きもあるが、呑気なものに見える。実際には、外圧によらず、そういう傾向を強めないと、卒業時の人材どころか、入学後の育成そのものに、頓挫する恐れがあるのではないか。もしそうなら、さっさと始める必要があるが、肝心の候補者達を眺めると、この試練には、とても耐えられそうにない。覚えることを強制され続けた人間に、突然、考えろとの指令が下っても、何も出てこないのは、当然と思われるが、訓練を受けないと、何もできない人間を、人材と見做せるかどうかが、実は、重要な問題となる。訓練を施す現場が、この辺りに、戸惑う現状では、解決は難しいと言わざるを得ない。

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