パンチの独り言

(5月8日〜5月14日)
(幸不幸、試行錯誤、聞こえぬ、悪い奴、新発見、日和る、わかった)



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5月14日(日)−わかった

 わかるとは、どんなことなのだろう。漢字で書くと、分かる、判る、解る、などと、色々に変換される。それぞれに、微妙に意味が異なるが、どれにしても、受け手の感覚であることに、変わりはない。では、微妙な意味の違いは、どんな感覚の違いになるのだろうか。
 わかった、と部下に対して、上司が発する場合、理解した、という意味より、納得した、という意味に、なることが多いらしい。それに対して、部下が、わかりました、と発する時には、理解した、という意味になるのではないか。上下関係でも、こんな使い方の違いが出てくるが、教室や講堂では、どんな感覚になるのだろうか。ここでも、理解する、という意味で使われることが多いが、時には、納得する、という感覚に近いものが、あるらしい。自分が思っていたことと、話の内容が、ある程度合致した時、人は、納得する。それを、わかった、と表現するのだ。逆に見れば、自分の考えと、違う内容だった場合には、納得できず、その気持ちを表すために、わからなかった、となる。これは、話し手の立場から見ると、困った状況に思える。わかりやすい話を、という思いで、準備してきたのに、自分と意見が違うから、ということで、わからないとされたのでは、心外と思えてくる。意見の相違は、誰にもあるもので、それを、わからない、とするのは、明らかな間違いとなる。相違があると、結論付けられるのは、内容が理解できたからで、その点から言えば、話し手の目的は、達成できたとなるからだ。こう見ると、そんな使い方に、慣れてしまった人々から、わかったとの一言を、引き出すことは、とても難しいと思える。未知の事柄に、初めて接した時、誰もが戸惑うものだが、それに、説明が付け加えられた時、こんな考えを持つ人の反応は、二つに分かれる。理解できなかった、というものと、理解できたけれども、自身の意見を持ち合わせないので、比較ができない、というものだ。この論法で言えば、どちらも、わからない、となる。まあ、気にしても、しょうがない、のだろう。

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5月13日(土)−日和る

 気の利かない奴は、嫌われると言われるが、一方で、気を使うのが、おべっかになってしまうようでは、また、嫌われることになる。どの辺りが、適度になるのか、若い人にとっては、疑問が残るところだろう。だから、大人達の様子を窺い、答えを見つけようとする。
 だが、肝心の大人達も、適度とは、とても言えない状況にある。配慮などと言えば、適度なものと、決まっているように見えるが、実際には、自分の判断に過ぎず、相手の気持ちを、理解していないことも多い。また、過度に気を使うことで、余計なことばかりとなる場合もある。こんな様子を窺っても、参考にならないばかりか、混乱が高じることにも、なりかねない。そこでは、ただ、真似をするだけでなく、岡目八目の如く、外から見て、どう感じられるかを、客観的に見極めることこそが、重要となるのだ。時に、大人達は、懇切丁寧に、教えてくれるかもしれないが、これとて、正しいやり方とは限らず、うっかり、そのまま真似ないように、気をつける必要がある。特に、高い地位を得た大人には、自負心ばかりの人が居て、配慮や気遣いに関して、一家言を持つことが多い。だが、そんな場合も、自己満足に過ぎないものばかりで、参考にならない。模倣するのではなく、他山の石のように、眺めておいた方が、実は、無難なのではないか。こんな配慮の多くは、旧態依然とした考えから、導き出されたものが多く、新たな展開を進める上で、障害となる場合がある。上が、こんな態度をとれば、下からの提案は、悉く潰され、折角の苦労も、水の泡となる。そこでは、単なる思い付きに、抵抗を示すことが肝心であり、提案の正当性を、主張することも、必要となる。ここで、上に日和っては、元も子も、なくなるからだ。

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5月12日(金)−新発見

 創造的な仕事に、魅力を感じる人が、多いようだが、その様子には、変化が起きている、と言われる。身近な遊びと結びつく、仕事に対する興味は、依然として高いようだが、究めるとも言われる、研究に対する興味は、徐々に薄れつつあるとある。何故なのだろうか。
 新しいことを見つける、ということに、興味を持つ子供は、依然として多いだろう。だが、その為の準備に、かなりの努力が必要となる、となると、興味が、一気に失せてしまうらしい。好きなことのために、努力を積み重ねるのは、何の苦労も感じないのに、いざ、勉強となると、何が変わるのだろう。一つには、目標を達成する為に必要だからといって、それが全て、好きなことと結びつけられず、嫌なことが山積みになると、思えるからなのだろう。本来、学びにおいて、好き嫌いを持ち込むのは、明らかに間違ったことだが、何より、好き嫌いを優先させる、風潮の中では、当然と片付けられている。一方、新発見に関しても、子供達の夢を描かせるより、それを打ち砕くような、そんな様子が見え隠れする。連日のように、紙面を賑わし、画面から流れ出す、新発見の報道は、興味を抱かせるのに、役立っているように見る向きもあるが、実際には、発見の対象が、減り続けているとの印象を抱かせ、自分が関わる頃には、大したものが、残っていないと、思う子供も多いだろう。現場では、これとは全く違う展開が起き、一つ見つかると、それに伴い新たな疑問が、より多く生じることが、よく知られている。だが、発見を強調しようとする、理解力のない記者達は、これで全てが分かったかの如く、騒ぎ立てる。その結果、更に、知識のない子供やその親達が、夢も希望もなくしてしまう。こんなことなら、何も伝えない方が、余程ましではないか。

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5月11日(木)−悪い奴

 解釈とか、運用とか、規則に関して、微妙なものも含め、様々な変更を、持ち込む人々が、屡々用いる表現だろう。そこでは、原則は、守られるべきだが、その範囲内であれば、ある程度の変更は、認められる、とされる。だが、その程度はどこまでか、示されることはないようだ。
 となると、試してみなければ、判らないとなるらしい。だが、規則は、守られるべきもので、それを逸脱することは、厳しく禁じられている。その中で、新たな解釈を、当てはめてみたり、運用での処理に、任せてみたり、思惑に沿った形の、変更を進めようとする、人々が居る。彼らの目的は、ある意味、はっきりしており、何かを達成する為、だけなのだろう。しかし、規則に縛られる中では、その達成が難しく、本来ならば、規則を変えることも、一つの方法となる。だが、これに関しては、様々な反対が起きる可能性があり、その為に、時間をかけることも、大いなる無駄とみられているのだ。そこで、原則には反せず、現行の規則の範囲内にある、と主張することで、正当なものであるとした上で、軽微な変更ということを、強調する為に、解釈の問題や、運用上のものとの見方を示す。一見、問題が起きないように、思えるやり方だが、その実、怪しい動きが、水面下で蠢いている。解釈の多くは、所詮、自ら編み出したものに過ぎず、客観性に乏しいから、吟味には耐えないことが多く、規則の範囲を、逸脱することとなる。また、運用に関しても、場当たり的な対応となり、軽微な変更と思われたものが、繰り返しにより、適用範囲を外れてしまう。結局、主体となる人々の、身勝手な思惑が、現実となった途端に、原則も、規則も、無力化されてしまう。どこが悪いか。守らない奴が、悪いに決まっている。

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5月10日(水)−聞こえぬ

 他人の話を聞くことに関して、できないのか、しないのか、聞く耳を持たない、若者達が増えているようだ。大人は、自分の都合で、耳を塞ぐことが多いが、若者の場合、都合云々に無関係に、聞いているふりばかりで、何も届いていないことが多い。その為、肝心の指示も、届いていないのだ。
 関心を持たないから、という言い訳も、よく聞こえてくるが、実際には、そんなものとは無関係に、何も届かないことが多い。何故か、という問いに、的確な答えを、出すことは難しい。何故なら、本人達も、何故か、ということが、わかっていないからだ。表面的には、集中力の欠如が、第一の原因と思われるが、肝心の、集中という行為が、何かが分からぬ人間に、何をすべきか、解る筈がない。耳が塞がれている訳でもないのに、何故、届かないのか。それは、脳の処理が、追いついていないからではないか。音として、認識されて、それを司る、脳の部分に、信号は届いたとしても、それを情報として、処理すべき場所が、何もしないのでは、情報が記録されることはない。こんな書き方をしても、自分の頭の中で、何が起きているのか、意識したことのない人間には、何のことやら、さっぱりわからない、となるだろう。だが、本来なら、理解できてなくても、自然に、行われるべきことが、起きない頭の中では、情報は、たとえ入ってきても、そのまま、何の処理もされずに、外に排出される。その場で、鸚鵡返しのように、言葉を繰り返したとしても、それは、口から出た途端に、何処かへ消え去ってしまう。こんな処理能力しか備えない、そんな人間が、巷に溢れるようになり、世の中は、様々なことで、滞ることとなった。これでは、将来は、暗いものにしかならない。が、果たして、その通りの展開となるのか、はたまた、不足部分は、何らかの形で、徐々に、補われるのだろうか。

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5月9日(火)−試行錯誤

 所詮、自分のできることは、大したことはない、と思ったことは、ないだろうか。諦めが肝心、などと言われ、冷めた目で、自分を眺めることは、正当な自己評価へと、繋がるとされるのだが、この考えは、うっかりすると、全く違う方に向かいかねない。どうせ、駄目だろうと。
 やっても無駄なら、やらなくてもいい、と考えることに、最近の若者は、何の違和感も、抱かないと言われる。無駄を減らそう、とする心理なのだろうが、では、こんな問いに、どう答えるというのか。無駄かどうかは、どのように判断したのか。謙遜や遠慮というのが、この国の人々の、考えの基礎にあると言われる。だが、若者達の考え方は、実は、謙遜とは、程遠いものなのではないか。自己評価をした上で、それを過少申告するのが、謙遜と似た考えだろうが、若者にとっては、評価も申告も、実は過大なものと、なる場合が多い。できる筈とか、能力はあるとか、本人の口から出て、呆気にとられることも多い。本人は、何の意識もなく、こんな考えを、当然と捉えているのに、何故、難しいと思われる課題に、立ち向かう際には、無理という考えに至るのか、不思議としか思えない。やってみなけりゃわからない、という考えも、彼らには、馴染みのないものらしい。大きく見せようとする気持ちが、空回りするのは、このようにねじ曲がった考え方に、執着するからだろう。試すことの重要性は、様々な場面で、強調されるのだが、それが、彼らに届くことは、殆どないようだ。結果として、歩み出せず、躊躇したまま、立ち尽くすことになる。場合によっては、それをきっかけに、舞台を降りてしまい、自ら身を引くこととなる。確かに、歩むべき道に、留まることだけが、重要という訳ではないが、だからと言って、すぐに、姿を消してしまって、何になると言うのか。戸惑っても、ぶつかってみなければ、何も見えてこないのだから。

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5月8日(月)−幸不幸

 国境のない時代、などと言われるが、現実は、大きく異なるのではないか。確かに、世界を飛び回る情報は、どんな場所にも、入り込むことができ、誰もが、あらゆる情報を、手に入れられるとされる。だが、現実には、国ごとに、様々な制限がかけられ、制御下に置かれている。
 何にでも抜け道があり、どんな制限も、完璧とはならない、と言われるが、一部の例外を無視すれば、思い通りの形を、実現できる。その目的は、それぞれにあるのだろう。国の体制に、反する動きを、押さえつけようとする、そんな目的もあるだろうし、宗教などによる、束縛を反映したものともなる。自由な情報交換を、実現した仕組みとして、評価が高いものだが、実際には、全く逆の力を、施政者達に、与えることとなった。それは、情報の流れが、末端に向かって広がることが、逆に言えば、上流で、少数の発信源に、絞れるところにある。ある国では、それは、たった一つの機関となり、そこで全てが制御できる、ことを意味する。そこまで、極端にはならなくとも、自由主義とは異なる体制を、築いている国々の殆どは、かなり極端な制限を、かけているようだ。まるで、隣人に話しかけるように、見ず知らずの人間と、会話を楽しめる仕組みに、自由を謳歌していると、思い込む人は多いが、現実には、制限下の自由に過ぎず、不穏な動きは、未然に防がれる。所詮、国の体制などというものは、そんなものである、との解釈もあろうが、表面的な誤魔化しが、今後、どのような展開を招くのか、施政者達の悩みは、尽きないらしい。抜け道が、更に広がれば、制御不能に陥る可能性も、出てくるだろう。そうなってからでは、遅いとばかり、圧力を高め続ける国も多く、歪みは、高まり続ける。革命などが、水面下での準備の末に、実行された時代と違い、今では、当局に、全てが握られている。そんな違いに、気付かぬ人々は、果たして、幸せなのか、不幸せなのか。

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