パンチの独り言

(4月24日〜4月30日)
(愚の骨頂、信じ込む、規則で縛る、総攻撃、恥知らず、粉飾、国の事情)



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4月30日(日)−国の事情

 不安との声が聞こえるが、実体が見えないだけに、どうにもならないとも思える。その中で、影響力があるからと、提案がなされたが、こちらも、露骨な程の思惑が見え、遠慮したくなる。駄々をこねるように、勝手な言動を繰り返すのは、周囲の思惑に、期待するからだろうか。
 力を誇示したとしても、所詮、小さな国のすること、どれ程の狂気でも、大したことはできない。これ程明らかなことでも、無理強いは、窮鼠猫を噛む如く、何をしでかすか分からぬと、周囲は、腫れ物でも触るかのように、慎重な姿勢を見せる。だが、そこでも、目論見が蠢いており、大きな国は、少しでも有利になるように、とばかりに、一見妥当と思える提案を、差し出している。でも、そういう動きを、警戒しているのは、件の国だけでなく、大きな顔をする国も、同様だ。その提案で、何が手に入るか、はっきりしないだけに、提案として、妥当とも思えるのだが、よくよく考えてみれば、それを通せば、次に何を欲しがるか、限りのないことと、見えてくる。問題解決より、自分達の思う所を、とすれば、何事も、簡単に片付くように見える。しかし、駄々っ子には、本当に、自分のことしか見えない。だから、資源の枯渇が、目の前に迫っていようが、ある限りの力を、見せつけようとする。ある意味、暴発を待った方が、簡単な解決に、導けそうに思えるが、隣の国は、そうもいかないだろう。特に、今、久しぶりの不安定に、陥っている国は、頂に据える人を、選ぼうとする最中である。どちらに転べば、自分達に有利となるか。全く同じ疑問に、彼らも取り組んでいるのだ。こちらは、まるで他人事のようだが、さて、それで良いのか悪いのか。

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4月29日(土)−粉飾

 何を今更、と思うことは、度々あるものだ。その多くは、鳴り物入りで持ち込まれたものの、何の成果も示せず、打ち捨てられたのに、或る日突然、蘇ったように現れる。失敗に学び、姿を変えて登場する場合もあるが、時宜を逸したとばかり、そっくりさんが現れることもある。
 十分に練られたものでも、目的を達成できるとは限らず、失敗との烙印が押される。そのまま忘れ去られたとしても、どこか奥深くに潜んでいて、突如として復活、という場合がある。最近、様々な組織で、自己評価なるものが、実施されていると聞くが、これも、成果主義の始まりの頃、給与の自己申告という、不思議な制度が、採り入れられたことを、思い起こす。自分の価値を、自ら主張するなどというのは、とんでもないことと、当時は、物議を醸していたが、その後、徐々に静かになり、今では、何も聞こえてこない。おそらく、無意味な制度と、破棄されたのだろうが、どこに問題があり、何が功を奏しなかったのか、総括も聞こえてこない。何の反省もなく、ただ忘れ去られただけとしても、それが、自己評価という形で、復活したように思えるのは、的外れな指摘だろうか。評価は、個人に対して、組織が行うものという考え方は、昔から、当然のものとして扱われてきた。それを、自分でやれ、という指示に対して、これ幸いと思う人々は、あの自己申告に、欣喜雀躍した人と同じだろう。客観的な評価では、日の目を見ない人々が、自己主張をする機会を得て、喜ばない訳がない。その結果、粉飾にも似た行為を、平然と行うのは、自己申告の時と、そっくりなのだが、それだけでは、また失敗となるしかない。そのまま受け止めず、申告に従って、再評価を施す、とすれば、少しマシなのだろうが、これなら、初めから、組織がすればいい、となる。さて、どうなることか。

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4月28日(金)−恥知らず

 本邦初、とは、昔はよく耳や目にしたものだが、最近は、とんと聞かれなく、また、見かけなくなった。世界的な視点が、強調される中で、井の中の蛙を、地でいくような表現は、避けられている、との見方もあろうが、客観性を装った、自己中心的な見方が、敬遠されているのだろう。
 では、そんな表現を使い、耳目を集めようとしていた、そんなあざとい気質の人間は、一掃されたのだろうか。どんな時代にも、そんな人間は、大きな顔をして、他人を蹴落とし、出世の階段を上がろうとする。だから、という訳でもないが、そんな劣悪人間は、今でも、世の中で、重要な地位を占めているのではないか。本邦初、という恥ずかしい表現を、使わずとも、彼らは、自らの拙い成果を、注目の的として、掲げる術を持っているのだ。注目を浴びる為に、初めて、という表現は、最強のものと見做されるが、国の単位では、恥ずかしいとしたら、いっそのこと、史上初と言えばいい、となるのが、興味深い論法だろう。あらゆる分野において、細分化が進む中では、隣は何をする人ぞ、とばかり、近隣のものに対する、不明が深まるのは、致し方ないこと、とされている。学問でも、同じことが起きており、研究成果の発表において、よく調べもせずに、初を謳うことがある。無知が招いた結果であれば、罪も浅いのだろうが、これを、意識的に行う連中が、世に蔓延るようになると、その罪深さに、倫理や道徳の問題を、引き合いに出す必要を感じる。捏造や改竄などといった、行為ばかりに注目が集まるが、それが問題視され始めた頃には、既に、初を謳った「誇大広告」を流す、似非一流研究者が、学界を闊歩するようになっていた。膨大な資料を、綿密に調べることは、研究の進展には、利益をもたらさないから、誰もが、既知と未知の区別を、つけられない状況となり、初に関しても、言った者勝ち、ということになる。こんなことを繰り返し、地位を築いた者が、国から褒美を貰えたとの報に、遂にここまで、と思うけれど、これもまた、国という井戸の中での話に過ぎない、のかもしれない。

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4月27日(木)−総攻撃

 失言、確かに、不適切な表現だったのだろう。それにしても、集中砲火の激しさに、背筋が凍る思いを、抱いた人も居るのではないか。次は、自分の番、などと心配するのではなく、一度勢いがつくと、それを緩める力が働くことなく、暴走を続ける、そんな社会への不安からだ。
 先制攻撃、などという言葉も、最近、不安定となっている地域で、暴力国家から、放たれている。それに対して、対抗措置を訴える声も、あの暴走とよく似た形で、勢いを増し続けている。動かぬことが、必ずしもいいこととは言わないが、それにしても、これほど、簡単に、興奮状態に陥り、その気を冷ます気配の無さには、危うさばかりが、目に付くという感じだ。議論好きな人々も、こういう雰囲気の中では、沸騰することとなり、いつの間にか、冷静な態度が、急変してしまうことも多い。左に属すると言われる人は、右の人々の興奮ぶりを、冷ややかに見つめることが、多かった筈なのに、今や、騒動の渦に、巻き込まれている。皆で騒げば、怖いものはない、とでも言いたげだが、果たして、暴走ともいえる行動に、安心や安全が、確保できると言えるのか。騒動を収める為の、法律の話とて、こういう騒ぎの主は、まさか、自分の身に降り注ぐとは、思ってもいないだろうが、根本となる考えからすれば、適用範囲内と思える。戦前との類似が、時に、取り沙汰されるが、そういえば、歴史の時間には、あの頃の言論の中心を担った人々が、次々に、捕らえられていった事実を、習ったような記憶がある。さて、当時とは違うのか、誰にも確信はない。事が起き、ある方向に、突き進み始めたら、予想外の展開となり、範囲拡大とも思える措置が、取られかねない。その意味で、一番気になるのは、集中砲火の模様であり、こういう一辺倒の成り行きが、まさに、危機を招くことになる、ということだ。果たして、自制がかかるのか、怪しいものとしか思えない。

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4月26日(水)−規則で縛る

 誰も訪れないのだから、反響を期待することもできない。だからと言って、止めてしまえ、とは思ってはいない。こんなことを書き続けることに、何かしらの意味があるに違いない、と思っているからだ。自分の考えを纏める、様々な可能性を考える、などといったことに。
 では、独り言は、独り善がりにならないのか。その可能性は、無いとは言えない。がしかし、それでも、ここで書いてみて、纏めた考えを、違う場で試してみる、ということができる。そこでの反響は、確かに、立場や地位を組み入れた上での、ものとなるのだが、それでも、個人の考えとして、反応を見ることができる。その中で、返ってくる反応の一部には、分かり難い、というものがある。ここで書く時もそうだが、受け手の判断に期待し、それにより、結果が異なってもいい、という思いを抱きつつ、書き綴っている。となれば、現実の場面でも、人それぞれに、異なる受け取り方が出てきて、混乱する人も出てくるだろう。鵜呑みにするのではなく、考えて欲しい、という思いがあるのだから、当然の成り行きだと思う。しかし、こんな手間を、嫌う人が多い時代には、こんな話は、好まれなくなる。例えば、検索の功罪を語る上で、信頼度の問題は、重要なものとなるが、教育の現場では、駄目出しをすることで、禁じてしまうようだ。確かに、鵜呑みを繰り返してきた人々を、ただ放置するだけでは、そういう不確かな情報源にも、飛びついてしまうだろう。だから、禁止する、というのでは、まるで、中等教育での「校則」のようではないか。社会に出る人々を、幼稚なままにしたいなら別だが、少なくとも、判断力を備えさせたいのであれば、禁じるだけでは駄目で、そこに考えるきっかけを、与えることこそが、肝心となる。手っ取り早さを求め、安易に走ることで、肝心なことを、見落とす現状は、こんなところから、生まれているのだろう。

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4月25日(火)−信じ込む

 教えて貰うことに、慣れてしまった人々の、成れの果てなのではないか。何事も、鵜呑みにして、それらに振り回される。悪い結果を得たとしても、次こそは、とばかり、また信じてしまう。何しろ、学校では、素直に振る舞うことで、良い子と呼ばれ、成績も伴っていたのだから。
 こんな形で育った人々の、信じる根拠は、無いに等しい。誰の言葉でも、何となく、心地よく響けば、それが、信じるに値するとなる。論理は微塵もなく、心情のみで、行動する訳だ。そうなった原因の一つは、学校教育にあると言われる。言われた通りにすれば、何事も無難に運ぶ。学校で足りない部分は、塾が補ってくれ、信じる者は救われる、となる訳だ。だが、目標達成の為に、必要な要素を、授けて貰う時には、通用したことが、玉石混交の、波立つ社会に漕ぎ出すと、他人を騙す為の言葉が、数々並べられる。それらの中から、信じるに値するものを、選ばねばならないが、受け身を続けた人々に、その手立てはない。本来ならば、素直な子供から、大人への階段を、上がり始めた瞬間から、疑いを挟むことを、試し始めるのだが、それさえ、嫌われることを、忌避することから、避けて通った結果、未熟な大人達が、街に溢れることとなる。隣も同じであれば、安心できるとばかり、心情は、安定したままだが、実際には、様々に騙され続け、時には、命の危険にさえ、晒されかねない。どうしたらいいのか、その答えは、見えている筈だ。にも拘らず、それを実行しないのは、まさに、自己責任なのである。大人になることは、様々な苦しみを伴う。それを避けて、安易な道を歩んだ結果、窮地に追い込まれたら、やはり、楽な道を選んだ、自分の責任となる。そんな人々に、優しい言葉をかける人は、必ずしも、味方でないことにも、気付くべきだろう。どちらにしても、多少の困難は、当たり前と思うべきだ。

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4月24日(月)−愚の骨頂

 発信ができるようになり、自己主張が可能となって、どんな変化が起きたのか。一番大きなものは、権利主張なのだろう。どんな権利があるのか、人それぞれなのだが、総じて言えそうなのは、他人への要求、という形の権利主張だろう。自分がこうするのだから、他の人も、という訳だ。
 以前から、こんな言動を続ける人は、少数ながら居たようだ。だが、最近の傾向では、この数が膨大に上ると思え、情報発信の多くは、自らの考えを掲げると共に、他人への要求を添えている。それも、同じ立場の人を、対象とするのではなく、上に立つ人間を、標的とするものが、多いようだ。当然、国の中に暮らせば、国を相手とした、権利主張が主体となる。出す物を減らし、入る物を増やす、というのも、その一つで、納めるべき税金は、減る方向への要求が、強まるばかりだが、その一方で、保障と呼ぶべき権利については、更なる増額を求め続ける。個人的な問題も、こんな形で大きくなり続けるが、そこから生まれる考え方で、税金を使う事業に対しても、声を大にして、意見を突きつけている。社会保障の多くは、その標的となるが、それとは全く異なるものにまで、こんな傾向が強まり、様々な障壁が築かれている。当事者にとって、納税者の意見、という切り札は、反論の余地を無くし、窮屈な状況を、更に悪化させるものとなる。まるで、それが当然のように振る舞う、役所の態度には、呆れるばかりだが、民意などと持ち出す、政治家達の無能ぶりも、呆然とするだけだ。どちらに向かえばいいのか、誰にも判らない時代だからこそ、闇雲でもいいから、あらゆる方向を試す必要がある。そこでは、確実な道などある筈もなく、思いつく限りの可能性を、試していくことが大切だろう。そんな時に、あれこれ文句を並べるのは、やはり愚の骨頂となるだけなのだ。

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