これも、異常気象の現れの一つ、と言われるのだろう。少し早めの開花については、誰も気に留めなかったが、その後の展開については、諸説紛々、様々な意見が飛び交った。花冷え、と言われるものも、折角暖かくなったものが、寒さを感じる程度だったのが、冬に逆戻りでは、意外となる。
ただ、桜の花を、行事と結びつける伝統からすれば、この冷え込みを、歓迎する声もあった。あの開花の時期からすれば、今年も散った後に、と予想した人が、多かったに違いないが、一週間程の足踏みから、丁度良い時期になり、華やかな出迎えに、気分を新たにした人も、多いのではないか。季節の移り変わりは、人間の思い通りに、なる筈もないのだが、それでも、様々な思いが過る。こうなれば、ああなれば、などと願う気持ちも、春の訪れと共に、浮ついてきた気分を、落ち着かない方向へと導く。春の変調が、こんな所から始まる、と言われるが、環境が変わった人々にとって、期待と不安が、入り混じった気分を、味わう季節となる。人間の心のように、植物が感じる筈もないが、もし、そんなことがあったとしたら、今回の混乱に、心穏やかで居られず、不安に思うことが、あったのかもしれない。ただ、動きが取れない植物にとって、そんな悩みがあったとしても、逃げ出すこともできず、その場で、新たな変化を待つしかない。異常があったとしても、春は、必ず訪れ、徐々に、夏へと向かうに違いないのだから。
走る凶器と、呼ばれた時代があった。毎年のように、増え続ける、交通事故死の数に、公害対策と同様に、様々な対策が講じられた。それでも、増加の一途を辿っていた死亡者の数が、減り始めるには、かなりの時間がかかった。でも、当時と比べたら、半分以下に減ったのだ。
減少の原因は、様々にあるだろうが、車自体の改良が、最も大きな要因だろう。今では当たり前の、シートベルトも、以前は装備されておらず、更に、三点ベルトへの変化が、大きいと言われる。それに伴う法規制が、実は最も大きいのかもしれないが、未だに、装着していない運転者を、見かけることは、別の思いを抱かせる。安全性を高める為として、エアバッグなるものが、登場してきたことが、更なる減少を招いたのだろう。だが、ここまでの話は、車の中のことに、限られている。死亡者の半分は、乗車していなかったとされ、歩行者や自転車に乗った人、なのである。彼らの安全には、車の性能も、大きく影響するが、やはり、最も大きいのは、運転技能の問題とされる。免許を取る為に、ひと月ほどかけて、技能を磨くのが、この国での常識となっているが、それでも、間違いは起き、暴走した車は、凶器と化す。そんな事故の報道は、絶えることがなく、防止装置の開発が、続いているそうだ。自動運転も、その一つと思われるが、これとて、現状では、不十分な性能に、批判が出ている。技能の問題は、確かに大きいが、それよりも、ずっと大きいのに、あまり意識されていないのは、相互信頼、という問題だろう。道路ですれ違う車が、何故、こちらに向かって来ないか、そんな疑問を抱く人は、まず居ない。規則だけでなく、この部分の信頼が、安全に繋がるのだが、意識することさえない。この点への意識が、少しだけ高まるのは、多分、意図的暴走に関する、報道がなされた時で、オタクの街での暴走は、記憶に新しいが、最近は、海外でのテロ事件が、それに当たるだろう。
一世を風靡した表現の一つに、「皆で渡れば怖くない」というものがあった。国民性を表す言葉として、的確なものとの評価もあったが、個人主義の台頭に従い、徐々に、忘れ去られていった。と思ったが、実情は、そうでもない。仲間外れを、極端に嫌うなど、独特の感覚は、確かにある。
学校で問題となった、イジメに関しても、精神的な面では、仲間に入れて貰えないことが、一番強く感じられる。ここでも、独自の道より、他と同じ、という考え方が、最重要となる。だが、長じても、そんな考えに取り憑かれている人々は、幼稚な心が、そのまま残っているらしい。無垢と言えば、聞こえが良さそうに思えるが、実際には、残虐性を備えた、幼い心は、危険極まりないものとなる。そんな思いを、強くさせられるのは、世相の極端さに、触れることが、毎日のように起こるからだ。保身の一つなのだが、立場が弱くなった人間を、皆で、総攻撃をする社会には、異常性しか感じられない。イジメ問題と同じように、被害者にならない為には、加害者側に立つことが、重要となる。傍観で済んだ時代と違い、今では、どちらに与するか、二者択一を迫られる。惨状を眺めれば、どちらに立つかは、火を見るより明らかで、皆そうしている。同じことを、大人になっても、行っていることに、誰も気付いていないのか。そんな筈はなく、心の隅っこに、小さな罪悪感を持ちつつ、罵声を浴びせているのだろう。無垢ではなく、思惑の果てなのだ。こんなことが、罷り通るのも、論理的な思考を、する能力を身に付けなかった為で、それを覆い隠す為にも、攻撃側に与する。愚かな人間、と思う人もいるだろうが、弱い立場に立たされたら、どうするか。現実には、正しいことさえ行えば、こんな窮地に陥っても、救う神が、現れるのだが。
難しい話は、昔から、歓迎されるものでは、なかった。だが、それでも、果敢に挑み、四苦八苦しながらも、少しでも端緒を掴もうと、努力する人が居た。最近は、そんな姿を見かけることは、殆ど無くなった。難しさは、敬遠され、分かり易さが、強く求められるのだ。
その結果、どんなことが起き始めたのか。端的に言えば、白痴化が進んだ、ということだろう。理解力の減退だけでなく、それを基にした、判断力さえも、欠如が目立つようになった。分かり易いか、分かり難いか、ということと、理解力は、本来、無関係な筈だが、難しさに挑む意欲が、何かを活性化しているらしく、別の効果が現れる。その結果、ある程度の理解力が、保たれているだけでなく、判断力も、必要となる程度には、備えられる。ただ、こんなことを書いても、安易に走る人々には、何の影響も及ぼさない。わざわざ、困難に立ち向かう、という意欲を、一度も抱いたことのない人にとって、かなりの危険が伴うと、映るからだろう。こんな世相の中では、難しい話を、分かり易く説く人の、人気が高まる。その多くは、画面に映し出され、言葉巧みに、解説を施す。納得が得られた、視聴者は、大歓迎の様子で、高い人気が、更に高まる。ただ、この感覚は、庶民独自のものであり、難しい内容の専門家は、全く異なる反応を示す。正確な説明がある中で、分かり易さを、追求した結果、ある部分に関して、不正確だったり、時には、嘘が付け加えられる。それでも、聞き手にとっては、理解できた喜びが、優先されるから、それでよし、となる訳だ。でも、この理解は、まさに、誤解であり、それに基づく判断は、妥当なものにはならない。これだけとか、楽々とか、そんな謳い文句が、巷に溢れる中では、こんなことを、気にかける人も少ない。ただ、こんな傾向が、更に強まると、悪巧みが、簡単に広がりそうだ。
選ぶ為の手法に、変革の波が訪れている。数値を頼りに、順位付けをし、それを基に、選ぶということに、変化はないのだが、何を指標とするか、について、様々な意見が飛び交う。記憶力を測る指標が、正確さを含めて、頼りになるものとして、長い間使われていたのだが。
以前との違いが、何処に出てきたのか、この問題さえも、正しく解析されておらず、暗中模索が、続けられている。記憶に頼る勉強から、全く異なる学習へと、成長に従い、人間は変貌を経験する。ところが、最近の傾向は、記憶に関してさえ、丸暗記ということへの反発から、なるべく少ないものを、対象としており、それによって、子供達の能力は、伸びるどころか、減退が著しいと言われる。「これだけ」とか、ある事柄だけを反復とか、少なくなることで、それだけに接する習慣が身に付き、対象を自主的に広げることは、百害あって一利なし、と見做されるようになった。結果は、巷で話題とされるように、狭くて浅い知識しか、持ち合わせていない人が、世に溢れている。この状況に、危機感を抱いた人々は、選抜の指標を、別のものへと変える必要を、強く訴え始めた。記憶力でなく、思考力に対象を移したのは、その一つの表れであり、意欲を、測ろうとする動きも、その後の変化への、影響が肝心との考えが、台頭してきたからだろう。何れにしても、何が肝心かは、決定的なものがある筈もなく、何事も、試行錯誤が肝心、となるに違いない。だとして、現場の人々は、何をどうすればいいのか。実は、肝心なのは、何も選抜に限ったことではなく、その後の対応の方が、遥かに重要となる。それに気付かないままに、入口だけの対応に、躍起になっていたら、また、同じ失敗を繰り返すだけだ。鍛え方が肝心という訳だが、巷に溢れるような、接客の基本が、こんな所に蔓延ると、何をどうやろうが、同じ失敗に陥るだろう。
人材の育成は、喫緊の課題である、という意見に、反対を唱える人は、居ないだろう。だが、その為に必要な方策は何か、という問題に関しては、それぞれ様々な持論があり、結論が導けない。とは言え、喫緊であることには、変わりがないのだから、何かを始めなければならない。
そんな状況から、種々雑多な方策が、次々と編み出され、実施に移される。緊急事態であるからこそ、即席でもいいから、速効性のある対策が、最も魅力的に映るが、これまでの実績を眺めると、鍍金はすぐに剥がれ、地金の弱さだけが、後に残ることとなる。人材として考えれば、こんな変貌を遂げた人々は、一時的には、有用な人材と見做されるが、早晩、応用力や対応力の欠如が、露呈してしまい、お荷物と化してしまう。では、長い目で考えればいい、と思うのだろうが、何をどうすれば、長い目で見た成果を、手に入れられるのか、となると、誰も、答えを持ち合わせておらず、即席のものと変わらず、同じような鍍金を、分厚く盛っただけのこととなる。剥がれるまでの時間はかかるが、地金が鍛えられておらず、同じような結果に繋がってしまう。速効性は魅力的としても、それは、結局、地力を伸ばすことには、ならないとなれば、まずは、じっくりと、本人達の資質を、伸ばす必要があるだろう。これ自体は、さほど難しくはないが、どんな資質があるのか、を見定めることに、最近は、困難を感じることが多い。自己評価も含め、表面的なものに目を奪われ、本質的な能力を、測ろうとしないから、資質を見極められない。だからと言って、何でもいいから、と始めてしまうと、地金の鍛錬より、鍍金を施す結果となる。これでは、また、同じ結果しか導けない。こんな堂々巡りを続けないと、実は、問題の本質は、見えてこないのだろう。ただ、こんな自明なことに、気付けない程、最近の混迷は、深く潜り込んでしまったようだ。
民主主義の根幹が、揺らぎ始めている、と言われる。民衆による、多数決の結果から、大きな判断が、下される中で、予想外の結果が、生まれているが、それが、肝心の社会の、歪みを大きくしかねない、とされるのだ。何かがおかしい、とは思っていても、それが何なのか。
政に携わる人々だけでなく、国や世界の行く末を、案じる人々も、姿の見えない怪物に、恐れを感じているようだ。だが、相手が見えなければ、対応策など、講じられる筈もない。解析力不足なのか、あるいは、洞察力不足なのか、どちらにしても、情報を、正しく理解することが、できていないようだ。大衆迎合が、問題の根源である、との意見もあるが、一方で、個人主義の台頭を、諸悪の根源、とする考えもある。どちらにしても、大衆の愚かさが、こんな問題を、噴出させている、ということなのだろう。だが、本当に、そうなのだろうか。愚かな大衆を、産み出したのは、一体全体、何なのか。その答えを、導き出さない限り、対応の手段は、見出せそうにもない。個人主義が、私利私欲を招く、とする人々の意見は、根本的に間違っている、と思うのは、個人を尊重するにしても、その個人が、自身のことしか考えないかどうかは、全く別の話となる。倫理とか道徳とか、そんな言葉が、最近、頻繁に飛び交うのも、誤った個人主義の根底に、私利私欲が、露呈しているからであり、それを是正することなく、大衆を排除しようとすれば、一部の権力者による、独裁主義という怪物に、社会が占領されてしまう。大衆迎合の一部も、そんな権力者の企ての、独裁への道筋の、過程の一つに過ぎないかもしれないが、それにしても、目の前の褒美に、飛び付く浅はかさと、倫理的な考えの喪失に、どこから始めれば、対抗できるのかは、明らかなのではないか。