歴史を学ぶことの大切さは、様々な場面で取り上げられるが、その真意は、定かでないことが多い。学ぶべきことが多い、という理由も、良い面も悪い面も含め、様々な解釈の上で、反応も色々となる。施政者にとっては、それを利用して、国を治めるのに役立てようとする。時に、曲がった形で。
曲げられた歴史では、事実と反することも、見え隠れする。それでも、国として、保証した内容なのだから、となるようだが、所詮、捏造や歪曲の結果であり、事実と異なることとなる。だが、同じ国の中に居る限り、その誤りを指摘することは、難しくなる。国の方針として、ある方向に進むと決めた以上、それに沿った形の筋書きが、必要となる。そこには、脚色もあるだろうし、解釈の違いと片付けるべきこともあるだろう。その結果、別の見方からすれば、事実と異なるとなるのだろうが、全体が管理されている中では、それを追求することも困難だ。そこでは、外からの視点として、様々な指摘がなされ、それによって、事実がどちらなのかが、決められると言う。だが、これとても、それぞれの主観からくるものであり、真の意味の客観とは、異なってくる場合が多い。それが、国と国の衝突へと繋がり、仲違いが起きたり、いがみ合いが生じる。事実は一つしかない筈なのに、何故、このようなことが起きるのか。国と国の間だから、ということは、あり得ないだろう。人と人の間でも、同じようなことは、簡単に起きるからだ。それが偶々大きな規模となり、二国間、あるいは、多国間の問題となる。歴史から学びたくとも、そこにある事実が、そうでないものだとしたら、何を学ぶというのか。そんなことが繰り返されながら、長い歴史が築かれてきた。学ぶべきは、そのものではなく、それが成立してきた過程や、歪曲などの理由などかもしれない。見極める力は、こんなところでも、活躍しそうだ。
少子高齢化社会に、良いことなどは何もない、という考えもあるだろう。だが、増加の一途をたどることが、本当に良いのか、と尋ねられたら、そういう考えの人から、どんな答えが返ってくるのか。大したものは、出てこないのではないか。大変だ、大変だ、と騒ぐだけの人々なのだ。
では、何か、良いことがあるのか。おそらく、現状のように、減少傾向にあることに、良いことは、殆どないだろう。働き手が少なくなり、生産性が低下すれば、様々な障害が起きるからだ。その対策として、外からのものを求めようとする動きも、あるにはあるが、こちらも、付け焼き刃的なものに過ぎず、根本解決を、目指しているとは、とても思えない。ある均衡の中で、豊かな生活を保つことは、実は、それほど難しいことではない。ただ、均衡を保つことこそが、殆ど不可能に近く、常に上下させながら、結果的に、ある値の近くを、動き回るという形が、どちらかと言えば、近いものになるのでは、ないだろうか。一方、高齢者の割合が増えることも、心配の種となるようだが、こちらも、程度問題とは言え、それなりの落ち着かせ方は、あるのではないか。それより、人々の日々の生活の中で、若い人々と、年寄り達が、共生することの方が、よほど大きな利点がありそうに、思えてくる。こんな考えを持つ人は、実は少ないようで、心配を膨らませて、騒ぐ人の方が、遥かに多いのだろうが、それでも、巧く進めていけば、心配する程のことは、ないように思う。年長者に対する、態度の問題など、最近は、あまり問題とされないのも、生活の豊かさが、ある水準を超え、心にゆとりができたからか、共存することが、さほど難しいことではないと、皆が認識している為と思われる。成長期にある国では、そんな余裕はなく、他人を押しのけてでも、自分の権利を守ろうとするから、弱者たる年寄りは、どこか、疎外される存在となるようだ。
報道の自由、という指標が、国ごとの違いとして、発表されたという。ある地域の国々が、当然の如く、上位を占める結果となったようだが、当然の理由が、はっきりしない。情報の発信源と、伝達者の間に、何らかの信頼関係が、あるかどうかが、肝心と思われるが、はて、何を見るのだろう。
自由の有無とは異なる、何か別の指標が適用されているように、見えるのだが、それが何か、見えてこない。一方で、国民にとって、自由の保障は、なされているように見えて、実際には、それほどのものではないと、その調査の結果は、示しているようにも見える。だが、これらを示す尺度がどこにあるのか、受け取る側にとっては、明確になっていないのではないか。それもまた、報道に関わる人々が、仲介をしている訳で、何らかの思惑が、入り込む余地はないのかと、つい、穿った見方をしたくなるものだ。これまでにも、そういう話は、数多あった訳で、それをどう扱うかは、報道に携わる人々の、判断に委ねられてきた。だからこそ、そこにあるべき自由が、肝心とばかりに、この結果が、伝えられているのではないか。だとしたら、そこには、客観的な判断というより、主観に大きく影響された、判断がなされたと、考えるべきではないか。となると、このあたりの内容を、どう受け取るべきかは、もう少し、慎重に考えた方が良さそうだ。最近の情報操作において、このようなことは、日常的に起きており、何がどう確かなものなのか、どう判断すべきか、迷う所となる。これという決まりがある訳でもなく、決め手となる材料も、提供されていないのだから、何をどうするにしても、個人としての判断しか、残り得ない。だとしたら、ある意味、どうでもいいことと、片付けても良さそうに見える。あの業界の人々だけが、勝手に騒いでいることと、しても良さそうに。
国の立ち位置を決めるもの、という解釈もあるようだが、真剣に考える人ばかり、とは限らない。施行されてから、半世紀以上の時を経て、改正の意見が、喧しく流されているが、物心ついた頃から、ごく自然に、そんなものがあると、学んできた年代にとっては、一部の除き、何を今更、との思いとなる。
決めた頃に、成人していた人の数は、何十年も経てば、減り続けるのは当然だ。その中で、変えた方がいい、との主張を、繰り返す人々も、若い世代へと移るのも、当然だ。そんな人々が、要職に就き、自らの力で、変えようと働きかけることには、何の違和感も抱かないが、それでも、変えねばならない、という意見には、賛同しかねる。それも、そこに謳われた主張に、どんな意味があるのか、という議論より、他人が考えた、とか、他国から押し付けられた、とか、そんなことを、理由の一つに挙げるようでは、本末転倒、という思いしか、出てこない。それでも、長年抱いてきた、最重要の課題、とばかりに、一気に押し切ろうとすれば、当然の如く、反対の声も高まるし、横暴との批判も増える。本人達は、至って真面目に、自らの役目と、自認しているのだろうが、その目的は、と問われても、大した返答が戻らないのでは、信頼に値する、とは思えない。政の一つ、と言ってしまえば、その通りなのだが、それにしても、他にも重要事が山積しており、こんなことに、血道をあげるのは、馬鹿げたことのようにも、感じられる。大真面目な主張を、馬鹿と片付けたのでは、失礼千万となるかもしれないが、一体全体、何をどうしたいのか、真意を表に出さずに、勝手な変更を押し付けるのでは、やはり、価値を見出すことは、難しいと言わざるを得ない。私達の年代が、生きている間に、何かが起きるとしたら、結局は、対外的な要因が、大きく変化するしかないと、思えるのだが、どうだろう。
全国が、様々に動き回る、そんな季節がやってきた。大いなる無駄、とも揶揄されるが、当人達にとっては、そんなことに、かまっている暇さえない。計画を立て、それを実行に移すことが、最優先事項となる。しかし、同じ思いを抱く人々が、あらゆる場所に溢れており、障害が立ち塞がる。
無駄と断じる人々からすれば、全く違う時季に、出かければ済むこと、となるのだろうが、休暇を取ることを、まるで悪事を働くかの如く、感じる人々にとって、他人とは異なる行動を、起こすことさえ、躊躇いの対象となる。この時期に、働く人々の多くは、まさに、その通り、別の日に休みを取り、ゆったりと過ごすのだが、それが叶わぬ人は、大勢居るのだろう。だからこそ、多くの行楽地は、異常な混雑ぶりを示し、そちらに出かける為の拠点は、身動きが取れない程の、数の人を集める。それが、時間や資源の無駄と、断じるのは勝手だが、それでも、楽しんでいられる人にとっては、戯言としか、映らないだろう。毎年やってくるだけに、何の変化も求めない人にとっては、例の如くの、まるで僧侶の修行の場のような、状況が繰り返される。そんなことは、どうでもいい、とばかりに、いつものように、出かける訳なのだから、放っておいて欲しいと、思うのも、無理はないのだろう。そんな喧騒が繰り返され、例年通りの騒ぎの末に、疲れ切った人々が、日常へと舞い戻ってくる。楽しめたのなら、まだマシで、良い思い出が、作れなかったとしたら、来年こそは、と願うだけのことだ。反省など、あり得ない話だし、改善は、いつものように、計画倒れとなる。やれやれ、といったところか。
春先、不調に苦しむ人が多い。花粉によるものとされ、直接の原因は、それ以外にない、と言われるが、それにしても、不思議なことが多い。嘗て、植林が盛んだった頃から、全国的に、植え付け面積は、増し続けてきた。それが原因との見方もあるが、それにしても、と思うことが多い。
例えば、元凶とされる樹木の数は、都会より、田舎の方が、遥かに多い筈だ。にも拘らず、悩みを訴える人の数は、都会に集中している。意を決して、引っ越したら、急に軽減した、という話もあり、何かしらの複合要因が、あるように思える。大気汚染も、その一つと言われるが、汚染の度合いは、半世紀程前の方が、遥かに深刻だった。こうなると、食生活の変化に、原因を求めるしかない。だが、その根源は、中々見出せそうにない。添加物の問題も、様々に言及されるが、これという決め手はない。また、食肉における添加物、所謂、飼育時に用いられる薬剤に、注目しようとする動きもあるが、こちらも、犯人を絞り込む程には、調査が行き届いていない。何かしらの変化が、国民病と呼ばれる程の、患者数の増加に結びついた、と考えるのだろうが、一方で、衛生面での整備が、逆の効果を招いたとの指摘もある。寄生虫の駆除が、体の反応に変化を及ぼした、という見解だ。今更、汚い環境を取り戻す、とは誰も願わないが、人間の体の反応とは、なんとも不思議な均衡に保たれている、ということか。同じようなことが、加齢現象の一つとして、社会問題と化している、痴呆症に関しても、当てはまりそうだ。平均寿命が伸びたから、ということだけでは、これ程多くの患者数の説明が、出来るわけでもなく、では、何か別の原因は、と問うたとしても、答えは、未だに見出せない。こちらも、食生活の中に、何かがありそうに思えるが、決め手はないままだ。このままでは、不安が募り、余計に悪化しそうに思えるだけに、病気ではない、とでも言ってくれた方が、余程ましなのかも。
毎年のことだから、耳目を集められなくなっているが、陥った人々は、深い淵に落ち込むような、感覚を抱いているようだ。新しい環境に移り、心機一転とばかりに、張り切って始めた人が居る一方、不安を抱きつつ、腰が引けた状態の人も居る。何方が陥るかは、実は、定かではない。
精神的な不安定が、徐々に進んだ所で、長い休みが入ることは、回復の時間を与える場合もあるが、逆に、症状を重くし、習慣化しかけた生活を、見失う場合もある。人それぞれ、と言ってしまえば、それまでなのだが、どこが違うのか、誰にも分かっていないだけに、何方に転ぶか、運次第とも見える。ただ、何方にしても、そこからの回復を目指さねば、元も子も無くなりかねない。それぞれに、講じられる手立てを、備えておく必要があるのかもしれない。昔も今も、こんな人が、毎年現れるのだが、今の方が、遥かに大きな騒ぎとなる。何故なのか、不思議に思う人も居るだろうが、病気と診ることが、大きな要因の一つではないか。病気には原因があり、それを解決せねば、回復することがない、と見做せば、治療が必要となるが、昔は、そんな手当もせずに、放置した場合が、殆どだった。それでも、いつの間にか、回復していっただけでなく、実は、今よりも、病状なるものが、重くならずに済んだ、ような気がしている。病気という宣告に、安心を抱く人も居るだろうが、逆の場合も多い。逃れようのない状況、と受け取る人間にとって、治療は、苦しい道と見えているだろう。心の不安に、更なる圧力をかけることに、違和感を覚える人も多い。だが、まずは診断、とばかりに、まるでそれが始めの一歩のように、扱われるのでは、避けることも難しい。日々の出来事を、覚え難くなったと、自覚する人は、今も昔も、数多居ただろうが、診断の道により、本当に救われたのか、疑わしいと思う。周囲に、扱い方を教えることが、救いとなる場合もあろうが、それ以外の、悪影響の方が、大きいようにも思える。