パンチの独り言

(4月10日〜4月16日)
(話し合い、お気楽、看破、目論見、受け身、放任主義、微温湯)



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4月16日(日)−微温湯

 散り際などと評される、花の様子は、この国特有のものと、されることが多い。パッと咲き、パッと散る、そんな様子は、潔さなどと称されるが、今年は、随分と状況が違ったようだ。咲き始めてから、枝一杯の花が開くまでの、時間のかかり方も、それが散るまでも、楽しめた。
 あんな調子だと、何だか、様子が違うね、という声も、聞こえてきそうだが、楽しみ、という意味では、存分という気持ちが、残っただろう。だが、気質との比較は、どうだろうか。世の中は、潔さなど忘れ、様々なことに、しがみつく人々が、恥ずかし気もなく、大きな顔をして、居座り続ける。能力があるなら、まだましだろうが、無能な上に、動かぬ人々の様子に、周囲は、諦めの境地になる。だが、こんなことが起きるのは、花が天候に左右されるのと同様に、本人の問題だけでなく、環境の問題も大きい。利害のみで動く人々が、周囲を固めることで、好き放題に振舞う人は、我が物顔で動き回る。こんな人々には、諫言など、響く筈もなく、批判の主を、吊るすことさえ、当然のことと思い込む。彼らにとって、味方の存在が全てであり、他への配慮はなく、暴走を続けていても、腹心達の存在を、心強く感じる。連帯責任、と言ってしまえば、その通りに違いない。だが、件の人物も、腹心とされた人々も、責任を感じることなく、荒廃への道を突き進む中、城を守ることに、躍起となる。何処かから、新たな働き掛けが起きれば、簡単に変わる状況も、こんな環境が続けば、荒れ放題となっても、何も変わらないとなる。声を上げる、行動に出る、そんなことは、苦もなくできるが、吊るし上げを食らえば、元も子もない。だが、どこかで、一線を越える必要がある。

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4月15日(土)−放任主義

 子供らしい、と片付けてしまうことに、違和感を感じる。大人が、同じ行為をすると、厳しく糾弾され、その残虐性が、指摘されることもある。純粋無垢と、幼い子への、固定した印象があるが、様々な事情を鑑みず、思ったことを、そのままに表現することは、惨いことになる。
 そんな子供達に、新たな武器が手渡されると、棘のある言葉が、広く拡散されることになる。無配慮の言葉には、惨たらしさが含まれ、悪意さえ感じられるが、それを、子供らしい、と片付け、温かく見守る姿勢が示される。あるべき姿が、示されることなく、伸び伸びと育つ環境を、整えたとの思いからか、彼らの残虐性に、叱責の言葉は、かけられることがない。そこでは、倫理や道徳も、余計な束縛となると、触れられることがなく、異常性のみが、すくすく育てられる場合もある。幼さから、反発を露わにする年齢を経て、大人へと変貌する中で、抑圧を経験すれば、矯正の機会も得られるが、それさえも、自己への溺愛により、忌避へと走り、自らの世界へと、閉じ籠る。そんな子供達は、いつの間にか、世間との関わりが、希薄になるばかりか、周囲への働きかけも、独自の世界からとなる。こんな状況に、思い当たる部分を、持つ人は、おそらくかなりの数に上るだろう。そんな未熟な大人達から、害を及ぼされると、突然、迷惑を感じるだろうが、それ以前に、その問題を矯める機会は、多くあった筈だ。その時、子供だからと、放置した責任は、家族にも周囲にも、あるのではないか。確かに、本人の責任が、一番重いのだろうが、それと同じくらい、親の責任も、周囲の責任も、あるに違いない。

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4月14日(金)−受け身

 学びに関して、世の中は、様々に機会を設ける、そんな時代である。だが、そんな盛り上がりの一方で、学ぶことに関して、どんな印象を抱くのか、最近の傾向は、昔と比べて、かなり違った様相を示す。受け身の姿勢が、教育現場で、目立つからなのだが、その原因はどこにあるのか。
 学ぶという行為は、その主体が、積極的に動くことを、指している。だが、現代社会では、用意された台本通りに、一つ一つの台詞を覚え、それを無難に演じることが、何よりも優先される。ある範囲のことを、如何に効率よく、如何に確実に、身に付けるかが、競争社会を生き抜く術として、それに必要な材料を、手に入れれば、競争を勝ち抜ける、と言われている。これを、「学び」と呼ぶ人もいるが、本人が、待ち構えているだけで、積極的に働き掛けることなく、大人しく従う姿には、受け身という表現が、ピタリとくる。自分の知識が、不足する事態が、訪れたとしても、それは、用意されたものの不備であり、自分の責任は、問われる筈がない。と考える人々が、巷に溢れているのも、こんな事情があるのではないか。安定した時代に、必要となる材料は、ある範囲に限定され、これだけ、という言葉が、現場でよく聞かれる。それを、何度も繰り返し覚えることで、学びが終了するという信じ込みは、ある意味、安心へと繋がる心理だが、これでは、更なる成長を、期待することは難しい。その結果、能力不足の人間が、社会へと進出し、現場の混乱は、深まるばかりとなっている。では、積極性がありさえすれば、この問題は、解決するのだろうか。積極的な働き掛けも、最近は、殊更に取り上げられ、その秘訣の伝授が、教育現場では、最優先の課題となる。ただ、ここでも、積極とは見かけに過ぎず、以前と同様の、受け身の姿勢が、続いているように見える。限定された範囲に留める、そんな教育が、今の流行となっているからだ。

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4月13日(木)−目論見

 情報の操作に、躍起になったとしても、それが、難しい状況にあるのが、最近の傾向だろう。情報の発信源には、昔であれば、マスメディアと呼ばれる、組織だけがなれたが、今では、個人でさえ、簡単になれる。組織の優位性は失われ、権威は失墜したが、操作は、更なる転落を招いている。
 情報伝達に携わる人々も、混迷の時代を、どう生き抜くのか、暗中模索が、続いているようだが、全く別の場所で、情報について、大きな間違いを、繰り返している人々がいる。どんな組織も、階層性があり、上に立つ人間は、下の人間より、多くの情報を、手に入れることができる。そこから、情報の流れを、意のままにしようとする人が、出てくるのも、致し方ないものとされた。優位に立てば、その地位を利用して、優位性を、より確実なものにしようとする。簡単な図式に思えるが、実際には、自らの立場を、確実にすることが、組織の存続を、危うくする場合も多い。私利私欲に走った結果、母屋が崩れたので、元も子もない。こんな単純な筋書きに、何故、多くの人が、気付かないのか、不思議に思えるが、当人達は、自らの立場を守ることを、組織の盛衰より、優先するようだ。こんな衰退の過程で、多くの人が、心に描くのは、組織を治めているという実感で、不都合な情報の流れを、遮断することで、過ちが露呈しないようにする。これが続けば、荒廃は深まるばかりとなり、構成員の意欲も、それと共に、減退し続ける。それでも、こんな管理者は、その原因を、他に求めることで、正当化を続けようとし、自らの立場を守り、悪化を放置し続ける。どこにでもありそうな現象だが、こんな暴挙が続くのは、情報の疎通が、思惑通りに出来るからだろう。ただ、最近の傾向からすると、意図的に口を噤まぬ限り、情報の流れを、止めることは難しいから、こんな人の存在自体が、難しくなりそうだ。

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4月12日(水)−看破

 マスメディアが、情報を牛耳っていて、都合の良い悪いで、流すべきものを取捨したり、時には、捏造や改竄をして、大衆を操っている、と言われる。海の向こうの大統領も、不都合なものばかりを、流し続ける連中を、排除しようとしたり、嘘吐きと断じたり、と派手な動きをする。
 こんな時代だから、情報の真偽を、判断する為の力を、身に付けることが第一と、訴える人々の意識の中には、戦前の、軍による操作が、浮かんでいるようだ。では、どうすればいいのか。単純な方法が、ある訳ではないから、それぞれに、工夫を凝らす必要がある。では、どこから始めればいいのか。こちらは、意外に、簡単なことに思える。特に、操作を悟られないようにと、報道は、様々に仕掛けを仕込むが、所詮、浅い考えに基づくから、馬脚は、色々な形で現れてくる。例えば、先日話題とされた、核廃絶に関わる条約についての、交渉会議に関するものでは、国営とも見做される、ある放送局のニュースは、何度も、「核の傘」の下にある為、とこの国の事情を、説明していた。だが、政府の主張は、保有国の参加が不可欠、という点が、不参加の理由とあり、ある意味、深読みの結果を、報道において、第一とした訳だ。一見、妥当なコメントと思えるかもしれないが、これも、情報の操作の一つとなる。一方、全国紙の新聞においても、悪質としか思えない、見出しの捏造が行われていた。大学病院での不祥事は、様々に伝えられるが、今回の報道は、以前のものとの繋がりを、明記しようとするもので、そこでは、「◯大手術死で戒告…病院発表」という見出しが、踊っていた。戒告の対象は、保険請求における不正、によるものであり、その中には、死者を出した手術も含まれるとはいえ、直接の理由とはならない。これもまた、操作を意識した結果であり、内容から、簡単に見破れるものだ。こんな所から、始めてみれば、真偽の見極めが、できるようになるだろう。

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4月11日(火)−お気楽

 そろそろ、新しい環境にも、慣れてきたのではないか。人生の転換期に、様々な変化を経験するが、中でも、入学と入社は、特別な思いを抱きながら、期待と不安の入り混じった、ドキドキ感に包まれる。明るい未来を、夢見たとしても、暗礁に乗り上げ、お先真っ暗、となることもある。
 でも、何が起きたとしても、それで、全てが決まる訳ではない。確かに、思い通りにならないことで、期待が裏切られることもあるが、それは、逆に見れば、予期せぬ展開に、入ることであり、期待以上となることも、あるのではないか。それを、予想外の展開が、始まった途端に、落胆を感じ、将来を案じるのでは、損をしてしまう。どんな変化にしても、良いか悪いかが、すぐに決まる訳でもなく、徐々に、その姿が見えてくるのだから、暫く様子見を続けることも、大切な姿勢だろう。将来に悲観して、それを行動に移すのだったら、別のことを、考えてみるのも良い。悪く考えようとすれば、簡単に、自分を穴の底に落とすこともできる。それをそうしないでおくのも、知恵の一つだろう。結果を、早く知りたいと思い、将来が見通せると思う、そんな現代の若者達に、欠けていると思えるのは、柔軟さと辛抱ではないか。自分の可能性を信じる割に、一つでも悪い目が出ると、すぐに諦めてしまうのも、頑なさの表れと思える。初志貫徹も、大切な姿勢の一つだが、それを保持しつつ、別の方向を、考えてみるのも、悪いことではない。何しろ、可能性を上げるだけなら、大した努力も必要なく、簡単に済ませるのだ。もし、その目が無くなっても、考えの中だけのこと、と片付ければいい。気楽な人生を、とは言わないが、自分を、檻の中に押し込めるような、制限をかけるのは、馬鹿げたことと言わねばならない。

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4月10日(月)−話し合い

 好き嫌いで、物事を区別することに、何の違和感も抱かない。そんな人間が、巷に溢れることで、様々な歪みが、見え始めている。以前から、こんな人々は、沢山居たのだろうが、それでも、現状のような、多数派を占めることは、なかった。情緒に走れば、論理は通じず、議論の機会は奪われる。
 こんなことを書いても、何の問題も感じない、と思う人が増えたのも、実は、感情で、物事を判断することに、慣れた人が多いからだ。好き嫌いの、何処が悪いのか、と思うのも、そんな世相の反映がある。友達や仲間を、殊更に、強調する風潮も、同じ背景から来ている。これから生じる歪みについて、少し考えれば、解りそうに思うが、本人達は、何の矛盾も感じない。好きな者同士、同じ話題に触れれば、楽しさが増す、と考えるようだが、こんな時には、間違ったことでも、誰も気付かず、問題が起きても、なお、気付かぬままのことがある。団体行動において、確かに、周囲との調整は、必要となるに違いないが、同じ考えだからと、安心してしまうことは、慢心にも繋がる。ここでの、一番の問題は、これらの問題を、指摘する人間が出たとしても、彼らを、異端と片付けることで、仲間同士の関係が、保たれることだろう。異端とされた人間は、仲間外れとされ、嫌悪の対象となる。イジメと呼ばれる行為の多くは、こんな背景から生まれ、好き嫌いの区別から、極端な扱いも、正当化される。これでも、議論は、始まりそうにない。議会と呼ばれる場でも、同じようなことが行われ、所属する組織の方針に、従うことが当然とされる。本来、議論を基に、様々なことを決める場が、誰か、組織の中心に居る人間が、決めたことが是とされ、それに与するだけでは、個人の考えが、罷り通るだけとなる。議論から程遠い状況に、違和感を抱く人も、嫌われては困るとばかり、口を噤むのだろう。

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