パンチの独り言

(3月20日〜3月26日)
(非科学、学問の矜持、誘惑、愚策、主客転倒、軟化、被害者)



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3月26日(日)−被害者

 被害者が皆そうだとは言わないが、何処か不思議な感覚を、抱かされることがある。あれ程までに、強く被害を訴えていた人が、或る日突然、豹変した時のことだ。何が変わったのか、不思議に思わされたのは、害を被っていた、受身の姿から、敵の横暴を、攻める立場を見せたからだろう。
 攻め込まれ、抵抗することさえできずに、徐々に追い詰められる。そんな図式が、被害者にあると言われる。弱者保護の考えからか、彼らの無抵抗を、責めるような意見は、殆ど出されないが、多くの人々の心の中には、そんな思いが過る。それが、或る日忽然と、違う姿を見た、と思える時が来る。意を決して、保護の仕組みの中に、一石を投じると、そこから、主張が始まるのだ。勇気を賞賛する声が、次々に集まるけれど、異変に気付かされることがある。事実の訴えが、いつの間にか、誇張が見え始め、脚色にも似た、事実のすり替えが始まるのだ。それまで、誰も耳を傾けてくれなかった、自分の声が、ある人々に届き始めると、そこから真摯な訴えが、始まると言われる。しかし、疑いが挟まれず、全てを信用してくれる、となった途端に、豹変する人が、数え切れない程居ることに、救済の手を差し伸べる人は、気付いていないようだ。誇張の範囲が、広がり始めると、いつの間にか、逸脱が始まり、無かったことまで、事実として、訴えることになる。自己弁護であり、正当化の一種と見做されるが、加害者として、糾弾された人々に、反論の機会は、与えられない。そこに、被害者と加害者の、立場の交代があるように思うのは、おかしなことだろうか。被害者は、可哀想なんだから、などという考えに、縛られる人々は、何の疑いもなく、彼らの訴えを、鵜呑みにする。始まりは、確かに、害を受けたのだろうが、いつの間にか、無かったことまで加わると、相手に、害を及ぼすことになる。被害者救済が、強く訴えられる程、この問題を、蔑ろにする社会に、憤りを感じるのだ。

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3月25日(土)−軟化

 渦中の人間にとって、難題が山積しているようだが、外から見る限り、それ程難しくは映らない。そんなことが、色々な場面で見られるが、解決には程遠い様相だ。理由の一つは、内側の人間の頑なさで、外からの意見に、耳を傾けようとしない。その結果、山積みの問題は、放置される。
 最近の傾向は、組織内の能力低下であり、解決する力は、どんどん減退している。その一方で、頑固さは増すばかりで、それが、更なる問題を、生じる。外部からの意見に、耳を傾けようとせず、かといって、何らかの解決への道を、見出せないままに、時間が過ぎていく。具体的に、どんな問題があるのか、挙げるまでもなく、其処彼処に、そんな状況が、生まれているのは、確かだろう。では、どんな解決法があるのか。最終的に、肝心の組織が、潰れるまで、何も起きないのではないか。頑なな人々が、軟化することで、外からの意見が入れば、何かしらの変化が、起きるのだろうが、それ以外には、方法は無いように思える。では、軟化は、どんな形で起きるのか。追い詰められた挙句、他に道を見出せずに、そんな変化が起きることもあるだろうが、頑固な人が、信頼する人からの意見を受け入れ、そんな変化が起きることもある。何れにしても、自己解決は、かなり難しい状況にあるから、自らが、変化を受け入れるしかない。では、どういうきっかけがあれば、こんなことが起きるのだろう。そこには、種々雑多な場合があり、これという、決定的な方法が、あるわけではない。時の流れ、という形で、緩やかな変化が起き、それが重なった末に、一つの山を越えた時に、こんなことが、起きるのかもしれない。だとしたら、渦中の人々は、どうすればいいのだろう。

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3月24日(金)−主客転倒

 去る人達が居れば、やって来る人達が居る。人生の節目で、人の動きは、様々に変貌する。人の出入りは、そこに居る人々にも、変化を及ぼす。頑なに、筋を貫く人が居る一方で、参入する人々に合わせて、様々な対応を見せる人も居る。どちらがいいとは、必ずしも言えないようだ。
 最近の傾向は、対応が重要と言われるが、そこでも、相手の希望に応じるか、足らないものを、補うような配慮を、見せるか、様々に異なるようだ。絶対に正しい話が、ある訳ではないから、どれを選ぶかは、誰にもわからないものだ。にも拘らず、何かが正しいと信じて、その道を歩む人も居る。何とも不思議な雰囲気だが、これとて、世相に振り回されている部分もある。店と客の関係は、一方的な主従関係のように、扱われることが多い昨今だが、あらゆる場面で、その役割分担が、押し付けられることが、多くなっている。というより、全てを、その二極に捉える、極端な考え方が、世の中に広がっている。客である主人を、演じる時には、何事にも、横暴に振舞う人が、店員である従者を、演じる時には、全ての注文に、服従することを、当然とする。店先での遣り取りでも、異常を感じる言動を、正しいものと信じきる人が、時に紹介されるが、この光景でも、自分が演じると、異常ではなく、正常と思い込めるらしい。そんな世相では、客として扱うことには、かなりの危険が伴う筈だが、現場によっては、その感覚が鈍く、安易に、客扱いを優先させることで、事態を悪化させているようだ。商品や奉仕という形なら、客の扱いも、何とか形になるだろうが、形にならないものを、与えるような場所では、客扱いには、危うさが見える。渡すものが見えぬ中で、次々に要求が膨らむと、とめどない奉仕が、必要となるからだ。こんな主客関係が、色んな場所で、見えているのではないか。

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3月23日(木)−愚策

 留学を志そうとする人の数が、減り続けていると言われる。補助金などをはじめとして、支援の輪は広がるものの、肝心の人々は、心動かされることがないらしい。内向きと批判される中で、ちょっとやそっとでは、動く気配を見せない人達に、何が問題と映っているのだろう。
 魅力と言えば、それまでのことで、それが足りないことが、第一に違いない。努力して、苦労しても、その甲斐がないとなれば、誰も、腰を上げる筈がない。課題山積と言われ、支援があれば、との見込みも、その後の経過からは、空振りと思える。人材育成に、躍起となる人々に、内に留まる若者は、どう映るのか。人の才能や資質が、外的要因により、変貌することは、経験したことのある人には、自明に思えるが、当てはまる人の割合は、言われる程ではない。結局、成功者達の経験を基に、こんな議論が重ねられたが、謳われたような成果は、見えてこない。政策の多くは、所詮、こんなものに過ぎないのだろう。一方で、失敗へと繋がった政策は、数え切れない程もある。質の高い研究論文の数が、他国に比べて、著しく減り続けていると、ある著名論文誌が、伝えていたらしい。その原因として、挙げられたのが、研究費分配の問題で、高額のものに、力を入れる政策が、長く続けられてきた。競争原理と称する、不思議な順位付けを基に、一握りの研究者に、高額の補助金を与えるものだが、一つの論文にかかる経費も、高額となったようだ。更に、競争が、短期的な研究の偏重を、促したことで、論文の質の低下が、著しくなったとの指摘がある。研究自体が、長短様々な期間を、要するものであるにも関わらず、ある圧力が、歪みを強めたとのことだ。納税者に向けて、正当性を主張できる、というのが、この政策の目的らしいが、質の低下が危ぶまれる、研究者の世界に、更なる問題を、生じているのではないか。

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3月22日(水)−誘惑

 大衆に寄り添う形の報道、とでも表現できるだろうか。最近の陳腐化は、こんな解釈が、似合いそうだ。不安があると聞けば、それを解消するのではなく、如何に深刻かを検証し、結果として、更なる不安を煽ることへと、繋がる。落語での、ご隠居さんの立場とは、全く異なる。
 この手法を貫けば、多くの味方を得られる、とでも言うのか、そこに、確実な論拠は無用で、怪しげな情報でも、加担できると判断すれば、簡単に採用する。一方で、如何に論理的と雖も、理解に時間を要するとなれば、大衆の敵とばかりに、消し去るのだ。こんなやり方が横行すると、思惑通りに事が運び、何とも好都合となる。事実を伝えるより、人気を得る為に、少し位の嘘は、問題なしと片付ける。権力者の嘘を、あれ程に追求するのに、一方で、自らの嘘は、小さなものと、意に介さない。はて、そこには、どんな違いがあるのか。倫理や道徳では、嘘の大小に関わらず、意図的なものを、厳しく戒めているのに、現実社会では、こんな暴挙が罷り通る。これと同じことが、様々な世界に起きているのも、人間の感覚にとって、世相が強く反映されるからだろう。例えば、世紀の新発見と伝えられた、ある研究成果に関して、あれ程の大騒ぎをした連中が、手の平を返すが如く、総攻撃に転じた時、成果の主張を伴う、大きな嘘の罪悪が、強く訴えられた。だが、研究現場で、日々努力を繰り返す人々にとって、大きな嘘は、遠い世界のものだが、毎日のデータの改竄は、小さな嘘としか映らない。だから、教授や上司の覚え目出度きように、操作を繰り返すのは、問題なしと感じるのは、当然と考えるとしたら、それは人生における、大きな間違いではないか。それをきっかけに、徐々に感覚が鈍り、より大きなものに、手を染めることになる。小さなことにも、手を出さないことが、肝心なのだ。

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3月21日(火)−学問の矜持

 科学者の不甲斐なさが、露呈し続けている。一つには、不安を解消することができず、煽動者達の思うがままの情報操作に、厳しい指摘ができなかったことがある。知識は、確実性を保証するものではなく、単純に、可能性を示すだけであり、不安という不確実性に、何の手立ても示せない。
 現状からは、こんな解釈が出てきそうだが、本当に、そうなのだろうか。将来の変化に関して、確率で論じられるのは、致し方のない所だが、一人の人間にとっては、ゼロかイチかのどちらかであり、その中間は、存在しないと言われる。その為、議論が噛み合わなくなり、不信感が広がったと言われる。だが、結果を見れば、ゼロかイチかなのだろうが、その途上では、どちらでもない時がある。その時点では、確率でしか、物が言えないのだから、科学の意義は、十分にあるのだ。怒りにも似た、感情をぶつけられることも、科学者達が、苦手とする所であり、そこに、煽動者達は付け込んでいた。論理性の不足も、これに拍車をかけていたのだろう。肝心の研究においても、不十分な論理で、持論を展開してきた、ツケが露呈したのだ。これは、一方で、話題となっている、研究上の捏造や改竄などにも、現れており、地道な検証より、安直な結論を、好む時代となっている。これが、研究の荒廃へと結びつき、それに携わる科学者の、劣悪化へと繋がった。結論ありきの研究では、独善的な論理が、横行するだけに、他からの批判への、対応力は育たない。こんな環境で、育つことができるのも、幼い頃からの、倫理観や道徳観を、蔑ろにしてきた、家庭教育の問題であり、そんな人間が、平気で嘘を吐けるのも、多くの仲間が居るからなのだ。競争社会は、こんな人間の台頭を助け、嘘も方便が、罷り通る。成果を、声高に訴える一方で、証拠の脆弱性には、目もくれない。酷い人間の集まりになったのかも。

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3月20日(月)−非科学

 不安という言葉が、切り札として使われた時、科学者達は、術を失ってしまった。大地震の後に、襲ってきた大津波に、多くの人の命が奪われた時、人々は、不安を口にしていた。その後の放射性物資の汚染に、予期せぬ災害どころか、見えない危険に、不安は募るのみとなった。
 これらの遣り取りの中で、科学的な説明は、簡単に切り捨てられた。難しい話はもとより、簡単な解説でも、不安の素となった危険性を、少しでも和らげるものは、無意味なものとして、却下されたのだ。これ以前にも、非科学的な話は、巷に溢れていたが、それでも、一部の狂信的な人を除けば、冷静な判断の対象として、見向きもされなかった。ところが、恐怖心が募り始めると、冷静さが失われ、不安に寄り添う形の、実際には、それを煽るような話ばかりが、好んで受け入れられるようになった。そこでは、科学的かどうかの吟味は、すっかり忘れ去られ、好悪での判断が、最優先となるから、不安に駆られた人々には、その心理に見合う内容のみが、信じる対象とされたのだ。この問題は、依然として、解決されておらず、報道関係者は、反省を込めて、様々に対応を論じているようだが、未だに、非科学的な内容を、平気で流し続けている。愚かな大衆を対象とすれば、こんな暴挙も罷り通るとばかり、垂れ流す姿には、信頼に値しないと思うだけだ。突然の高濃度の検出に、騒ぎたい人間は、我が意を得たりとばかり、出鱈目な解釈を施すが、愚かな政治家に、科学を理解する気は、毛頭ないらしい。あの時と同じように、科学者達は、冷静な解説を施す機会を、放棄しているから、不安を煽る輩達の、活躍の場が整っている。報道によれば、どんな手順で行っても、同じ濃度となる、と専門家が述べた、となるが、誰が、どんな責任で発言したかは、例の如く、伝えられない。噂で振り回される愚民にとって、それで十分となるらしく、愚かさの競い合いは、止まる所を知らないようだ。解釈の為の科学を、忘れないで欲しい。

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