パンチの独り言

(3月13日〜3月19日)
(手出し、飛び火、トンデモ科学、枕、季節のもの、猪突、編集方針)



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3月19日(日)−編集方針

 経済の低迷が続く中、魅力的な言葉で、皆の気持ちを掴んだ人物が、国の舵取りを始めている。将来への期待が、膨らみ始めると、相場を始めとして、多くの指標が、好転し始めたと言われる。だが、口先だけの約束で、どんなことが起きるのか、依然として、明らかにならないままだ。
 海の向こうの騒ぎが、こちらにも飛び火して、楽観的な見方が、勢いを増しているが、こちら側では、肝心の指標も、動きが鈍いままである。これでは、経済活動が、活発になるとは、とても言えない状況だろう。その中で、新聞の中で、経済紙と呼ばれるものが、編集方針を、大きく転換し始めた。週末の紙面に、大変換を施した、と言われる改革には、どんな意図が、あるのだろうか。休みの間は、経済活動も、一服するのだから、それと無関係な内容を、主とした紙面を作り始めた。生活面の充実と、教養を身につけることの、大切さから、こんな編集となったのだろうか。長い目で見れば、経済を支えるのは、人々の消費活動が主体となる。製造業にとって、作ったものが売れなければ、収益を上げることも、難しくなる。だが、生活に不可欠なものに、目が向くだけでは、消費の額も、最低限に抑えられてしまう。そこで、充実した生活に、更なる購買欲を促そうとすれば、多様な生き方や趣味の問題が、中心となるのだろう。経済指標やその分析が、紙面を飾っているだけでは、誰も、何かを買いたいとは思わない、との判断からか、趣味の話を、もっと大きく扱おうということだ。これは、単に、一時の幸福ではなく、人生全体に渡る幸福へと、繋がるものとなる。そうなれば、人生の浮き沈みに対しても、何かしらを貫くことで、何とか乗り越えることが、できるのではないか。まさか、そんな考えに、至ったとは思えぬが、何らかの変化を、望んでいるのは、間違いないだろう。

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3月18日(土)−猪突

 大衆は、愚かなものなのかもしれない。何かある度に、そんなことを、思う人が居るのではないか。兎に角、騒ぎが起きる度に、何も考えずに、無謀な行動をする人に、そんな思いを抱く。組織も地域も、そして、国や世界まで、大衆は、何処にも居るが、何処でも、そんな状態だ。
 実は、そうなることは、自明なのだろう。それが、何とか保たれているのは、それぞれを率いる、指導者のような存在が、あるからだ。だが、最近の状況は、これさえも、危うくなっているように思える。指導者の言動が、愚かな民の代表たるものとなり、それが、人々の尊敬を集めるように、なったからだろうか。愚民政治とは異なる、別の形態に違いないのだが、衆愚政治となりつつあるように、思えてくる。これを、更に極めていると思えるのは、本来、監視する立場にある筈の存在にまで、この病が、蔓延しつつあるからだ。報道は、ただ単に、情報を伝えるだけでなく、指導者の暴挙や、民衆の過ちを、指摘することも、役割の一つとなる。ところが、最近の状況は、ここにまで、愚かさが広がり、大衆に迎合する指導者と、競う合うようにして、騒動を大きくすることに、精を出している。どうなることかと思えるが、それもこれも、自業自得と呼ぶべき、ことなのではないか。加速するように、極端な考えが、巷に溢れているが、それに、制動をかけるような動きは、殆ど見えてこない。それより、深刻に受け取り、批判の声を上げた人を、まるで、人民の敵のように、集団制裁を加えようと、動き回る人が、増え続けていることに、より一層の危機感を、抱くべきではないか。民主主義だから、皆で動けば、と思う人も、その正誤を確かめず、猛進するのでは、崖から落ちることが、すぐそこに来ているように感じられる。

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3月17日(金)−季節のもの

 風物詩は、色々あるに違いないが、話題になるには、条件があるように思う。一つには、それが絶える寸前にまで、事態が深刻化している、というものがある。長い間、人々に親しまれたものが、何らかの事情で、消えようとする、その瞬間を捉え、取り上げられるのだ。
 その一方で、注目を集めることで、その存続は、確実なものになったのに、別の事情が、その存在を脅かす場合も、あるようだ。人の注目を集めれば、それだけ重要なものとの解釈がなされ、整備が様々に行われる。これにより、忘れ去られる危険性は、ぐっと小さくなるのだが、その一方で、多くの人が、参入することで、逆の影響が起き始める。皆が熱狂的に集まると、対象の数や量が問題となるのだ。それにより、嬉しい悲鳴が上がるまでなら、問題となることは少ない。だが、この程度が極まると、足らないことによる弊害が、大きな問題となるのだ。折角注目を集めても、肝心の対象が、どこにも無いようでは、熱も冷めてくる。これが、何かしらの枯渇を招くと、それこそ、熱狂が、元も子もない状態へと、結びつくことになる。特に、風物詩の多くは、自然を相手にしたものだけに、資源の枯渇は、甚大な影響を及ぼす。それまでの細々とした状態なら、資源の維持も、問題なく行えたのに、急激な変化が、悪影響を及ぼしても、一時の熱狂者たちは、そんなことはお構いなしに、熱を入れるのだから、こういった時には、邪魔な存在となりかねない。遠くから楽しむなら、風物詩もいいものだろうが、こんな調子で、熱の波に襲われると、とんでもない結果を、招くことにもなる。

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3月16日(木)−枕

 能力の有無を、様々に取り上げてきたが、どこに居たとしても、材料には事欠かない。自分も含め、何かを課せられた時、どんな対応をするかに、能力の高さが、反映されるからだ。社会全体もそうだが、仕事で接する人々にも、そんな目を向ければ、それなりの判断ができる。
 例えば、どんな場面、どんな時でも、同じ話を繰り返す人が居る。本人は、悦に入っての演説なのだが、聴衆からは、時に、鼾さえ聞こえることがある。何度も聞いたから、ではなく、単に、つまらないからなのだが、その原因は、発言者の不見識ではないか。同じ相手に、同じ話を繰り返すのも、愚の骨頂と言われるが、相手の顔を見ずに、自慢話を繰り返すのも、同じ愚かさを、見せつけている。誰がその場に居て、何を聞きたいと思うかを、無視して話を続ける人の多くは、鈍感であるだけでなく、対応力を含めた、能力の不足が、露呈しているのだ。一方的な話しかしない、ある職種の人々に、こんな傾向が指摘されたのは、随分昔のことで、最近は、臨機応変さが見られるようになっただけに、化石のように、昔の姿を晒す人には、呆れてしまう人が多い。専門馬鹿、と呼ばれる人の多くは、確かに、一部の能力のみが、突出していることで、その地位を手に入れたのだが、最近では、専門さえも、不正や捏造等といった、別の能力を発揮することで、活躍するだけとなり、肝心の能力は、結局、持ち合わせていないこととなる。こんな連中に、他人の注目を集める能力を、期待することは、やはり難しい。時と場合を選ばず、同じ話を続けるのは、やはり愚かとしか言えない。そういえば、落語の枕話は、まさに、そういった思いが込められたもので、ここでの掴みは、話を進める為の、肝心な要素を表しているようだ。

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3月15日(水)−トンデモ科学

 環境汚染が、深刻化した時代に、様々な数値が、規制値として定められた。安心できる社会を、築く為には、環境を保つ必要があり、その為に定められたものであり、その値を超えると、改善が求められることになる。汚染除去や新たな装置の導入等、企業にとっては、負担となる場合が多い。
 そんな値を、遥かに超える測定値が、新たな検査で得られた、という情報に、やはり、と思った人も、多かったに違いない。件の首長も、本来なら、深刻に受け止めねばならないものに対し、思惑との関わりからか、どこか満足げな表情を見せつつ、深刻な事態と、表明していた。だが、それ程の事態が、急展開を見せるような、詳細が、後日判明した。曰く、検査方法の変更があった、というものだ。値に振り回される、無知な人々には、何の意味も伝わらなかったようだが、実際には、科学という世界での、規則を逸脱した事態に、一部には、驚きが広がった。本来、科学的な分析である筈のものが、非科学的な手段では、おかしな事態となるからだ。だが、今度も同じやり方で、行われると伝えられた。根拠は、おそらく、新しい手順こそ、科学的なものである、ということだろう。だが、規制値を定める段階で、これらのことは、確認されているのではないか。もしそうなら、どちらが正しいかは、明らかである筈だ。こんな所で、議論をする必要など、ある訳がない。どうしたものか、と思う。科学は、絶対的なもの、と信じる人が多いが、現実には、相対的なものに過ぎず、客観性こそが、第一となるのだ。客観的な基準を設け、それを厳格に守ってこそ、科学は、万人に受け容れられる。そこを捻じ曲げてまで、自らの主張を通したら、そこには科学の存在はなく、ただ、傲慢があるのみだ。政治家にとって、どちらが重要かは、火を見るよりも明らか、なのだが。

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3月14日(火)−飛び火

 社会に対して、反省を求めることが、役割のように思っているのだろうが、自分達のことに関しては、どうも、その気がないように、思えて仕方がない。戦争へ邁進する中でも、また、その後の展開でも、批判や反省を控え、発表通りに伝えるだけの、為体に関して、あれ程悔やんだのに。
 為政者に擦り寄る姿は、報道人のものとは思えないが、会食と称しての意見交換も、何やら、密室政治を想起させるものとなるだけでなく、戦前の態度と、同じものに見えて仕方ない。そんな批判とは、少し違うものが、飛び交っているようだが、歯止めは、殆ど無いに等しい。不安を抱えながら、次々と、注目を集める政策を、編み出しているとの自負も、批判に曝された途端に、疑心暗鬼に苛まれることとなる。虚勢を張ったとしても、所詮、うわべだけのものに過ぎず、そこから、新たな姿が、飛び出てくるわけでは無い。こんな状況で、少しでも、雑音を減らしたいと、口煩い連中を、集めた結果なのだろうか。情報社会では、思わぬ所から、綻びが現れる。拡散の勢いだけは、こんな時に、有用と見做せるのだろうか。携帯端末を手に、入り口で待ち伏せする、一般人が、群がったとの話もある。さて、本来、伝える側であり、その対象となることのなかった人々が、姿を晒した結果、騒ぎは、それなりの大きさになったようだ。だが、批判jは、的外れに終わりそうで、渦中の人々も、保身に走るような、態度を取っている。そこが、為政者の思う壺だったのではないか。彼らを、味方につければ、自分への火の粉も、然程気にはならない、とばかりに。

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3月13日(月)−手出し

 個人主義の台頭が、様々な問題を、産み出したと言われる。自分の思いを、第一とする考え方は、個人主義の一つと見做されるようだが、どうも、すっきりしない。何もかも、他人の責任とするのも、そこから生まれたもの、との考え方まで加わり、かなり酷い状況にある。
 確かに、他人のことばかり気にして、自分を持たない人間には、期待できないが、だからと言って、自己中心的で、他人のことを、全く気にかけないのは、論外だろう。個人主義が、こういう考えに結びつくと、固く信じている人は多いが、実際には、後から加えられたものではなく、その人自身が、生まれながらに持ち合わせた考えに過ぎず、それを、責任転嫁する為に、後から加えられたと、主張するだけのことだ。実際に、どんなことが問題となるかは、今、周囲を見渡せば、かなり拾い集められそうだが、目の当たりにすると、困ったことになる場合が、あまりにも多い。それも、相手に、その点を指摘すると、態度を豹変させ、こちらを、悪者にしようとするから、手に負えない。こんな状況になったのは、個人を尊重する風潮が高まったからだが、状況の原因となっているのは、個人が生まれながらにして持つ性格のようなもの、に違いない。少しくらい手当てをしても、もう、大人になった人には、どうにもならない場合が多い。だから、手出しをしなければ、放置状態となり、余計に危ない状況を招く。何とも、困った事態であるが、少しずつ、手を出し、口を出すしかないだろう。本来は、家庭に責任を負わせ、学校も、少し考えるべきとは思うが。

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