パンチの独り言

(3月6日〜3月12日)
(安直、前言撤回、事実無根、堂々巡り、真意、散漫、民心)



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3月12日(日)−民心

 民の心は、惑わされたり、操られたりするものだったが、最近は、随分と事情が、変わったようだ。民主主義では、民の意向が、反映されることが、第一と考えられ、それが実現すれば、良好な状態が保てる、と思われている。だが、この所の混乱は、思い違いを、想起させる。
 民心が、国を動かした、と評する向きもあるが、その後の混乱ぶりからは、そんな評価が、果たして正しいのか、と思えてくる。三権分立について、無知ぶりを発揮しつつあると、厳しい批評に曝される、指導者の存在は、まさに、民心の反映の筈だが、その結果は、選んだ人間の思惑とは、異なる方に向かい始めている。同じように、熱狂で迎えられた、女性初の、と括られた人物は、ついに、その座から引きずり下ろされた。外から見れば、冷静な判断に基づくとは、とても思えない、出来レースのような結果に、国の行く末が、危ぶまれているとも言われる。既に、決定に対する、反対派の運動が、激化しているとの報道もあるが、肝心の人物からは、何の反応も示されていない、と言われる。元々、この制度自体が、怪しげな手順を経ており、子供の喧嘩の仲裁のような、不思議な感覚さえ、抱かせる。あの国民性から、まさに、そんな状況を思い浮かべる人も、いるに違いないが、こんなことで、国の運命が左右されるのは、不思議なこと、と思う人も居るだろう。だが、民心と括られた動きでは、どんな手順を追おうとも、結果は、明白だと言うしかない。こんな制度が、正常に働かなくなるのは、民の心が、簡単に操れるからであり、先を見通せぬ人々に、権利を与えた結果とも言える。これは、対岸の火事ではなく、すぐに飛び火する、危険な兆候と、言えるのではないか。

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3月11日(土)−散漫

 運転中の電話に、批判の声が集まり、違反行為として、厳罰に処すとの話も出ていた。その正当性を貫く為に、注意力散漫が、取り上げられていたが、同乗者との会話と、何が違うのか、といった反論もあった。その後、規則は、緩められたように見える。何かしらの問題が、指摘されたのだろう。
 携帯電話を、手に持ちつつ、会話を続けるのは、車外からも、はっきり見えるが、新たな道具が、導入されるに従い、わからない事例が増えた。手に持つことの問題や、視線を移すことの問題が、様々に指摘されたが、はじめに言われた、散漫の問題は、電話の会話と、車内の会話に、違いを見出せなかったのだろう。厳密な規則の適用は、困難との判断があったのではないか。その後は、ある意味落ち着いたようで、重大な事故原因になった場合、使用が取り沙汰される、となった。これは、喫煙などの行為による、脇見運転との違いが、殆どないと判断されたからだろう。だが、携帯メールに関しては、明らかな違いがあった。視線が、確実に、そちらに向くことで、短時間とは言え、脇見となるからだ。こちらは、現在も、発見されれば、何かしらの罰が科される。だが、これも、電話による会話と同様、安易な考えが、適用されている。利用者は、自分だけは大丈夫との、身勝手な自信を見せるのだ。メールであれば、まだ、送受信の機会のみが、問題となるが、これが、スマートフォンと呼ばれる、携帯端末になると、事情が一変する。情報機器だから、情報を手に入れる必要は、常にあると考える。カーナビと呼ばれる経路案内と同様に、常に、接する必要が出てくるからだ。そこで、ハンドルに手をかけたまま、端末を握りしめ、画面を注視する。視線は、前方への注意を、怠っていないとの判断が、できると信じているようだが、実際には、注意不足が強まる。その結果、事故が増えている筈だが、すれ違う運転者を見る限り、増加の一途を辿っているようだ。まして、ゲームに興じるなど、論外と言わねばならぬが。

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3月10日(金)−真意

 名は体を表す、と言われるが、果たしてそうだろうか。内容が正しく伝わるように、様々な提案の中から、最も適切と思われるものを、選ぶ。そうした過程で、決めた呼び名が、誤解を招くと言われると、心外と思うだろう。何故、そのようなことが起きるのか、不思議で仕方ないのだ。
 確かに、呼称を考える時、そこからすぐに、内容が連想できるかは、肝心なことだ。だが、多種多様な目的を、もち合わせる組織や物品を、一言で表すことは、難しくなる。一方で、人はそれぞれに、自分なりの尺度を持ち、それを言葉に対しても、当てはめることになる。誤解は、この時点で生じることが多く、言葉の解釈も、それぞれに異なるから、結果として、違う意味と捉える。こんな行き違いが、起きるのは、当然のことだろう。だから、新しいものを登場させる度に、説明を繰り返す訳だが、ここでも、先入観が、邪魔をするようだ。折角の説明も、先入観に縛られる人の多くには、届かないことがある。となれば、新しいことは、伝わる筈もなく、こちらの意図も、表面的なものだけが、吸い上げられる。真意が伝わらねば、名で体を表すことなど、遠く及ばぬことに終わる。これでは、不可能なことにしかならず、新しい呼称は、何の意味も持たないことになる。あれほどの手間をかけて、考え抜いたものが、相手にされないのでは、心外としか言いようがない。だが、この原因を見つめれば、そこにある事情が、少しは理解できるのではないか。説明が届かぬ理由は、どこにあるのか。何故、真意が汲み取られないのか。そんなことに思いを致せば、そこに、丁寧さが欠け、相手の状況を、正しく把握していない、という点が浮かび上がる。とすれば、諦めず、説明を続けるしかない。その結果、正しい理解が得られれば、名が体を表すことが、ごく自然に起きるのだから。

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3月9日(木)−堂々巡り

 上に立つ人間の資質は、どんなことに現れるのだろう。下から見ても、上司の良し悪しは、意外な程はっきりわかるものだ。逆も言えるから、優秀な上司にとって、頼りない部下は、簡単に見極められるだろう。でも、というか、だから、というか、下からも評価してやればいい。
 数の多少に関わらず、部下を持った時に、痛感するのは、彼らを、どのように扱えばいいのか、という問題だ。上から降ってくる仕事も、下から上がってくる仕事も、誰に、どれをやらせるかが、様々な意味で、重要となる。適材適所等と、よく言われるが、的確に配分する能力が、上司には期待されている。最近、降格を望む人の話題が、時々取り上げられるが、そこには、この問題が横たわっている。一人で、降ってくる仕事を扱うだけなら、自分の能力を、存分に発揮できるが、能力の低い部下に、仕事を任せた挙句、出来の悪い結果が、上げられたのでは、自分でやるより、遥かに大きな手間がかかる。こんな所から、「長」の付く役職を避け、底辺で、自分なりの速度で、全力を尽くした方が、ましと考えるらしい。この問題が、能力の優劣の問題より、指導の巧拙の問題が、大きいことを表している。これが、上に立つ人間が、備えるべき資質の一つとなる。他にも、様々なものがあるだろうが、中でも重要なのは、統率力であり、その表れの一つとして、会議運営の手腕がある。労働時間の問題が、取り上げられる度に、無駄な会議への不平不満が、並べられるが、これは、会議の開催そのものだけでなく、だらだら続く、結論の出ない会議への不満からくるものだろう。不適切な議題、という点も、重要なものとなるだろうが、実は、議長が抱える問題の方が、遥かに大きいようだ。その場合、小さな組織であれば、その長が、運営にあたるのだが、彼らが、自らの意見を持たず、部下から、役立つ意見を吸い上げようと、努力すればする程、会議時間は、長くなる。結果ありきも、無駄の一つだろうが、堂々巡りは、それより悪く、何も得られない、という結果に至るのだ。

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3月8日(水)−事実無根

 SNSの根源は、井戸端会議にあると思う。内容は、勝手な解釈や誤解に基づくものばかりで、噂を立てるだけなのだ。ご近所や友人の間で、根も葉もない噂を、囁き合っていた光景が、井戸の周囲で見られたから、こんな表現が使われたのだが、今や、手にした通信機器で、噂を飛ばし合う。
 人伝えに、拡散される噂も、有事には、異常な広がりを見せ、そこに恐怖が加わると、話の規模が、急激に拡大する。ある意味、心の不安を掻き立てるような、怖い話ほど、拡大の勢いが増すのだ。冷静に考えれば、あり得ない話でも、こういう手順を追うと、実しやかなものになるのは、人間の心理を考える上で、重要なことかもしれない。だが、大衆心理としては、真偽を吟味するより、怖さに同調することの方が、遥かに大きくなる。その結果、あり得ない話が、当然の話へと変貌し、事実として広がり続ける。ある時点で、検証がなされ、公式に否定されても、こんな噂は、生き残り続ける。昔から、何度も聞かされた、こんな過ちが、媒体を変えて、同じように繰り返される。それも、昔の話とは違い、今度は、確かなものだ、との解釈まで加えられて。この場合は、多数の人が関わることで、信頼度が高まるとの、根拠のない吟味が加えられ、事実かの如く扱われる。だが、下らなさも含め、何の証拠もない状況に、今昔の違いはなく、また、媒体の違いも、全く見えてこない。その中で、自らの正当性を掲げ、声高に訴えれば、事実無根も、全く違う状況へと変貌する。それが、要職にある人物までもが、大きな顔をして、行っていることであり、まるで、社会の秩序とは、異なる世界があるかのようだ。愚かさを、覆い隠せる程の権力を、得たと信じているのか、その勢いは、増すばかりとなる。諫言を受けることなく、好き放題に振る舞う人物に、やはり、あの地位は、不似合いと言える。

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3月7日(火)−前言撤回

 自らの施策を、間違ったものとは、決して認めないだろう。だが、新たな命令は、前言撤回の内容を含み、批判が集中した、前回の命令には、勇み足とも言える、過激なものが含まれていた、と認めるものだろう。それでも、自分の考えを、曲げるつもりは、毛頭ないに違いない。
 前回の命令でも、批判された部分は、偽情報を流し続ける、不埒な輩どもが、勝手な解釈を施しただけで、根幹をなす考えには、一欠片の間違いも、含まれていない、と主張するに違いない。頂点に君臨する人間には、一切の間違いは、許されない、と信じる人は多いが、人間のやることに、絶対は存在しない。にも拘らず、こんなことを、信じさせる要因には、今回の騒動のように、座に就いた人間が、過ちを認めぬ、頑なさを示すからであり、それを、力ずくで押し通そうとすることで、如何にも、正しいことを行っていると、示そうとするからである。嘘吐き呼ばわりされた人々は、あまりの暴挙に、反発を強めるとも見られたが、現実には、意外な程の冷静さを、保ち続けている。その結果、続出する暴挙の数々にも、冷静な分析を施し、馬鹿騒ぎに加担していた、野次馬的な言動を、続けていた頃に比べて、遥かにましな態度を保っている。その中で、前任者の暴挙を、例の如く、自らの発言の場で、指弾したことは、どんな結果になろうとも、有利になることは、全くないと指摘されている。根拠のない発言には、誰も見向きもしないが、発言者本人は、立場を弁えることなく、まさに、暴言を繰り返す。その中で、法的措置を、取るべきとの指摘も、強まりつつあり、この仕組みが孕む、危険性を排除する為にも、新たな指導者の、無軌道な発言は、いい材料を提供してくれると、歓迎する向きもある。自爆にも似た言動が、どこまで激化するか、誰にもわからないが、そろそろ、限界が見え始めているのは、確かだろう。

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3月6日(月)−安直

 余人に代え難い、と表現する意図は、何処にあるのか。こんなことを、強く訴えねばならない事態から、現場の混乱が、伝わるようだが、実際に、他の人では、できないこととは何か、理解に苦しむ面が大きい。天下り、と一括りにされる、一連の事件には、様々な事情があるようだ。
 監督する立場にあった人間が、現場に招かれることに、疑いを挟む気分は、よく解る所だが、だからと言って、全てが犯罪と結びつくという、考えには、同意できない面が多い。利害関係の問題は、以前より、厳しく見つめられるが、その根拠となるのは、犯罪との結びつきがあるからだろう。だが、これらの問題を、一括して考えようとするのは、かなりの無理が伴うものだ。にも拘らず、関係者は、全てを同等に扱い、そこにある違いには、目を向ける気さえない。しかし、こういったやり方は、百害あって一利なし、という事態を招くだけで、口数の多い人間達に、いい機会を与えるだけに終わるだろう。その結果、どんな利益があったかを、議論する機会は、全く与えられず、早晩、忘れ去られるだけだろう。そんなことに、これほどの時間を割くこと自体、馬鹿げたことではないか。一方で、余人に代え難い、とされた状況については、どうだろうか。現場に、それだけの知識を持つ人が居ない、という意味だろうが、全く同じは難しいとしても、代え難いとまで、表現するほどの違いは、あり得ないのではないか。多様な考え方が、必要とされる時代に、こんなことが罷り通るのは、おかしなことと、言わざるを得ない。そこにこそ、問題の本質があり、その解決に向けて、努力をしようとする気がないのは、教育に携わる場に、そぐわないものである。そんな考えも及ばぬ組織が、安易に飛び付くことには、更に強い不信感を覚える。こんな連中に、次代の人材育成を、任せたくないと。

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