天候不順である。それも、巷を騒がせている、温暖化とは、正反対の状況に、また、異論が飛び出しそうだ。ただ、あの人々は、温暖化だから、気温が上がるというのは、単純に過ぎる、と言うに決まっている。まあ、専門的なことは、彼らに任せて、不順は、困ったものだ、という話をしよう。
春の訪れ、という意味で、花見は、重要な行事の一つとなる。開花の報道に、心躍らせる人が居るのも、この国の特徴の一つだろう。国民的行事の一つ、等とも言われるが、これ程の騒ぎは、他の国の人には、理解できないに違いない。だが、これ程だからこそ、振り回されることも多い。花見が、花冷えに襲われ、体を震わせながらの一杯、となることが多いのも、その一つだが、今回のように、開花の声を聞いた後に、気温の上下、特に、冬への逆戻りを思わせる、寒さが続いたことで、膨らみかけた蕾も、震え上がってしまったらしく、いつまでも、次の花が開かない、という現象も、人々を悩ませることとなる。季節外れのお花見よりは、ずっとましだとは思うが、いつまでも待たされると、計画が狂うこともあり、こちらも、かなりの迷惑を、招きそうな気配だ。春の風物詩の一つである、いかなご漁は、ここ数年不漁が続くが、これは、天候不順のせいなのか、はたまた、資源の枯渇なのか、よくわからない状況にある。一説には、ある人気番組が取り上げ、爆発的な人気により、業者による乱獲が、起きたと言われるが、風物詩が、巷の人々による、釘煮作りを表すのに対し、既製品で喜ぶのは、例の如くに、一時の熱気に終わりそうだ。すぐに、熱が冷める人々に、振り回されるのは、花見の騒ぎとも、どこか似ているのかもしれない。
褒めて育てる、という考え方は、今、どのくらい認められているのか。悪い点を指摘せず、良い所を見つけ出す。更には、それを強調することで、本人のやる気を、引き出そうとするものだが、耳目を集めた頃から、随分と時間が経つが、効果の程が、検証されたという話は聞かない。
気持ちよくさせる、というのも、萎縮させず、のびのびと活動できるように、という意味があると言われるが、だからと言って、才能が開花するかどうかの、保証はどこにもない。精神的な安定が、何らかの影響を及ぼす、などとも言われるが、こちらも、それなりの域に留まるのでは、成長を促すことには、繋がったと言えないだろう。ただ、こんなやり方が、当然のものとして、世に蔓延った結果、教えを乞う側は、褒められ、優しい言葉を、かけられることが、当然と受け取るようになった。その中で、欠点を指摘したり、その中で、叱責するような態度は、悪い教え方として、糾弾されるようになる。育つ側の萎縮は、見られなくなったかもしれないが、こんな窮屈に押し込まれた、教える側の萎縮は、かなり強まったのではないか。腫れ物に触れるように、殆ど見るからない長所を、躍起になって探すことに、疲れ果てた人々は、精神不安定に陥る場合さえある。相手への配慮が、自分を蝕む結果となるのでは、本末転倒となる。一方で、大きく育った人の経験からは、単に褒められたことだけでなく、ある意味の挫折を味わったことも、重要と見られる。挫折の中には、周囲からの厳しい言葉があり、それへの反発が、成長の糧となったこともある。意識的に、そういう方に導くことは、必ずしもいいこととは限らないが、一方で、一つ覚えのように、誉めそやすことも、歪んだ人間性を、形成させることがある。一辺倒に陥ることは、落とし穴になるようだ。
「情けは人の為ならず」は、正しく理解されていない、とよく指摘されるが、正しい意味でも、実践できない人が居るからこそ、昔から、言われ続けてきたのだろう。人の為にならないから、情けをかけてはいけない、という誤解は、実は、正しい意味で、実践できない人より、ましなのかも。
相手を信頼して、情けをかけずに、成長を見守る、という誤解は、それ自体、何も間違いはない。ただ、本来の意味とは違う、というだけのことだ。では、一方の、実践できない人とは、どんな人種なのか。最近、自己愛、という呼び方を、巷で、屡々耳にするが、他人への関心を無くし、常に、自分しか見ない人間で、他人の関心を買おうと、様々な工夫を凝らす。彼らの特徴は、周囲から受けるものへの、興味の強さであり、周囲への働き掛けも、自分の利益と繋がるものにしか、興味を抱かない。自分のことのみを、必死で主張するという、彼らには、「情け」の話は、誤解だけでなく、正しい意味としても、理解されることはない。自分が受けたい扱いを、他人に行うという考えは、「お互い様」という、この国に根付いたものであるが、自己中心的な考えに、取り憑かれた人々は、勝手な行動を続ける。周囲からの疎外感に、気付くものがあるのでは、との期待は、元々、こんな人間の周囲には、殆ど起きないが、それでも、少しくらいは、と思っても、何の反応も無い。所詮、そんな程度の人間と、周囲は諦めるだけだが、こんな人に限って、周囲の関心を集めたいと願う。自業自得としか、形容できない状況に、振り回された人々は、離れていくしかないのだろう。
自らが中心になっていれば、物事を滑らかにこなす。これは、ごく普通のことだろう。だが、一方で、中核から外れ、外から働き掛けるような、立場に置かれた場合に、どんな仕事ができるかが、実は、その人の実力を測るものと、言われている。自分は、どうだろうか。
中心に居れば、様々な支援が得られ、それなりに、仕事も進むものだ。ところが、孤立無援とはならないまでも、十分な支援が得られない中では、円滑に事を進めることは、難しくなる。できて当たり前の状況では、実力を見極めることは、簡単ではないが、障害が様々にある中で、成果を上げるようだと、真の実力を示したこととなる。経営者には、一度、外に出された経験を持つ人は多いが、これは、武者修行という考え方と同時に、実力を見極める為の、一つの段階を踏むことに、なっている。それにより、外からの目を養うと共に、支援の少ない中で、どのように振舞うかが、見定められる。こんな経験を積んだ人を、中心に戻せば、更なる活躍が期待でき、組織にとって有利に働く、ということだろう。継承を考える上で、こんなやり方が、使われることが多い。これは逆に見ると、中心に居座る人間の多くが、それに安住し、怠けてしまうことを、示している。一時的には、能力を評価され、それによって、登用されたとしても、その地位で満足してしまえば、更なる高みへとは、繋がらないということだ。こんな人間は、周囲にも沢山居るようだ。ある時点までの努力は、怠らないものの、そこから先へは、熱意を無くす、という人も居るだろうが、一方で、彼らの能力が、実は、そこまでのもの、という場合も多い。特に、日々の努力を積み重ね、向上を繰り返した人ほど、こういう傾向にあるようだ。所詮、その程度のもの、と言ってしまえば、それまでのことだが、本人にとっては、折角の機会を、何故、奪われるのか、と映ることも多い。実力だけのことだが、そう思えないのが、人間の常だろう。
弱者保護の姿勢が、浸透しているのだろう。様々な組織で、弱者への対応が進み、支援の輪が広がっている。これ自体を、悪いものと捉える人は、少ないだろう。しかし、これを当然の権利と受け取り、要求を更に高めようとする気配に、社会は、どんな対処をしようとするのか。
障害者と呼ばれる人の括りは、時代の変遷と共に、大きく変わってきた。盲目や聾唖、更には、隻腕などの、身体的な障害を抱える人については、社会の認知が、十分な状態にあるが、精神遅滞と呼ばれる障害に関しては、次々に登場する、新たな病名から理解できるように、対象の拡大が続いている。一見してわかるものと違い、話をしてみなければ、わからないものから、更には、会話からも違和感を覚えぬ程度のものまで、発達障害として括られる、症状に関しては、病気としての認識は、確定したとは言えない状況にある。それでも、弱者保護の観点からすれば、何らかの支援が必要と、教育現場では、特別な対応が施される。一見、人道的な面も含め、適正な対応と思えるようだが、社会への適応を考えると、安易な選択は、過ちを犯すことになりかねない。子供の成長に合わせ、対応の仕方を、変化させていけば、適応についても、的確な道を歩ませられる、とされているが、多くの現場では、画一的な対応で済ませ、成長との調整は、殆ど為されていない。それでも、特別扱いは、歓迎すべきものと、問題を抱えた子供や家族は、受け止めているようだ。だが、更に成長した際に、どんな対応が為され、社会の構成員としての役割が、どのように果たされるのか、課題は積み残されたままに見える。普通、という括りは、このような問題を扱う場合には、禁句のように扱われるが、社会全体として考えると、重要な指標であり、そこに向けての成長を、促すことこそが、障害者への対応として、不可欠なものとなる。しかし、現状は、正反対に向かい、要求が高まるばかりで、普通から程遠い人間を、社会に送り出しているのではないか。
愚かな人間を、相手にする時、どんなことに注意するか。懇切丁寧に、様々なことを、説明する、と言う人も居るが、反対に、何も指示せず、放置する、と言う人も居る。どちらが正しいのか、答えがある訳ではないが、実は、愚かさによって、結果が、大きく異なることがある。
だから、注意せねばならない、ということなのだが、能力が無いだけでなく、愚かさを、更に増すこととは、何だろうか。愚の骨頂とも言われる、こんな人々の性向は、自らの無能さに、気付かぬばかりか、それによって生じた、失敗までも、他人の責任にする、という点にある。つまり、懇切丁寧さが、仇となる訳で、親身になればなる程、却って、逆効果を招く場合がある。こんな劣悪な人間でも、一度の成功を手にすれば、態度が一変する、と指摘する人も居るが、こんな場合には、自分の能力と、勝手に思う程、愚かであるからこそ、失敗は、被害妄想の膨張を招く。その結果、誹謗中傷を重ね、感謝すべき人間に、泥を塗ったり、名誉を傷つけることで、溜飲を下げるのだ。こういう失礼を、何とも思わぬのが、この連中の常だが、それを、周囲で、助ける人が居て、問題を、更に大きくする。こちらも、愚かな人間と、片付ければ、簡単な話で済むが、世の中は、それ程単純ではない。こういう機会に、周囲の人間を、蹴落とそうとする人間にとって、絶好の機会となる訳で、この機に乗じて、自らの地位を、確実なものとしようとする。だが、ここでも、愚かな人間の浅はかさが、露呈することとなる。非論理的で、馬鹿げた訴えを、不用意に取り上げることは、私利私欲に走る人間にとって、機会と映ったからなのだろうが、早晩、愚かさが指摘される。となれば、地位の獲得どころか、無能さを、他人に知られることとなり、それに気付いて、慌てて、切り捨てたとしても、一度ついた烙印を、落とすことは難しい。でも、愚かな人間には、触らぬことが、一番の方法かもしれないが、それを貫くのは、難しい環境もある。
悲観的な意見に、飛び付くような姿勢に、首を傾げることがある。何故、物事を悪く捉えたいのか、正当な判断より、異常とも思える言説に、好意を示すのは、何故なのか。そんなことを思いつつ、騒ぎ立てる人々の様子を窺うと、自分のことを、楽観的に考える姿が、見えてくる。
自分の将来への不安を、覆い隠す為の手段として、他に不安要素を、見出したがるのではないか。隣の芝生が、青く見えるのとは逆に、他に悪いことを見つければ、自分のことが、よく見えてくる、とでもいうのか。何とも不思議な、行動様式だが、物事を、正しく捉える代わりに、こんな固定観念を、持ち出しているとしたら、何と不幸なことか、と思えてくる。災害などの際に、目の前の危険を、楽観的に捉え、大したことはないと、行動を起こさぬ人の多くは、こんな考え方を、持っているのだろう。自分には、何も危険なことは、起きない。と思い込むことで、安心を、手に入れていると信じ、それにより、日々の生活を、楽に送っているとしても、何も起きなければ、問題が生じる筈もない。だが、大震災の光景が、画面に映し出され、安全や安心が、身近にあるとは、限らないと思い知らされると、不安に苛まれることとなる。でも、これまでの人生同様に、楽観的に生きたいと思えば、自身とは無関係な所に、不安要素を見出して、それに、恐怖を感じるふりをすれば、自身の周囲は、安心へと変えられる、と思うのだ。冷静に考えれば、危機回避からは、程遠い状況であり、察知能力も、衰えるばかりとなるが、心の安定は、手に入れられる。そこへ、周囲からの声かけが舞い込めば、まさに、安心が手に入れられる。こんな騒ぎに、付き合う必要などある筈もないが、これに乗じて、利益を得ようとする人間にとっては、まさに機会到来となる。そんな見方をすると、不埒な輩の思惑も、見破れるのではないか。